最新記事

最新記事一覧

雑誌スモールエスに高校生マンガ・イラストグランプリ受賞者作品が掲載されました。

[caption id="attachment_2881" align="aligncenter" width="855"] 伊藤鈴さんエス賞作品『DIY宇宙』[/caption] 2021年に開催した第19回高校生マンガ・イラストグランプリにてエス賞を受賞した伊藤鈴さんの作品とインタビューが雑誌『スモールエス』に掲載されました!作品や制作についてのインタビューや、マンガイラストグランプリ審査&受賞者展示会の様子も紹介されています。 スモールエス 2022 vol.68 3月号は2022年1月20日より全国販売中!イラストメイキングのほか、人気イラストレーターや全国から公募にて集まった優秀作品が掲載されています。 高校生/留学生マンガ・イラストグランプリではグランプリや準グランプリの他、イラストレーター賞やCLIP STUDIO PAINT賞、団体賞などさまざまな審査員にご協力いただき受賞者が決まります。今回「エス賞」受賞の副賞は雑誌スモールエスへの掲載。   ▼第19回高校生/留学生マンガ・イラストグランプリの様子はこちら [clink url="https://picon.fun/illustration/8f-wall-gallery%e3%81%ab%e3%81%a6%e7%ac%ac19%e5%9b%9e-%e9%ab%98%e6%a0%a1%e7%94%9f%ef%bc%8f%e7%95%99%e5%ad%a6%e7%94%9f%e3%83%9e%e3%83%b3%e3%82%ac%e3%83%bb%e3%82%a4%e3%83%a9%e3%82%b9%e3%83%88%e3%82%b0/"]   次回、第20回高校生/留学生マンガ・イラストグランプリも開催決定!2022年9月4日が応募締切となります。 (4月以降、情報公開となりますのでぜひNDSホームページやSNSをご確認ください◎)  

2 PicoN

イラスト

陶芸家が命を削って作り出す「器」。フォトグラファー・五十嵐隆裕のクリエーションに影響を与えるものづくりの世界

[caption id="attachment_2815" align="alignnone" width="1000"] 「刷毛目七寸皿」山田隆太郎[/caption] フォトグラファーとして独立してかれこれ10年経つ。 この仕事は現像やらプリント作業で常に手が乾かない「水商売」だから覚悟しておけ!と学生時代は先生に言われたものだが、今振り返ると独立以来手が濡れたことは一度も無い。 その代わりに、毎日大量のケーブル類と電波に囲まれ続ける10年間である。さらにこの2年ほどは現場でストロボをほとんど使わなくなったので、LEDのピーキーな定常光にずっと晒される。そしてこのLEDも日々高出力化が進んでいて、こいつらはとにかく冷静かつ攻撃的。 昔のフォトグラファーと言えば、ぎっくり&痛風(個人的感想ですよ)のイメージだった訳だが、現代では同業者と話すと、偏頭痛&鬱病。僕は勝手にこれはデジタルの弊害だと思っている。パソコンも機材も大好きだけど、体と心への負担は日々感じている。今スマホが教えてくれた「平均スクリーンタイム」は7時間4分/日。毎日睡眠時間より長くスマホを見ているのか、、、 そんなこともあり、僕は自宅では電気機器からなるべく遠ざかって暮らそうと心がけている。 食には特に時間をかける。出汁を取る、お米を研ぐ、お茶を入れる。そんな当たり前のことを毎日丁寧にすることでデジタルデトックスをしているつもりだ。 そして食事に欠かせないものといえば「器」。僕自身が器のギャラリー「FOOD FOR THOUGHT」を経営していることもあり、特に陶芸全般が大好きである。 陶芸家は、僕たち現代のフォトグラファーとは完全に真逆の世界を生きているとつくづく思う。 かいつまんで説明すると: 1. 粘土を捏ね(山に入って土から採取してくる方もいる) 2. ロクロや型で成形 3. 釉薬を掛け乾燥 4. 窯で焼成(人によっては薪窯など自然の力のみを使う) [caption id="attachment_2812" align="alignnone" width="1000"] 「青磁釉六寸皿」宮城正幸[/caption] ひとつの器ができるまでにデジタルの力は一切必要ないのである。必要なものは土と水と木と火のみ。自然と先人の知恵がベースの仕事。彼・彼女達の常に手は粘土まみれで濡れている。数多ある職業の中でも特に湿度の高い「水商売」だ。このプリミティブでサスティナブルなものづくりを仕事にして食べている陶芸家を、僕は心底尊敬しているし、うらやましく思っている。 [caption id="attachment_2814" align="alignnone" width="1000"] 「マグカップ/バイカラー」吉田直嗣[/caption] そんな陶芸家が命を削って作った器を使うこと:手で、口で、器の持つ土の滋味を感じながら食事をしたりお酒を飲んだりするのは本当に豊かなことだと思うし、炎が作り出すマチエールはデジタルでは作れないディティールに溢れていて、自分の写真のクリエーションにも確実に良い影響を与えてくれる。 常に帯電したような状態の現代フォトグラファーの皆さんにも、ぜひ器の癒しと愉しみを知っていただきたいなあ、と思う。僕の周りにも、器の沼にハマっている同業者、増えてきています、、、 [caption id="attachment_2813" align="aligncenter" width="1000"] 「鉄絵尺銅鑼鉢」城進[/caption]   FOOD FOR THOUGHT @520_igarashi 文・五十嵐 隆裕 1980年 東京都出身 2002年 日本写真芸術専門学校 卒業後渡米 同年 University of Arizona / Pima Community College 2005年 Brooks Institute of Photography 広告写真科卒業 2007年 I.C.P(International Center of Photography)ジャーナリズム科卒業 同年 MoMA/リチャード・アヴェドン・ファンデーション インターン 2008年 帰国 2011年 伊島薫氏の助手を経て独立 2014年 株式会社ゴーニーゼロ設立 2016年 SIGNO所属

25 PicoN

アート

【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.2 パーソナル・ドキュメントの幕開け 奈良原一高『王国』(講談社、1995年)鳥原学

土門拳や木村伊兵衛たちが推し進めたフォトジャーナリズムの時代が転換期を迎えつつあることを告げるように、写真界に新風を吹き込んだのが奈良原一高だった。彼が見出した主観的な切り口と鮮やかな映像美は、世界や人間を見つめる新たな方法として議論を呼び、次世代の到来を見せつけた。   事実は観念をとびこえる! 2014年11月18日から翌年の3月1日まで、東京国立近代美術館で奈良原一高「王国」展が開催された。東京での大規模展示は55年ぶりである。 「王国」は1958年の『中央公論』誌9月号に一部が掲載され、同月の富士フィルムフォトサロンで192点が展示された。さらに1970年代には2度に渡って写真集が編まれている。日本写真史における最重要作品の一つであるゆえ、断片的にオリジナルプリントを見る機会はこれまでに何度もあった。しかしこの時私は、改めて特異な衝撃を受けた。 その特異さは対極的な2つの対象、北海道のトラピスト修道院と和歌山の女子刑務所の写真による構成という点から来る。心静かな祈りを求めて人が集う信仰生活には「沈黙の園」、受刑者を閉じ込めた施設には「壁の中」という副題が冠されているのだ。 真逆の性格を持ったこの両者に、奈良原はある共通点を見ている。それは一般社会から隔絶されたうえ、日々の生活を無言で貫くという秩序を持っていることだ。内面に深く向き合うことを課した、あるいは課せられた人々はどんな精神状態で日々を過ごすのか。その一点から両者を見つめることで、人間という存在の普遍性が見えるのではないか。本作を貫くのはそんな問いである。 それは当時の奈良原自身の孤独や疎外感から生まれたテーマだった。1978年写真集「王国」のあとがきで、彼はこう述べる。 「壁は日常の心の中にとらえがたい疎外の感覚となって介在していて、当時の僕はそのような自分の内部にある不安と空しさを『王国』の場をみつめることによって超えようとしていた。事実は観念をとびこえる肉体をもっている」 『王国』には息苦しいほどの静謐さと閉塞感が満ちている。しかし見進めていくとその内向さが反転し、一種の解放感さえ浮かび上がってくるのだ。それこそが撮影を通じて得た、奈良原の肉体的な実感なのだろう。写真展の1年後、彼は『フォトアート』誌のインタビューにこう答えている。「『王国』を撮っているときになにか風通しがよくなってきたような気がするし、これからはのびのびと仕事したいと思います」 この言葉には写真家であることへの自覚と決意が込められている。しかしなぜ、それほどの閉塞感を彼は感じていたのだろう。それは写真家になった動機と経緯とが、ほかに例のないものだったからではないだろうか。   個展を巡って 奈良原が写真家として世に知られたのは1956年5月。24歳で開催した初の個展「人間の土地」が異例なほどの反響を呼んだ。展示は2年後の「王国」と同じ二部構成で、一部の「火の山の麓」は火山灰に覆われた鹿児島の黒神村が、二部の「緑なき島」は通称「軍艦島」で知られている海上炭鉱の端島が撮られている。自然に侵食される山村と自然を搾取する人口島の共通点は、過酷な環境にもかかわらず、そこに人々の暮らしが強く根差していることだった。その現実をシェルリアリスティックな感覚で描出した奈良原の展示は、当時主流だった客観的なフォトルポタージュにはない主観性と映像的なインパクトがあり、すぐに写真界の話題となった。 もちろん賛辞ばかりではない。ことに年長者たちからは批判的な意見が出された。たとえば『フォトアート』8月号での座談会では、戦前から報道写真を牽引してきた名取洋之助が「お芸術的にレイアウト」しているから「なんとなく有難くなっちゃう」が、あの構成は「いけないと思う」と語る。するとベテランの評論家である渡辺勉は「悪くいえばハッタリ」で「意識過剰があるだけ」と応じる。 翌月の『サンケイカメラ』の座談会では木村伊兵衛が「神経質すぎる」と評し、土門拳は日本の状況が抜けて「人間疎外」だけが際立つと述べた。ただし木村は奈良原が優れて知性的であると認め、土門はその斬新さを早く広い場所で展開すべきとも発言している。 一方、若い世代は彼らが求めていたものを見出していた。当時29歳の写真評論家、福島辰夫は展示会場で衝撃を受け、初対面の奈良原と深夜に及ぶまで話し込んだ。「これからの写真へと向かう同じ時代者としての共感」を強く感じた。 福島の友人である写真家の細江英公も同様の感触を得ていた。そこで福島は、翌年、奈良原と細江のほか、石元泰博、川田喜久治、川原舜、佐藤明、丹野章、東松照明、常盤とよ子、中村正也という写真界の「第三の新人」などと呼ばれていた若い写真家に声をかけ、グループ展「10人の眼」を開催する。そしてこれを機に、写真家の自立を目指した集団「VIVO」が細江、奈良原、川田、東松、佐藤、丹野の6人によって1959年に結成されるのである。 つまり「人間の土地」は世代間の断絶を浮き彫りにし、時代の変化を加速させたのだ。先行世代が目指してきたのはヒューマニズムをベースにしたフォトジャーナリズムの確立だった。ただ、その到達点は「人間の土地」展の2か月前から日本巡回展が始まったニューヨーク近代美術館の企画による史上の写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)」で示されてしまった。アメリカの価値観を見せつけた、この記念碑的なビックイベントをどう超えるか、それが日本の写真界の新たな課題となったのである。 一方で敏感な若い世代は、それ以前から新しい方法論を模索していた。端的にいえば、写真家個人と世界との関係を描き出す主観的な表現である。のちに奈良原自身が「パーソナルドキュメント」と呼んだ「人間の土地」は、まさにその典型を先駆者に実現していたからこそ、総世代に大きな反響を呼び起こしたのだった。 とはいえ「人間の土地」時点の奈良原には、写真家になる意思など毛頭なかった。当時の彼は大学院で美術史を学ぶ院生であり、その主眼は美術評論にあった。しかしたった一度だけ、自分の世界観を写真によって象徴化することに賭けたその純粋性が、時代を突き抜けてしまったのである。   青年期の終わりに 奈良原は1954年に九州を旅行した際、黒神村と端島を訪れ、過酷な土地に根差した生活に心を揺さぶられた。最初はだれかがその風景を作品化してくれればと期待したが、やがて自分がやるべきだと思い至り「人間の土地」の撮影に取りかかった。先の『フォトアート』のインタビューでは「自分が“生きる”という確証、それを前向きかたちでつかみたかった」からだと語っている。写真は「自分の中のカオス(混乱)を定着し有形化する、つまり欲求を現実化する手段」であり「写真をとらなくちゃ自分がどうなってしまうか」わからない心情だったとも。それは世界のどこにも自身の居場所を実感できないアウトサイダーの心情である。 こうした自意識の形成には、生い立ちが影響しているのだろう。奈良原は1931年に福岡で生まれたが、判事だった父の仕事の都合で幼いころから全国を転々とした。同じ学校に短くて1学期、長くても2年ほどしか通えない環境は「流離の感覚」を育てた。戦争にまつわる記憶も重要である。大戦末期、当時中学2年の奈良原は愛知県一宮市の工場に動員されていて、7月28日の大空襲に遭遇した。辛くも難を逃れたとき、目にした光景に吸い込まれた。大火に包まれる街の周囲には穏やかな田園が広がり、その上空の満月からは静かな光が放たれている。地獄と楽園が合わさったその風景は、不可解なほど美しく、一つの世界に生と死の対極的な次元が共存することを彼に示していた。 それから間もなく訪れた敗戦の日、空襲のない静かな空を「まるで生きる目的を失ったような気持ち」で見上げたという。そのエアポケットのような地点から始まった戦後は、今まで与えられた価値観がすべて否定された時代となった。少年は、生きていく基準と可能性とを自らの体験から見出さねばならない。 奈良原が道を見出すのは、父の勧めで中央大学の法科に入ってからだ。当時、家族は奈良に越していたので、休日には古寺古仏を巡り歩いた。それがきっかけで美術に目覚め、大学院では美術史を専攻することにした。しかし、アカデミックな研究は肌に合わなかったようだ。刺激を与えてくれたのは池田満寿夫、靉嘔、河原温といった同世代の美術家たちであり、奈良原も彼らのグループに参加した。それまでたしなむ程度であったカメラを「人間の土地」のために改めて手に取ると決意したのも、実作者たちを間近に見ていたからだろう。 以降、奈良原は写真家として活動しはじめるのだが、そこには不安がつきまとっていた。「その頃、僕は写真家として歩みだした自分を社会のアウトサイダーだと思っていた」のだ。 それゆえ次回作では前作の問題意識を引き継ぎつつ、それを外部からではなく内省的に深めていく必要があった。 確かに「王国」を経て奈良原の意識はより自由になり、写真家としての評価も定まった。そしてこの後には、日本だけにとどまらず「流離の感覚」によってヨーロッパ、アメリカを巡り、次々と意欲的な作品を発表していくのである。 しかし二部構成をとった作品はもう見当たらない。光惚と不安に二分された青年期の魂は、「王国」の中に、永遠に封印されたのだ。   奈良原 一高(ならはら いっこう) 1931年、福岡県生まれ。中央大学法学部卒業、早稲田大学大学院美術史専攻修士課程修了。1959年、VIVO結成。1962年よりパリで、1970年よりニューヨークで暮らした後、1974年に帰国。主な作品集に『ヨーロッパ・静止した時間』『人間の土地』『消滅した時間』『ポケット東京』など。芸術選奨文部大臣賞、日本写真協会年度賞など受賞多数。紫綬褒賞、旭日小綬賞受賞。   [clink url="https://picon.fun/photo/%e3%80%8c%e9%a2%a8%e6%99%af%e5%86%99%e7%9c%9f%e3%81%ae%e9%9d%a9%e6%96%b0-%e7%ab%b9%e5%86%85%e6%95%8f%e4%bf%a1%e3%80%8d%e6%99%82%e4%bb%a3%e3%82%92%e5%86%99%e3%81%97%e3%81%9f%e5%86%99%e7%9c%9f%e5%ae%b61/"]   文・写真評論家 鳥原学 NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。 鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

13 PicoN

写真

おすすめ記事

おすすめ記事一覧

KYOTOGRAPHIEレポート 作家インタビュー:映里[榮榮&映里(ロンロン&インリ)]

「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」は、2011年にスタートした京都で開催される国際的な写真祭。毎年、京都が華やぐ春に開催されてきたが、2021年はコロナの影響で開催が遅れ、9月18日から10月17日の開催となった。写真祭は、主催者が直接企画するメインプログラムの展覧会と、若手写真家やキュレーターを応援する公募制のKG+で構成され、多くの写真家たちの展覧会が開催される。 [caption id="attachment_2165" align="aligncenter" width="750"] アーウィン・オラフ「アヌス ミラビリス-驚異の年-」京都文化博物館 別館[/caption] [caption id="attachment_2162" align="aligncenter" width="400"] 「MEP Studio(ヨーロッパ写真美術館)による5人の女性アーティスト展 -フランスにおける写真と映像の新たな見地」HOSOO GALLERY[/caption] [caption id="attachment_2159" align="aligncenter" width="401"] 「KG+ SQUARE by Chusin」京都中央信用金庫 旧厚生センター[/caption] [caption id="attachment_2160" align="aligncenter" width="401"] 「KG+ SELECT」三条両替町ビル[/caption] 2021年は、現講師の馬場智行先生と、OGの映里(インリ)さんとパートナーの榮榮(ロンロン)さんとのユニットで、中国の写真界をリードする存在である榮榮&映里が参加していた。 馬場先生は、KG+のプログラムで、「孤独の左目」という自身の弱った目から見える光景をモチーフにした作品を、京都駅屋上の広場を使って展開していた。ガラスの壁面にかけられた大型のプリントと、段ボールの箱に入れられたプリントを床に大量に並べたユニークな展示をしていた。 [caption id="attachment_2166" align="aligncenter" width="750"] 馬場智行「孤独の左目」[/caption] [caption id="attachment_2167" align="aligncenter" width="750"] 馬場智行「孤独の左目」[/caption]   一方、榮榮&映里は、メインプログラムの一環として、京都市東部、平安神宮や国立近代美術館に隣接する岡崎地区にある琵琶湖疏水記念館の屋外スペースを使って、「即非京都」という大規模な作品を展開していた。幸いにも、映里さんが現地で作品を解説してくださったのでここでご紹介したい。 ちなみに、作品は屋外に設置された大型のプリントと円形の壁面での展示、蹴上インクラインを操作していたドラム工場内に展開した作品群と、それら二つをつなぐ通路に設置された作品の三部構成になっている。コロナ禍での進行だったので、会場が決まるのも遅れ、準備に半年もかけられなかったとのことだったが、疏水記念館という環境を上手に生かした展示になっていた。   ー 会場で一際目立つ大型作品はどのような作品ですか? 私たちはここ5、6年、大判カメラを使い京都の山の中で台風などの被害を受け荒廃した森を撮ってきました。「槁木死灰」(こうぼくしかい)という荘子の言葉があります。日本では枯れ果てた木のように肉体も心も意欲や活力を失い、一点の生気もないような状態を意味しますが、中国では「槁木」という言葉には更に深い意味があり、死に絶えたような存在も、自然界においてはその中に新しい命を宿し、その命が次に爆発的な生命を生み出してゆく、再生と生命の環の象徴としてもあり、その意味で私たちは槁木を撮ってきました。京都は千年続いた都であり文化的遺産や景観が重層的に残されている貴重な場所です。この瞬間も刻々と続いてゆく未来が石からが生まれてくるような意識、生命の環を数百年前に作られた庭園から感じることもあり、私たちは枯山水を時空を越えた存在、宇宙の象徴ととらえるようになりました。生命としての「槁木」と超越した時空の象徴としての枯山水を合わせた一枚です。   ー 外側がモノクロで、内側がカラーという構成になってるこの円形の作品について教えてください。 この展覧会は外と内、そしてそれを結ぶ世界で構成されています。ここは風が吹き抜ける骨組みの外側にモノクロの槁木、内側に水を連想するカラーの生活写真があります。お気づきの通りこの空間で一番印象深いのは疏水を背景としたこの景観だと思います。実際の水の力を感じることで作品に流れが生まれてくる。このサークルは小さい世界ですが、回遊してもらうことでその先の展示とのつながりが生まれます。今回の展示では表でも裏でもない、重層的に、また多様に存在している不明確な世界の境界を自覚する、視点を変える方法が実験的に組み込まれています。例えばここに展示したカラーの写真はそもそもこれまで作品と思えていなかった写真だったのですが、ある日突然、自分たちこそ写真なんだと声を上げはじめた。その声に気づいた時すごく戸惑いましたが結果このような形で作品となった。自分たちが排除してきたものも含め、そのすべてがあるからこそやっと「写真」として成り立っているのだとあらためて気づかされたのです。写真の多様性を受け入れていたつもりでいたけれど、気づかぬうちに視野を狭め自らの世界を小さくしてしまっていた。そもそも二人で活動することはそのような狭い世界から抜け出す為の方法だったのに。お互いが近くなりすぎていたのかもしれません。この展示を通して自分たちと写真の関係を再確認することができました。   ー 何故そうした考えにいたったのですか? そもそも「即非京都」というシリーズ自体、具体的に何かを表す為のものではないのです。何も表さないということを表すこと。つまり写真にとって、初心に立ち返る為の行為というか、そのような考えにつながっていきました。自分たちがあるから写真が生まれるというより、写真があるから自分たちが生かされている。というような禅的な考えは、京都という文化的都市の影響もありますが、考えが一転したきっかけは、京都盆地の地下にある膨大な量の地下水の存在を知ったことです。「京都」という記号が人間中心の世界から地下水の存在、約500万年前くらいの時間から現在に逆行して感じられたときに、ああ、写真もそうなんだと思ったのです。平安遷都以前にこの地に住みついていた人たちは水を司っていたと言われていて、脈々と人を生かしてきたその水により自分たちの中で色々な世界がつながった。自分たちも写真に生かされてきたのに、見えない世界をないものと捉え狭い世界を構築したつもりで、でも本当はもっと大きな世界とのつながりを受け入れて行くことが必要だったことにあらためて気づいた。新たに気づいたと言うよりは、過去に遡って気づいたと言う感じです。つまりずっとつながっていた。写真の偉大さは何時も初心に返らせてくれることですね。

241 PicoN

アート

絵描きの皆さんは、知らなきゃ損!? “ポーマニ”ってご存知ですか?

皆さん、 “ポーマニ”って聞いたことがありますか? 正式名で言うと 「POSEMANIACS」と呼ばれるこのサービス。 もしかすると、少し前から絵を描いている人の中には、お世話になっていた方も多いのではないでしょうか?   「POSEMANIACS」は、世界初の絵描きに向けたポーズ素材の配信サイトです。 文章や画像、音声などのコンテンツを配信するサイト「note」を運用をする、note株式会社のCXO深津貴之氏を中心に2007年ごろにサービスが立ち上げられました。 3D人体モデルを画像化し、Adobe Flash Playerを利用して擬似的に360度のモデルを見ることが出来るというサービスでした。その数、なんと1000体以上! ドローイングやイラストの練習を行う際に、とても便利なサイトだったのです。 しかし、2020年末にAdobe Flash Playerのサービスが終了するのと時を同じくして、ポーマニの提供も終了してしまいます。   POSEMANIACS公式サイト https://www.posemaniacs.com/   そして時は流れ2022年。クラウドファンディングも利用して、サービスが復活しました!クラウドファンディングでは、最終的に目標額の500%近い支援を受けています。 ポーマニのサービス終了から復活までの流れは、深津氏のnoteに詳しく記載されていますのでご覧くださいね。 Posemaniacs(ポーマニ)復活計画のおしらせ & お願い|深津 貴之 (fladdict) https://note.com/fladdict/n/n6710347eeb59   さて、復活を果たしたポーマニの素晴らしい点を、本日は3つご紹介いたしましょう!   ①誰もが無料で使える! 公式でも謳われているように 「誰もが無料で使えるポーズサイト」となっています! トレースをパクっているということで、炎上してしまった場面を度々見かけますが、ポーマニを使用すると、そんな心配もありません。プライベートから商用まで、著作権のリスクを恐れずに活用ができます。   ②多種多様なポーズと360度閲覧可能なモデル 以前のサービスと同じく、筋肉や骨格の作りがとても良くわかるCGモデルは健在です!さらに、WebCGとなっておりますので、自分で好きなだけグルグル回しながらモデルを見ることが出来るようになっています。カメラの焦点距離だって自由自在に変更可能! ポーズは今後も増えていくようですので、楽しみに待ちましょう。 ③Webブラウザでの利用が可能! 例えば、アプリでのみ動作するソフトであれば、デスクトップでイラストソフトと並べて描けなかったりすることがあります。ポーマニはWebブラウザ対応のため、その心配もありません。また、リンクでポーズをシェア出来たりと、活用の幅は無限大です! しかも、直感的にサクサク動かすことができます。ぜひ体験してみてくださいね。   さて、ポーマニに少し興味を持っていただけたでしょうか? これ以上、私が文章でお伝えするよりも、実際に触っていただいた方が良いでしょう! ぜひ公式サイトにアクセスして、体験してみてくださいね。 最後になりますが、このような素晴らしいサイトを開発・運営されている皆さまに、心より感謝いたします!   ■POSEMANIACS Webサイト:https://www.posemaniacs.com/ Twitter:https://twitter.com/posemaniacs  

66 PicoN

イラスト

写真家 鈴木邦弘エッセイ「テーマへの誘い」

斜めから入る陽射しによって、様々な樹木の影が重なり合い複雑な模様を編んでいた。日が暮れようとしていた。 「パトロン、今日はここに寝る」 狩猟採集民ピグミー族のガイド、ジャンクロードは私に向かってつぶやいた。 そこは、乾季のために干上がった川底の平らな部分だった。森の中で、寝る場所を探すのは意外と難しい。板根の巨木、大小の樹木、それらにまとわりつく蔓性植物、その下に繁茂する雑草、森の中では、ほとんどの人間は部外者だ。唯一部外者ではない人々が、森の民ピグミーたちだ。   私はテントを張る場所を探した。すると、干上がった川底の淵にくっきりと残る足跡を見つけた。それは巨大なものだった。「マヌー」と大声で通訳を呼んだ。マヌーはジャンクロードと一緒に来た。私はそれを指した。二人は凝視した。ジャンクロードは、地面にひざをつけ、かがみこんでその足跡をじっと見ていた。 「パトロン、大丈夫だ。ゴリはここにはいない」とジャンクロード。 私は通訳のマヌーに詳細を尋ねた。ジャンクロードと少し話したマヌーは「スズキ、大丈夫だ。この足跡はゴリラだが、3日以上前のものだ。もうこの近くにはいない」と告げた。   夕食を済ませ、コーヒーを飲んでいると、皆がざわめきだした。マヌーが私のそばに来て、「スズキ、聞こえるか」と尋ねると、森の奥の漆黒の闇を指し た。私はそちらに顔を向け、耳をそばだてた。 「エーリエ、エーリエ」という歌声が耳にとどいた。私は、マヌーの顔を見ながら、大きくうなずいた。「エーリエ、エーリエ」の歌声がよりはっきりと聞こえた。私はピグミー族の撮影をするために、コンゴ共和国の熱帯雨林の中にいた。   撮影のために、このジャングルに入るのは3度目だが、今回はピグミーたちに出会うことに苦労をしていた。移動生活をする彼らは、自分たちのテリトリーの中を獲物を求めて動き回る。川沿いの農耕民の村から食料や撮影機材を運ぶポーター、ガイド、通訳と総勢7名のグループを組んで、彼らとの出会いを求めて森の中を歩いてきた。私たちは3日目の夜を迎えていた。   しばらくすると、ジャンクロードが森の闇の中から突然目の前に現れた。そして、その脇には見知らぬピグミーがいた。 「彼はピグミーだ。近くで踊っていた。大勢いる。明日行こう」 あの森の奥にピグミーたちがキャンプを張っているのだ。やっと、彼ら彼女たちに会える。   大学4年生の終わりごろ、私は写真家を志していた。そして大学卒業後、日本写芸術真専門学校の夜間部に入学し、樋口健二氏に写真を学んだ。そこで学んだことは、テーマを見つけたら、とにかくしつこく取材撮影することだった。 写真学校卒業後、写真の仕事にはすぐ就かず、ノンフィクションライターの石飛仁氏のアシスタントを1年ほどやった。彼は、日中戦争中の中国人強制連行をライフワークにしながら、週刊誌の記者をしていた。写真家を志す人間が、なぜノンフィクションライターのアシスタントのなのか。それは、調査取材のノウハウは、ノンフィクションの文章家に就いたほうが、勉強になるだろうと考えたからだ。   文章は、対象をよく理解しなければ良い取材はできない、良い文章もその深い思考の中から出てくる。質問ひとつとっても理解と思考の深さが必要だ。それに比べて写真は、それほどの思考の深さがなくても、時々、センスだけで良いものが撮れてしまう、と当時は考えていた(その後、これは大きな間違いだと気付くのだが)。彼のところでは、指示されたものを調べたり、書いたりしていた。仕事に就いた期間は 1年ほどだが、いろいろな経験をさせてもらった。 当時彼は、日本に残った強制連行された中国人生存者の意を受けて、戦争中、使役をしていた鹿島建設と賃金交渉をしていた。その中で様々なことが起きた。例えば、まったく交渉のテーブルにつこうとしない大企業の不遜な態度やこの交渉や運動に賛同した人たちが集まり、運動を広げるための協力体制ができつつあった頃、グループは主導権争いで揉め出し、分裂し、それぞれの利益を得るために成果の横取りをしたり、等々。   私はアシスタントという最末端の立場でこれらの出来事を見ていた。それらの姿は、非常に醜いものだった。このような出来事をとおして、私は、人間という生き物、にそれまでにない関心を持つようになっていった。 私は基本的には、非常に単純な人間だ。これらの経験による疑問(人間とはどのような生き物なのか)の回答が欲しくて、人間の原点、人類がその誕生から最も長く経験した生活様式、そして、最も原始的な社会、そう、狩猟採集という世界で現在も生きる人びとを、先ず見たいと思った。そして私は、辺境の地への関心以上に、そこに生きる人間たちの在り様に興味をいだいていた。   そして2年後、私はモノクロフィルムを詰めた8×10のカメラを担ぎながら、アフリカの森の狩猟採集民ピグミーたちの間をかけまわっていた。   つづく

80 PicoN

写真