現代アニメ批評 #5『チ。ー地球の運動についてー』
「現代アニメ批評」では、幅広いアニメ作品の中から話題の(もしくはちょっとマニアックな)作品を取り上げ、アニメ鑑賞をより深く楽しむための批評を連載していきます。
アニメシーンにおいて2025年は間違いなく当たり年だった。テレビアニメが豊作だったことに加え、劇場版アニメも『鬼滅の刃』『チェンソーマン』『呪術廻戦』といったビッグタイトルが夏から秋にかけて順次公開され、冬に公開された『果てしなきスカーレット』が論争を巻き起こし、2025年は賑やかに暮れていった。
さて、時を2025年の初頭まで巻き戻そう。
2025年は、あるアニメの話題で幕を開ける。そのアニメは、2024年10月から2025年3月まで連続2クールでテレビ放映されていた。もともと原作漫画も非常に高い評価を得ていた注目作ではあった。しかし、その原作の良さを十分に生かした上で、サカナクションが手がけた主題歌やあの衝撃的で残酷な内容をNHKで放送したことも含め、アニメは原作漫画以上に大きな話題になっていたと言っても過言ではないだろう。そのアニメこそ、若き天才漫画家魚豊が描き上げた同名漫画を原作とする『チ。-地球の運動について-』である。
「地」=「知」=「血」をめぐる人々の激動の物語
物語は、15世紀の「P王国」(後にコペルニクスを生むポーランドをモチーフとしている)を舞台に、それまで支配的な考え方だった天動説を乗り越えて地動説が現れるまでの激動の時代が描かれる。
おもしろいのは、漫画の単行本にしてたった8巻分の内容ながら、内容が4章に分かれ、その都度主人公が変わるというところだ。いや、物語の主人公はあくまで地動説であり、その地動説に突き動かされた人々が、命を賭してそれを繋いでいく、というところにこの作品の面白さがある。
天文学に惹かれる秀才少年ラファウ。現世に絶望し、早く天国に行きたいと願う代闘士のオクジー。教会のやり方に逆らい、真理の追求へと猛進する修道士のバデーニ。女性であることで様々な差別を受けながらも宇宙論の研究を志すヨレンタ。無神論者であり、地動説によって金儲けを企む移動民族の少女ラドゥカ。その他様々な人々が、地動説に人生を賭け、同時にその人生を地動説に翻弄される。
地動説はC教(言うまでもなくキリスト教をモチーフとする)の教会正統派から宗教的弾圧を受けており、研究していることがもしばれれば、拷問を受け、処刑される未来が待っている。タイトルの『チ。』とは、地動説の“地”であるとともに、地動説を生み出す “知” であり、そして彼女/彼らが流した“血”でもある。
硬派なセリフを聴かせる工夫が随所に光る
『チ。』の特筆すべき点は、何よりもまず登場人物たちから生み出される魅力的な台詞の数々であり、作品の随所に散りばめられたパンチラインである。作品全体が、これらのパンチラインを中心に構成されているようにさえ思える。逆に言えば、細部まで行き渡る洗練された緻密さのようなものには欠けている作品でもある。
正直なところ、15世紀を舞台にしているはずの登場人物たちの発言や考え方には、所々に違和感を覚える。例えば、ラファウのことを、現代日本のネットスラング的なニュアンスで「神」と称する友人など、第1話から台詞への違和感は拭えない。だが、物語の序盤には気になっていた、台詞のごつごつとした違和感は、徐々に作品に視聴者を引き付けるフックになっていく。
長尺で思弁的な台詞回しや専門用語の羅列など、『チ。』の台詞の書かれ方は、到底アニメ向きとは言えない。漫画であれば、長台詞のページはじっくり読み込むことができるし、一度に理解しきれなければ読み返しても良い。アニメとしてこの作品を成立させるためには、台詞が違和感なく作品になじんでいることよりも、台詞が作品の中で異物として存在感を放ち、視聴者が台詞に対して高いアテンションを保ち続けることが必要不可欠なのだ。
アニメーションの面において、台詞を生かす特徴の一つが画面の暗さだろう。
こんなに暗い画面がずっと続くアニメは、これまで観た記憶がない。視聴する部屋が明るいとほとんど画面が見えない、というようなシーンも度々ある。視覚情報を削ぎ落とし、台詞に集中させるような演出がしばしば見受けられる。
「地」を連想させる作品タイトルとは対照的に、アニメとしてのこの作品の白眉は「天」の描かれ方である。近年のアニメーションは「動き」を売りにしたものが多いが、この作品の肝は明暗が反転する瞬間にあり、それはまさに、“天動説から地動説へ”というこの世界の見え方そのものの反転を想起させる。
そういったアニメーション面での工夫に、全体として抑制が効いたテンポの刻み方、声優陣の芝居の巧みさが加わり、心を震わせる名台詞が生きてくる。思弁的な長台詞が全く苦にならない、それどころかキャラクターたちの問答をいつまでも聞いていたい、と思わせるような仕上がりになっている。
「不変の前提」を問い直すことの恐怖と自由
さて、この作品では天動説から地動説へというパラダイムシフトの時代の“前夜”、この大きな波の前に恐れ(畏れ)、慄き、それでも前に進もうとする人々が痛々しく描かれる。
では、天動説を捨てて地動説を受け入れることはなぜそれほどの困難を伴うのだろうか。
それは、当時の人々にとって地動説を受け入れることが、自身が依って立つ足場そのものを失うこと、存在を支える根拠を失うことに等しいからだろう。
我々は皆、この世界の上に自身の足で立つために、揺るぎない足場を必要とする。この連載の初回にも書いたことだが、人は誰しも、経験則や人生観、常識や慣習といった内面的・社会的な固定観念によって、この世界に自身が依って立つための足場を築く。自身のアイデンティティが揺らがないために、足場はしっかりしていればいるだけ良い。人は、この世界に自分の足でしっかりと立つために、自身の足場を絶対化しようとする生き物だ。
私が今立っている足場、まさにこの大地が、実は不安定に動き続けているということ。私の存在を支えていた普遍/不変の足場が、実は常に変わり続け、動き続けているということ。永遠不滅のものなど存在せず、全ては移り変わるということ。そのことを認めざるを得ないこと。それはまさに、私が私としてこの世界の中に確かに存在しており、これからも存在し続ける、ということを信じるための“動かざる根拠”を失うということに等しい。
登場人物たちにとって、地動説を唱えるということは、我々が生きるこの世界を動かすことに等しい暴挙であり、私という存在の足場が揺らぐ恐ろしい出来事でもある。
ピャスト伯はイカロスの神話に擬えて言う。「彼の誤りは、太陽に挑んだ傲慢さではない。蝋が溶けるという父の警告を軽んじた無知にある。我々は蝋でダメなら鋼の翼を作り、太陽(しんり)へ挑み続ける。今、あと一歩足りてないのはその無謀さだ。」と。ラファウ、オクジー、バデーニ、ヨレンタ・・・・・・彼女/彼らは皆、大地を動かすという不遜とすら言える勇気と無謀さを持った人物たちだった。
世界を動かすには、無謀とも言える勇気が必要である。
そして、勇気を持って自身の足場を壊すことで、そこに新たな世界が生まれる。今まで自分を縛りつけていた価値観から解放され、世界の見え方が大きく変わる。
そのような意味で、真理の探究とは自由の探求でもある。新約聖書の「真理はあなたたちを自由にする」という言葉が思い出される(この言葉は国立国会図書館東京本館の壁に刻まれていることでも有名だ)。
真理が見えない世界で、どう生きるか
しかし、無謀とも言える勇気によって硬直した足場を崩したその瞬間、新たな足場が生まれる。真理や自由を求め、自身の思考の限界を作る常識や思い込みを突破しても、そこで得られた知見が新たな思考の足場となってしまう。ヨレンタは言う。「何かを根拠(ぜんてい)にしないと論理を立てられない人間理性の本質的限界として、思考すると常に何らかの権威(ぜんてい)が成り立ち、誰もその枠組みからは出られないのかもしれない。」
折れることなき信念や熱意、それは足場を失った世界に存在するための揺らぐことなき根拠となり得る。だが、それはヨレンタが言うように、自由のために命をかける「強さ」にもなり、特定の思考に自分を縛りつける「呪い」にもなる。
だからこそ、彼女は言うのだ。「信念はすぐ呪いに化ける。それは私の強さであって限界でもある。」「迷って。きっと迷いの中に倫理がある。」と。
では、絶対的な足場がないこの世界において、永遠に迷い続けることしか我々に道はないのか。バデーニが危惧するように、それはあらゆる真理を相対化するニヒリズムに過ぎないのではないか。そんな疑念を抱きながら、我々はいかなる真理も探究し得ないのではないか。
そのような意味で、ヨレンタの言う“倫理”とは、真理の否定にさえ思える。
だが、きっとそうではないはずだ。
もし、最終的に人間が真理を発見できないとしても、真理は存在する、と信じることはできる。
ヨレンタの言う“倫理”とは、真理の否定ではない。彼らが、これまで真理と思われていたものを否定して(つまり、自らが依って立つ足場を揺るがして)まで大地を動かそうとしたのは、本当の真理が存在すると信じていたからだ。迷うこと=倫理は、この私が信念に従って必死でたどり着いた結論を否定するかもしれない。だが、倫理はその苦しみの先にある“本当の真理”だけは肯定する。
彼女は言った。
神はこの世にある悪を善に変える。
それが神の意志。
神は人を通して、この世を変えようとしてる。
長い時間をかけて少しずつ。
この今は、その大いなる流れの中にある。
とどのつまり、人の生まれる意味は、その企てに、その試行錯誤に、善への鈍く果てしないにじりよりに、参加することだと思う。
「それでも問い続ける」ことが最大限の倫理
我々は、自身の自由や幸福を制限する伝統や常識にとらわれていてはいけない。自身の依って立つ足場を疑い、それが苦しく恐ろしいことでも、自分自身を支える大地を動かし、自由に向けて歩み出さなければならない。
だが、自分こそが真理を知る者だ、自分こそが自由な存在だ、と妄信してもいけない。「自由の定義は?」と問われたヨレンタは「そう問えること」と答えた。常に自分自身に問い続け、正しさを疑い続ける、そういう姿勢にこそ、倫理は宿る。
そのうえで、全ては相対的問題であり絶対的に正しい答えなど存在しない、というニヒリズムに陥ってもいけない。もし、私が真理にたどり着けなくても、あるいは人類が真理にたどり着けなくとも、それはある、と無根拠に信じることからしか、一歩は踏み出せない。
動かぬ大地=絶対的な根拠は、ハナから与えられていない。
だが、真理は、ある。自由は、ある。善は、ある。愛は、ある。
自分がもしそれに到達できなくても、人類がもしそれに到達できなくても、その鈍く果てしないにじりよりそのものが、すでに私が歩むべき道=歴史として用意されている。
その道=歴史に踏み出すとき、大地は動き、我々の前に新たな世界が出現する。
文: 冨田涼介
批評家。1990年山形県上山市生まれ。2018年に「多様に異なる愚かさのために――「2.5次元」論」で第1回すばるクリティーク賞佳作。寄稿論文に「叫びと呻きの不協和音 『峰不二子という女』論」(『ユリイカ』総特集♪岡田麿里)、「まつろわぬ被差別民 『もののけ姫』は神殺しをいかに描いたか」(『対抗言論』3号)など。
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