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【写真学校教師のひとりごと】vol.36 鈴木康久について

わたし菊池東太は写真家であると同時に、写真学校の教員でもあった。 そのわたしの目の前を通り過ぎていった若手写真家のタマゴやヒナたちをとりあげて、ここで紹介してみたい。その人たちはわたしの担当するゼミの所属であったり、別のゼミであったり、また学校も別の学校であったりとさまざまである。 これを読んでいる写真を学ぶ学生も作品制作に励んでいるだろうが、時代は違えど彼らの作品や制作に向かう姿が少しでも参考になれば幸いだ。 かれ鈴木康久はわたしの最初の学生である。 2年生の新学期、つまり4月にわたしが手にする初めての出席簿に鈴木の名前があった。 クラスには男4人女1人の計5人がいたが、その中の1人だ。 わたしは大学のあと日吉にある写真専門学校に行った。 その専門学校での先輩、樋口健二氏に「写真界に恩返しをしろ」という殺し文句で、この渋谷の学校に教師として配属されることになった。 わたしは祖父、叔父、従兄弟等親族に教員がいて、教師というものにまったく違和感のない環境に育った。ただ写真家としてこれから、という時期だったので、横道にそれるような気がして、躊躇するところがなかったわけではない。 この時代、写真を勉強するといえば、日大のほか、いくつかの写真専門学校があった。そして渋谷にあるこの学校の、報道科に配属された。もともと報道科には樋口ゼミがあり、そこに菊池ゼミをプラスしたという格好だ。 とにかくわたしの使命は1人でも数多く写真作家候補生を輩出することだと理解することにした。そのためには主人公である学生が、写真作品をそれなりのギャラリーで展示すること、と目標を定めた。 要するに当時わたしが、自分自身がやろうとしていたことである。 学生に「マイセルフ」とか「わが家族」とかいった課題をだしたり、「わたしの居住空間」といって、自分の存在している状況について考えたり、自分自身というものを意識、認識するように仕向けていたつもりだ。 そして「女の部屋」というタイトルの課題をだした。半年ぐらいたった2年生の年の暮れころ、まあそこそこそろったと感じたので、5人合わせて1グループとして、ニコンサロンに応募してみることをすすめた。面白ければ個人でなくてもグループでもいいだろう、と考えてのことだ。 これは様々な年齢、職業の女性を本人の部屋を背景に撮るというコンセプトだった。 1人で10枚、5人で50枚という計算だ。自然光、ライト、ストロボなど様々な光や、広角、標準など使うレンズもそれぞれ違う。 そしてこれが一番だが、5人の各々のモデルの女性に対する想いが異なるので、50枚近くの写真がいろいろバラバラで、それが思った以上に面白く感じられたので応募してみることをすすめたのだ。 そしてその翌月、授業中にニコンから学校に電話がかかってきた。選考をパスした、というのである。まだ若者専用枠もなかった時代だ。 通ると確信はしていなかったので、教室で学生たちと大騒ぎをして喜んだ。 わたしにとっては自分の写真が選考をパスしたような喜びだった。立場が違うとは言え、ニコンでの展示は経験がなかったのだ。グループ名を決めるようにニコンから指示されたので、まだ半人前という意味をふくめ、謙虚に酔惰驢鵜(ヨタロウ)と学生たちと相談して決めた。 ヤスさん、ヤスさんと皆んなから一目置かれていた鈴木康久は卒業時期というかなり重要な時間を、ニコンとの打ち合わせや、写真展にともなう5人分の雑用をグループ・ヨタロウの代表としてこなしきった。その結果、自分の就職についてなんら積極的な行動をとる時間がなくなってしまった。 鈴木は組織なりグループなど複数の人の集まりには、必要とされるタイプの男ではある。要するに自分を犠牲にしてまで、面倒をみる男なのだ。 このグループの中には後にわたしのアシスタントとして働く、勘はいいが少々短気で喧嘩早いヤツもいたが、かれもこの鈴木には一目おいてヤスさん、ヤスさんと言って慕っていた。 結局かれは集英社の系列のスタジオに就職し、現在は定年延長中である。 最後に現在の鈴木康久の作品を紹介する。     菊池東太 1943年生まれ。出版社勤務の後、フリー。 著作 ヤタヘェ~ナバホインディアン保留地から(佼成出版社) ジェロニモ追跡(草思社) 大地とともに(小峰書店) パウワウ アメリカインディアンの世界(新潮社) 二千日回峰行(佼成出版社) ほか 個展 1981年 砂漠の人びと (ミノルタフォトスペース) 1987年 二千日回峰行 (そごうデパート) 1994年 木造モルタル二階建て (コニカプラザ) 1995年 アメリカンウエスト~ミシシッピの西 (コニカプラザ) 1997年 ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年 (コニカプラザ) 2004年 足尾 (ニコンサロン) 2004年 DESERTSCAPE (コニカミノルタ) 2006年 WATERSCAPE (コニカミノルタ) 2009年 白亜紀の海 (ニコンサロン) 2013年 DESERTSCAPE-2 (コニカミノルタ) 2013年 白亜紀の海2 (ニコンサロン) 2015年 日系アメリカ人強制収容所 (ニコンサロン) ほか ↓PicoN!アプリインストールはこちら

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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.50 国交のない国で追った、写真の可能性 桑原史成『韓國原影』(三一書房、1986年) 鳥原学

ドキュメンタリー写真の価値は、その瞬間をいかに切り取るかに加え、その対象を長く見つづけることにもある。桑原史政の場合、ふたつのシリーズでそれを証明している。 それが「水俣」と「韓国」である。前者は1950年代から、後者は1960年代から撮り続けてきた。今回取り上げる韓国については、現地においても、桑原の写真は韓国現代史を語るさいの欠かせぬ証言として扱われている。   近くて遠い国で 長いキャリアのなかで桑原史成は、じつに多くの写真賞を受賞してきた。そのなかでも、2015年の「李海善(イ・ヘソン)写真文化賞」というのは聞き慣れない名称だ。じつは、同賞は韓国写真界の発展に寄与した功労者に授与されるもので、桑原は日本人として初めての受賞者なのである。 かつて韓国は「近くて遠い国」と形容されていた。日韓併合時代にまつわる経緯から1965年に至るまで国交がなく、以降もしばしば両国関係は強い緊張状態に陥ることがあった。その残り火は、国間の文化的交流が盛んになった今日もなお消えてはいない。その複雑な状況のなか、桑原は1964年7月から半世紀以上にわたり現地の取材を続けてきたのである。しかも彼の対象は幅広く、撮影したカット数は12万を数えている。 東西冷戦の先端としての軍事境界線、反日デモ、ベトナム戦争への「猛虎部隊」の派兵、「漢江の奇跡」といわれる経済発展、民主化、格差が生んだスラム地区の生活、農漁村の暮らし、そして民俗文化までを視野に入れている。だが共通するのは、時代に翻弄される普通の人々を軸として、その眼を向けていることだ。 この桑原にとって、長い取材期間の中で最も印象深いのは、日本統治からの解放20年目となった1965年で、この1年は「その後の10年間に匹敵する」重みがあったと語っている。それを象徴する一枚が、4月19日のソウルで行われた学生デモの写真である。 その日、学生たちは、日本との国交正常化の第一歩となる「日韓基本条約」に強く抗議した。だが、その印象は典型的なスタイルではなかった。 まず学生デモといえば、 シュプレヒコールを発して行進し、 ときに暴力的な衝突に発展することもある。当時の韓国において、そのような光景は日常的でさえあった。だがこの一枚は静かなのである。降りやまぬ雨に打たれながら、口を堅く結び、学生たちは整然と歩いている。隊列の緊張感は、望遠レンズによって遠近が圧縮され、いっそう強く醸し出されている。 この写真を読み解く鍵は、撮影の日付にある。5年前のこの日、李承晩(イ・スンマン)大統領の不正選挙に抗議した大規模な学生デモが官邸に突入。軍隊が発砲して多数の死者が出ていた。その結果、混乱は全国に広がり、大統領は辞任してハワイに亡命した。「4・19革命」または「四月革命」と呼ばれる政変である。 つまり写真の 「無言デモ」は、 5年前に命を落とした学生に対する追悼でもあった。その弔意と怒り、そして決意を、秘密裏に日本との国交修復を進めてきた朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権に対して示しているのである。 だがその抗議を当時の朴正熙(パク・チョンヒ)政権が聞き入れるはずもない。8月になると戒厳令を発令し、日韓基本条約は国会で批准されるのである。これで日本から得た有償無償合わせて総額5億ドルの資金は、経済開発に投資され「漢江の奇跡」の基礎をつくり、先進国としての韓国へと変貌していく。そう考えると、この1枚には韓国の過去と現在、さらに未来までが写っているようにさえ思える。 この大きな変化の節目に、なぜ国交のない国から来た桑原がそこにいて、歴史に残る写真を撮れたのだろう。当時の韓国にも、メディア関係者や報道写真家がいたはずである。そう聞く私に対して、桑原は使用機材や発表媒体に利点があったからだと語った。 だが果たしてそれだけだろうか、いや、やはり言葉通りには思えないのだ。   桑原をめぐる友人たち 日本が戦争に敗れ、領有していた朝鮮半島を失った1945年、桑原はまだ8歳だった。彼の一家が暮ら島根県の山間にある木部村 (現・津和野町) に戦禍は及ばなかったが、父は南方に出征していた。 やがて復員した父は、村から数キロほど離れた笹々谷鉱山に経理の職を得た。山からは銅や亜鉛が採掘され、精錬過程で出る亜ヒ酸は殺鼠剤として重宝されていた。ことに当時は、復興需要で山は活況を呈して多くの労働者が集まり、彼らの娯楽として映画会などのイベントも盛んに開かれていた。桑原もそれを楽しみにしていたが、じつは本編よりも世界情勢を伝えるニュース映画に魅せられたのだという。田舎の少年にとって、鉱山は都会の文化や情報に接することのできる理想的な環境だったようである。だがその一方で、鉱山の川下に位置する村や町には鉱毒による被害が広がっていた。鉱物の精製過程では大量の水を必要とするため、同様の問題は戦前から日本各地で起きていた。 やがて1947年、父は村の収入役に転じた。新しく村長になった遠縁に頼まれてのことだったが、 彼は急進的なマルキストだった。その政策は「村を集団農場にする」と意気込み、古い共同体に深刻な亀裂をもたらした。さらに村長は1950年に朝鮮戦争が始まると反戦ビラを配布したため、占領目的阻害行為処罰令違反で逮捕された。これは「赤化事件」、あるいは「赤化村」としてメディアでも報じられている。このとき中学生だった桑原は、社会というものの複雑さや怖さを目の当たりにしたのだった。 カメラに興味を持ったのもこのころだが、もちろん趣味の範囲でしかない。津和野高校では熱心な柔道部員として過ごし、大学は父の勧めで東京農大の農業土木科に進んだ。卒業後は役場に勤めさせ、安定した生活を送らせようという父の考えに従ったのだ。 上京当初の大学生活は順調で、ことに製図は得意で教授も認めるほど上達した。親しい友人も幾人かできた。その一人に年長の韓国人がいた。1950年に勃発した朝鮮戦争を逃れて日本に密航してきた青年で、酔ったときに歌う故郷の民謡は独特の哀愁を帯びていた。桑原はそれを聞いて、近くて遠い国の風景を思った。この体験が後の韓国取材の原点にある。 順調な学生生活ではあったが、桑原は「数値に沿った測量図を引く人生」に疑問を持ち始めだ。きっかけは高校の先輩から紹介された、演劇志向の文学青年だった。彼としばらく共同生活を送るうちに、しだいに創作への野心が湧いてきた。桑原は農大から他校に移ることも考えたが、 もちろん父が許さない。それでも芸術学部のある日本大学に相談に行ってみると、転入制度はないとのことで諦めるしかなかった。 だが、その帰途、立ち寄った銀座の小西六フォトギャラリーで運命が変わった。開校したばかりの東京フォトスクール (現・東京綜合写真専門学校) のポスターを目にしたのだ。当時、東中野にあった同校まで見学に行くと、そこは雑居ビルの一室で、校長である写真評論家の重森弘淹を中心とした小さな私塾だった。座学が中心で入学金と授業料も安かったこともあり、桑原は通うことを決めた。 以降の1年半、桑原はここで重森らの鋭く新しい時代のドキュメンタリー写真論に感化されたうえ、写真について語り合える友人たちを持った。ソニーの広報に勤務していた同じ歳の英伸三と、4歳上の岩根邦雄である。英は写真がうまく、後に消費者運動から生活協同組合の「生活クラブ」を立ち上げる岩根には知識と理性があった。こうした連帯感のなかで桑原の社会に対する意識は高まり、報道写真家としての自立を強く望んだ。そして、大学の卒業を待ってフリーランスになることを決めたのである。 とはいえ、フリーになるなら社会的なインパクトを持った独特のテーマが必要であった。そこでまず注目したのが炭鉱問題だった。エネルギー政策の転換期にあった当時、復興需要を賄ってきた各地の炭鉱は危機にあったからである。   写真で何ができるのか 桑原は1959年12月に九州の炭鉱町である筑豊に出かけ、炭鉱住宅に暮らす幼い二人の姉妹と出会い、その暮らしをカメラに収めている。かなり手ごたえもあったようだが、それをデビュー作として発表することはできかった。土門拳が同じ姉妹を撮った作品を翌年2月号の 『カメラ毎日』で発表し、さらに写真集『筑豊のこどもたち』(パトリア書房)にまとめると、社会的な話題になるほどの大ベストセラーとなったからだ。 挫折を経て新たなテーマを見出したのはそれから約3か月後である。5月になり、卒業報告に帰省するために乗った列車の中で、何気なく友人が差し入れた『週刊朝日』を開くと、特集は「ルポルタージュ・水俣病を見よ」との見出しが眼に飛び込んできた。4年前から熊本の水俣湾で発生している原因不明の奇病を伝える記事を一読した桑原は、「必ずいける」と直感した。そこで実家には1泊しただけで東京に戻り、すぐ『週刊朝日』 編集部に担当記者を訪ね、より詳しく話を聞いたのである。 それから2か月後、桑原は初めて水俣に向かい、紹介された水俣市立病院の大橋登院長を訪ねた。だが院長に入院患者への取材協力を求めると「写真で、いったい何ができるとぉ」と一喝されてしまった。このとき真っ正直に「何ができるかわかりません。でも、私は報道写真家になりたい」と答えたことが、かえって好感を与えたのだろう。院長は異例ともいえる取材許可を与えてくれたのである。 病院に通いながら、桑原はあまりに悲惨な現実を目の当たりにし、院長が問うた「写真で何ができるか」を考え続けた。そこで見出だした答えは「歴史の証言」になることであった。そのためにはショッキングなだけでなく「人を引きつけ、また共感を抱いてもらった上に、さらに余韻の残る映像」でなければならないと考えた。そこで桑原は、「生ける人形」といわれた寝たきりの少女、松永久美子を軸に据えることを決め、彼女の美しさを撮ったのである。そして2年後、1962年9月に開催した初個展 「水俣」 は、会期中から大きな反響を呼んだ。 さらに日本写真批評家協会新人賞を受賞し、桑原は有望な報道写真家と目されることになった。 そして次作のテーマ「韓国」に取り組むのだが、 国交のない当時、 取材までのハードルは高かった。それでも桑原は平凡社が発行していたビジュアル誌 『太陽』 に企画を通し、取材費と記者という立場を確保することができた。韓国での受け入れ先のリサーチや渡航手続きは、あの大学時代の友人が手配してくれた。 こうして準備した第1回の韓国取材は、1964年7月から約5か月間に及んだ。知られざる韓国の表情は、まず翌年の『太陽』 3月号の「特集韓国」に掲載されて大きな反響を呼んだ。その編集後記には、取材中いく度かスパイと疑われ、望遠レンズが怪しまれたことなどのエピソードが記されている。実際はそれ以上の困難が何度もあったが、現地の協力者がフォローしてくれたのだった。 そして翌年の取材で、日韓基本条約締結をめぐる激しい学生デモやべトナムへの派兵など、歴史的瞬間に立ち会ったのである。だが、その内容は韓国政府を喜ばせなかった。貧しさと恥部を海外に喧伝したとして睨まれ、同年12月に国外退去となった。当時の政権は韓国の国内メディアには厳しい検閲制度を敷いており、報道の自由はなかった。そのなかにあって、桑原の仕事は、まさに現場の事実を写したやっかいなものに他ならなかったのだ。 振り返ると、この最初の滞在中に桑原が手がけたテーマは30以上に上り、掲載は百数十ページにも上っている。驚くべき行動力と言わねばならない。しかも、かつて恥部を写したと言われたそれらの写真が、いまや国の現代史に欠かせない記録となっている。それも当時の若者たち意志を示し、この国の民主主義への歩みを記念する重要なモニュメントでさえある。それはまさに歴史の皮肉に他ならない。 そんな写真を残せたのは、やはり機材や媒体のアドバンテージだけではない。「写真で何ができるのか」を現場で激しく求め続けたことの帰結である。「水俣」も「韓国」も、人生に一度しかない、写真家としての “青春期”の写真なのである。   桑原史成(くわばら・しせい) 1936年島根県生まれ。1960年に東京農業大学、東京綜合写真専門学校を卒業した後、フォトジャーナリストとして活躍。主な写真集・著書に『水俣病』『水俣病1960~1970』『生活者群像』『水俣・韓国・べトナム』『水俣』『陶磁の里ー高麗・李朝』『報道写真家』『韓国真情吐露』『報道写真に生きる』『桑原史成写真全集』がある。日本写真批評家協会新人賞、講談社写真賞、伊奈信男費、土門拳賞などを受賞。 参考文献 『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1965年11月号 桑原史成「隣のニつの国」 桑原史成『報道写真家』(岩波新書 1989年) 『社会運動』(市民セクター政策機構)1980年8月号~1981年1月号 桑原史成「エッセイ・カメラでみた韓国」 『社会運動』(市民セクター政策機構) 2000年3月号 「英伸三、岩根邦雄、桑原史成『社会運動』創刊20周年記念座談会:レンズからみた社会運動」 『AERA』(朝日新聞社)1997年5月19日号「現代の肖像 桑原史成」 「中国新聞 α」(ウエブサイト)「生きて 報道写真家 桑原史成さん」 関連記事 [clink url="https://picon.fun/photo/20260325/"] [clink url="https://picon.fun/photo/20260612-01/"] 文・写真評論家 鳥原学 NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。 鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より   ↓PicoN!アプリインストールはこちら

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お金をかけずに感性を磨く -東京でアートを無料で楽しむ3つの方法-

「アートに興味はあるけれど、最近の美術館や博物館の展示は入場料が高すぎる!」と、感じている人もいることでしょう。しかし、東京には無料で質の高いアートやデザインに触れられる場所・機会が数多くあります。今回は、学生でも気軽に楽しめる「無料でアート」の楽しみ方を3つご紹介します。 1. 企業ギャラリーを巡る 企業が運営するギャラリーは、無料でありながら質の高い展示を開催している穴場スポットです。 SHISEIDO GALLERY 資生堂ギャラリーは1919年にオープンした、現存する日本で最古の画廊といわれています。途中、震災や戦争、建物の改築による中断を除き、「新しい美の発見と創造」に取り組み、日本の芸術文化の振興に寄与してきました。これまでに開催した展覧会は3,100回以上、資生堂ギャラリーを作品発表の場として、後に日本美術史に大きな足跡を残した作家も数多くいます。 1990年代からは、現代美術に主軸を定め、前衛性と純粋性を兼ね備えた同時代の表現を積極的に紹介しています。 2001年には、「東京銀座資生堂ビル」の地下1階にリニューアルオープンしました。 5mを超える天井高をもつ銀座地区で最大級の空間は、様ざまな表現を可能にする場として、海外の作家からも注目を集めています。(引用元:SHISEIDO GALLERY|資生堂ギャラリー) Ginza Graphic Gallery(ggg) ギンザ・グラフィック・ギャラリー(ginza graphic gallery)は、グラフィックデザインの専門ギャラリーとして3つのgの頭文字から「スリー・ジー(ggg)」の愛称で親しまれています。1986年、グラフィックデザインと密接なかかわりを持つ大日本印刷株式会社は、文化活動の一環として、創業の地であり、画廊のメッカでもある銀座に、gggを設立し、展覧会やレクチャーの開催、gggBooks等の出版活動を継続し、多くの方々にグラフィックデザインの素晴らしさと出会う機会をご提供しています。(引用元:公式HPギンザ・グラフィック・ギャラリー) グラフィックデザインを学ぶ学生なら一度は訪れたいスポットです。ポスターや広告、タイポグラフィ、ブックデザインなど、国内外の優れたグラフィックデザインを紹介しています。レイアウトや文字の使い方、コンセプトの伝え方など、多くの発見があります。企業ギャラリーは展示替えの頻度も高いため、何度訪れても新しい刺激を得られるのが魅力です。筆者も学生の頃、授業終わりによく足を運んでいました。資生堂ギャラリーとギンザ・グラフィック・ギャラリーは徒歩3分と場所が近く、展示の開催期間が重なっている場合はハシゴすることもオススメです。 2. 街を歩いてパブリックアートを探す アートは展示室の中だけにあるものではありません。渋谷駅には、岡本太郎の『明日の神話』巨大壁画、東京駅周辺の丸の内仲通りには、国内外の作家による彫刻作品が点在しています。普段は通り過ぎてしまう場所も、作品を探しながら歩くと違った景色に見えてきます。パブリックアートの魅力は、誰でも自由に鑑賞できることです。通学や通勤の帰り道でも楽しめるため、「なぜここにこの作家の作品が置かれているのだろう」「周囲の環境とどんな関係があるのだろう」と考えながら鑑賞すると、作品の見え方も変わってきます。筆者は、友人と作品の題名当てゲームをしながらパブリックアートを楽しんでいます。一度も当たったことはありません。 3. 美術館の無料開放日を活用する 多くの美術館では入館料がかかりますが、実は無料で入館できる日が設けられています。例えば、国際博物館の日(5月18日)には国立近代美術館、国立西洋美術館、国立科学博物館などの常設展(コレクション展)が無料公開されます。また、東京都現代美術館、東京都美術館などは都民の日(10月1日)に無料で鑑賞できる展示が開催されることがあります。企画展は入館料が年々値上がり傾向ですが、常設展や所蔵作品展はまだまだリーズナブルな料金設定であることが多く、無料開放日を活用すれば名作を気軽に鑑賞できます。美術館の公式サイトやSNSで最新情報をチェックしておくと、お得にアートを楽しむチャンスを見逃さずに済みます。無料の日をきっかけに「一度行ってみたい!」と思っていた美術館に訪れてみませんか。 番外編  キャンパスメンバーズ制度を活用する 意外と知られていませんが、多くの大学や専門学校は「国立美術館キャンパスメンバーズ」に加盟しています。加盟校の学生は、学生証を提示することで国立美術館のコレクション展を無料で観覧できたり、企画展の料金が割引になったりします。例えば、 東京国立近代美術館 国立西洋美術館 国立新美術館 などで特典を利用できる場合があります。もし、自分の学校が加盟校であれば「美術館をお得に活用できる環境」が用意されていることになります。まずは学校の教務課・学生課、公式サイトの加盟校一覧などで確認してみましょう。(公式HP:国立美術館キャンパスメンバーズ) アートを楽しむために、必ずしもお金をかける必要はありません。お金をかけても絶対に良い作品と出会えるとも限りません。「企業ギャラリーを訪れる」「街中のアートを探してみる」「無料開放日に訪れる」「キャンパスメンバーズ制度を活用する」まずは、足を運ぶ機会を増やして良い作品との出会いのチャンスを増やすことで、きっと有料級の経験を得られますよ。 PicoN!編集部 武田 ↓関連記事はこちら [clink url="https://picon.fun/art/20260614/"] [clink url="https://picon.fun/art/20221025/"] ↓PicoN!アプリインストールはこちら

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アート

デザインだけじゃ終わらない。印刷を知ると、ものづくりはもっと面白い——「印刷のいろはフェスタ」体験レポート

デザインを学ぶなら、印刷も知っておきたいもの。画面の中で制作したデータは、印刷されて、多くの人の手に届きます。今回訪れた東京都大田区・鵜の木にある印刷会社「株式会社金羊社」の社屋まるごと使った展示&体験イベント「印刷のいろはフェスタ」は、小さな子どもから日頃デザインや印刷に関わる人まで、遊びながら印刷技術を学ぶ事ができます。 今年はぴー太郎に変わってNEWキャラクター「ぷりんてぃあちゃん」が登場! https://twitter.com/iroha_ten/status/2057003730365788327 ぷりんてぃあちゃんは、ぴー太郎の妹。 実はこのキャラクターNDS卒業生Yさんがデザインしています。 筆者:ぷりんてぃあちゃん誕生について教えてください。 Yさん:例年、印刷のいろはフェスタは、約半年前から企画がスタートします。今年は新しいキャラクターを制作することが決定し、私含め、3名がキャラクターとキービジュアルを提案し、見事私の案が採用されました。昨年は奇しくも採用されず、社内報でも悔しい想いを書き記したのですが、次こそは必ず採用されるように頑張ろう!と挑んだので、採用が決定した時は、とても嬉しかったです!   筆者:ぷりんてぃあちゃんに込めたこだわりを教えてください。 Yさん:輪郭はしずく型にして印刷で使うインクを表現したり、キャラクターの足元には紙を敷いていたり、メインビジュアルにもインクがたらりとしたようなあしらいを入れたり、とにかく印刷のキャラクターなんだよという要素をふんだんに入れています。配色はCMYを意識していますが、本当のCMYよりもイマドキっぽいパステルに少し近づけた色を採用しました。平成リバイバルが流行っているので、キャラクターの足や瞳は平成で愛されたキャラクターからヒントを得て制作しています。 会場内の至るところにぷりんてぃあちゃんが登場していました。 探して、見つけて、文字拾いラリー 受付で文字拾いラリーの台紙をゲットしよう。各階に隠れている文字を持ったぴー太郎を見つけてキーワードを集めていきます。 全部集めるとコインと引き換える事ができ、そのコインでガチャガチャを回すと、金羊社オリジナルのアクリルキーホルダーをゲットする事ができます。 狙っていたぷりんてぃあちゃんをゲットしました!嬉しい! イベント内容紹介 4F いろはフェスタワークショップコーナー 「DICカラーワークショップ」 DICカラーとは、DIC株式会社が製造しているインキのことを指し、日本の印刷業界において主要な特色インキとして知られています。このカラーガイドをクラフトパンチで型抜き、できたパーツを組み合わせてカードをデコレーションするもの。小さなお子さんでもクラフトパンチが押せるよう補助具も置いてあり、カンタンにパーツを作る事ができました。 今年はテンプレートがいくつか用意されていました! 「オリジナルシール付きリングメモ帳制作体験」 表紙のPET用紙、シール、本文の用紙、リングを自分好みに選んでカスタマイズ! それぞれたくさん種類があってどれにしようか悩んじゃいますよね。 ぜひあなただけの1冊を作ってみてください。   「タイルを使ったワークショップ」 小さくてかわいい色とりどりのモザイクタイルを選んで貼ってフォトフレームを制作するワークショップ。株式会社金羊社では、紙への印刷のみならず、タイルへの印刷も行っています。プリント建材サービス「CRIOS(クリオス)」なども提供しています。ハートや花、葉っぱの形のタイルなどたくさんのタイルから自由に選んでフレームをデコレーションしていきます。 小さなお子さんが自由な発想で思い思いのオリジナル作品を制作していました。 4F 「実はディープな加工のセカイ」 折り、綴じ、抜き、貼りなど、たくさん存在する紙加工の見本が大集合! 見るだけでなく、実際に触るのもOK! 加工の方法の動画も流れており、なかなか見る事のできない工程に釘付け。   御殿場工場を映像で紹介! こちらのコーナーでは、金羊社の御殿場工場の紹介の他、オフセット印刷の説明などもやさしく解説。 実際の印刷で使用する紙に触れる「紙積み体験」 筆者がめちゃくちゃ体験したそうな顔をしていたのかスタッフさんに声をかけてもらい挑戦! これがすごく難しくて、職人技だと思いました。 両サイドの紙を真ん中に運んでキレイに整えるのですが、ずれて、ずれて、、、   左がマット紙です。スタッフさん曰く、こちらの方が難易度としては挑戦しやすいのでこちらからチャレンジするのがオススメとの事。人差し指と親指で紙を持ち、手首を上手く使って紙と紙の間に空気を入れて移動しやすくして、山折りにして移動し、ズレないように整えて、最後に空気を抜くという作業なのですが、これは空気が入っているのか?これで合ってるのか?と辿々しい手つきで終了。お世辞にも整っているとは言い難い紙の束が完成してしまったのですが、スタッフさんが整えるとガタつきがなくなっておりました。 こちらがコート紙です。 マット紙よりもツヤ感のある用紙ですね。こちらもコート紙同様挑戦して見ましたが、コート紙よりもボロボロでした。 私は普段デザイナーとしてデザインを制作して、入稿はデータを印刷業社に依頼し、完成したものはオフィスに届きます。その為、紙積みや、紙加工の工程に触れる事はありません。加工の追加は、印刷業社のサイトの加工追加のボタンをクリック一つで追加できてしまいますが、その裏では、熟練された技が私たちのデザインを支えているのだと改めて感じる事ができました。 せかいのあいさつツアー 各国の挨拶クイズに挑戦!全部回ると世界一周スタンプを押してもらえます。 アクリルグッズで遊ぼう アクリルにプリントされたどんぶり、ごはん・麺、具を重ねていって自分だけのオリジナルどんぶりを作る「アクリルレイヤーアート体験」 8種の具で迷っていると、スタッフのお兄さんがすかさず 「カレーだけシースルーになってるんです。」 とそっと助言してくれました。確かにすけてました!   どんぶりが完成した後は、フォトブースで写真撮影を楽しむ事ができます。 IllustratorやPhotoshopでは当たり前のように登場するレイヤーの概念になかなか慣れない方もいらっしゃるかなと思うのですが、まさに、このレイヤー体験のように、ミルフィーユのようなイメージで重ねていくイメージを持ってもらうと良いと思います。 他にも、アクリルでできたパズルや、神経衰弱が楽しめます。 3F フォントを使ったワークショップ 校正体験 3段階のレベルで文字校正が体験できるワークショップ。私は毎年楽しみで仕方ないのですが、これはレベル1でも、お子さんだけでは見つけられません。仕事上、校正する事が多いのですが、それでも、レベル1でも最後の1つが見つけられず、これをこのまま印刷に出したらマズイと思い真剣に探してしまいました。   誤植版と、正しい情報版を写真のようにペラペラとする事で、間違いを見つけていきます。 会場内では、大人から子どもまでみんな揃ってペラペラして真剣に誤植を探していました。   なつかしのLPジャケット レコードのジャケットをつくってみよう! 好きなテンプレートをセレクトし、歌手・グループ名を書いて、写真撮影すると、オリジナルのレコードジャケットが作れちゃう体験コーナー。 筆者も撮影してもらいました! 「昭和アイドルちっくな表情くださ〜い!」と言われ、何も面白い事ができなかった筆者。棒立ち。 次に撮影していた子たちは、指でピストル作ってバーン!ってポーズしていて、ハートにロックオン感満載でとても可愛らしかったです。 逃げ出した羊を探せ! モリサワフォントで作られた羊が大量に放牧されており、その中から、この6つのフォントの番号を探すというゲーム。カンタンなようで意外と引っ掛けのようにやや違うフォントも混在しているので、ぜひじっくり見て番号を探そう。ちなみに筆者は一発で満点でした。(自慢したいだけ)   2F 展示コーナー この階は、今までに金羊社が手掛けてきた事例を一挙に公開。今大人気のキャラクターグッズや、あの有名音楽CDジャケットなど、これも金羊社で手掛けられたものなんだ!と感動の嵐。 何が展示してあるかは会場でぜひご覧ください。   1F デジタルオープンファクトリー 「缶バッジ製作体験」 普段なかなか見る事のできない1Fの印刷ラボが公開され、「印刷・加工」の現場を間近で見る事ができます。デザインの学生は、デザインデータが印刷され、製品になる現場を一度は見ておくと良いと思います!加工している様子など見るだけでもとても面白いです。 プリンター後方には、実際にプリントされたアイテムが展示されており、ポストカードやポスターなどを見学させてもらえました。プリントされたシールをカット加工するための機械もかなりの近さで見る事ができます。 今年は、「缶バッジ製作体験」 全フロアで印刷の面白さに触れる事のできるイベント「印刷のいろはフェスタ」楽しく体験するだけで奥の深い印刷について詳しくなれるのでぜひクリエイターを目指すなら、一度は訪れてほしい!   【開催概要】 「印刷のいろはフェスタ2026」 日時:6月12日(金)14:00~19:00、13日(土)9:30~16:30 場所:株式会社 金羊社1階~4階  入場無料 PicoN!編集部 市村 ↓PicoN!アプリインストールはこちら

デザイン

そこにいるだけで十分だった──牛腸茂雄をめぐる記憶。牛腸茂雄×三浦和人 写真展「そこにあって、そこにないもの」記念トークイベントレポート

2025年12月2日(金)、東京・日本写真芸術専門学校8F WALL GALLERYにて三浦和人×牛腸茂雄 写真展「そこにあって、そこにないもの」記念トークイベントが開催されました。 本トークイベントは、三浦和人さんと牛腸茂雄さんの作品を並置した写真展の開催にあたり、その制作背景や作家同士の関係性、作品の継承について語る場となりました。 二人の写真家が辿ってきた物語を知ることができた本イベントの記録を、ここにアーカイブとして残したいと思います。 語り手は、写真家・三浦和人さん。聴き手は、株式会社コンタクト 佐藤正子さんです。 学校案内から始まった写真展 日本写真芸術専門学校の学校案内パンフレットには、「BRIGHT」という別冊子が付録しています。 『BRIGHT』は、学校案内パンフレット本誌と切り離して、1つの写真集として楽しめる仕様になっており、進路検討が終わっても、写真の奥深い世界に触れる本として手元に残してもらえるようにという思いを込めて制作しています。 2026年度生募集の学校案内パンフレット内の『BRIGHT』では、静謐な日常を写すコンポラ写真の旗手・牛腸茂雄氏の作品を掲載。過去に日本写真芸術専門学校で講師を務めていただいた三浦和人さんのご助力のおかげで企画が実現する運びとなりました。 そのご縁がきっかけとなり、三浦和人さんの作品と、牛腸茂雄さんの作品を掛け合わせた写真展を開催することになりました。 三浦和人さんは、牛腸茂雄さんの作品の管理をされていまして、写真展開催等に数多く携わっていただきました。 佐藤正子さんは、株式会社コンタクトで、ロベール・ドアノーなどの有名写真家の展示や出版など数々手掛けておられます。本展示の開催にあたり、レイアウトや作品の管理などでご協力いただきました。 このトークイベントでは、出展作家の三浦先生とその作品を取り扱った佐藤さんから、写真家と聞き手として、牛腸さんのお話も含めて写真展に関するたくさんのお話を聞くことができました。   牛腸茂雄の写真はいかにして“残された”のか──展覧会とプリントをめぐる対話 佐藤 先程ご紹介いただいたように、私は、写真展の企画制作をしております。牛腸茂雄さんの展覧会を一番最初に開催させていただいたのは、2016年に、六本木にあるフジフイルム スクエア内の写真歴史博物館での展示でした。写真史に業績を残した方たちの展示をする場所でして、企画会議をフジフイルムのご担当者様としていた時に、私から牛腸茂雄さんをやってみたいと提案して実現しました。後から話に出てくるかもしれませんが、写真評論家の飯沢耕太郎さんを介して、三浦さんをご紹介いただいたのが一番最初のご縁になるので、かれこれもう10年ぐらいになります。 三浦 牛腸さんが亡くなってから40年以上が経ちました。少しずつ、牛腸さんに興味を持ってくれる方が増えてきたのですが、その立役者は、写真評論家の飯沢耕太郎さん。『デジャ=ヴュ』という雑誌に牛腸茂雄特集を組んでくれたおかげで、世間に知られるようになりました。 佐藤 それが牛腸さんが亡くなってしばらく経った1992年、牛腸さんが亡くなられたのが1983年だったので、ほぼ10年。亡くなってから9年経った頃に飯沢さんが『デジャ=ヴュ』で特集をされて。私も特集を拝見したのを鮮明に覚えてます。 三浦 その後、NHKの『日曜美術館』という番組で、写真家・牛腸茂雄が取り上げられたことによって、徐々に知られるようになりました。 佐藤 私はこの流れを、ずっと読者であり鑑賞者の立場として見てきました。そして、展覧会を企画する仕事をする中で、いつか自分が扱わせていただけたらと強く思っていました。関心があったのは牛腸さんの作品そのものだけでなく、その時代の日本の写真史におけるムーブメントでもあります。幸いにも三浦さんのご協力を得ることができ、フジフイルム スクエアで展示を開催することができました。あの時に展示したのは、40点ぐらいでしたかね。 三浦 そうですね。 佐藤 一大回顧展にならなかったという点も、取っかかりとしてはとても良かったと思っています。大きな回顧展を行うとなると、研究や準備にどうしても長い時間が必要になりますから、まずは40点ほどの展示ができたこと自体が、とても意味のあることでした。その際、展示する牛腸茂雄さんの全作品について、三浦さんが新たに展示用のプリントを制作してくださいました。その時に作られたプリントが、現在も展示のベースになっています。今回の展覧会で皆さまにご覧いただいている牛腸さんのプリントも、すべてその時に三浦さんが制作してくださったものを使用しています。 三浦 当時、牛腸さんには「オリジナルプリント」という認識が、あまりなかったんですよね。あくまで「印刷原稿」という捉え方だったと思います。現在、牛腸さんのオリジナルプリントが残っているのは、山口県立美術館に収蔵されているものです。これは、飯沢さん、そして2021年に亡くなられた東京都写真美術館の金子隆一さんが企画し、日本の戦前・戦後の写真を扱った展覧会を、山口県立美術館で3回にわたって開催した際のものです。その中で牛腸さんの『SELF AND OTHERS』が取り上げられ、オリジナルプリント、すなわち印刷原稿が収蔵されました。もう一つ、牛腸さんのオリジナルプリントとして印刷原稿の形で残っているのが、関口正夫さんとお二人で出版した写真集『日々』に掲載されている作品です。こちらも金子隆一さんが東京都写真美術館に収蔵してくださったことで、現在まで残っています。それ以外については、オリジナルプリントとしては残っていないんですよね。 佐藤 印刷原稿という認識だったのは、確かにそうなんですけれども、プリントとしてはとても素晴らしいんですね。牛腸茂雄さんは、ご病気の為、子どもの頃からそんなにもう自分が長く生きられないということをずっと覚悟の上で生きてた方なので、それこそ“生きている証”という言葉も使っていたりするんですけれども、写真集を何とかして残したいと。なので、彼が一番注力していたのは、“写真集を作ること”だったんです。今のように展覧会がいろんなところでできるような時代ではなかったので写真集として残すという意味も、今とは全く異なるのではないでしょうか。 三浦 当時は、写真を発表するための手立てが、今ほど多くはありませんでした。カメラ雑誌も、『アサヒカメラ』『カメラ毎日』『日本カメラ』など、いくつかはありましたが、選択肢としてはその程度でした。あとは、ニコンサロンに代表されるような、いわゆるメーカー系のギャラリーがあるくらいでした。ですから、自分の作品を発表しようとすると、雑誌に掲載されるか、自分で写真集を作るか、という限られた方法しかなかった。しかも、写真集の制作は、今のように簡単にできるものではなく、非常に時間も経費もかかるものでした。 佐藤 印刷原稿というのは、印刷したときに、どういうふうに自分の色を出したいかを考えてプリントされたものなので、やはり展示で見せる表現とは、少し性質が異なります。最初にフジフイルム スクエアで展示を行う際には、三浦さんが当時展示されていた際の状況を、サイズも含めて丁寧に検証してくださいました。そして、「ずっと残せるプリント」を目標に、新たにプリントを制作していただいたんですよね。 三浦 結構苦労しました。 佐藤 それがきっかけになって、最終的に大きい展覧会も開催できるようになって、2023年に兵庫県・市立伊丹ミュージアムで、牛腸さんの全てを見せる展示を企画しました。その時も、三浦さんが全部プリントをしてくださいました。『日々』と、『SELF AND OTHERS』、あとは『幼年の「時間(とき)」』、『幼年の「時間(とき)」』は未完に終わっていて、写真集としては結局出てないんですけれど、このモノクロのシリーズ3つは三浦さんが全部プリントを作ってくださって、それが今も皆さんに見ていただける展示のプリントになってるんです。 三浦 牛腸さんって最初デザイナーになりたいと思って、デザイン学校で勉強しているので、すごく仕事が丁寧なんです。で、そのカリキュラム「基礎造形」の中に「写真」という項目があって、写真の勉強をするのですが、仕事が丁寧なのと、課題の理解力が高いので、すぐ頭角を現してきました。 出会いが才能を照らすとき 三浦 牛腸さんが一番輝いていた時期は、アトリエブロックという建築事務所時代です。 桑沢デザイン研究所卒業の気の合う仲間たちと、他大学を卒業した建築関係者と、アトリエブロックを立ち上げ、さまざまな仕事をこなしていました。そうした場があったことが、とても良かったなと思っています。 佐藤 牛腸さんは、3歳のときに発症した胸椎カリエスの影響で、身長も伸びず、医師からは「20歳まで生きられるか」という診断をされたそうですが、デザインは中学、高校時代からも頭角を現すくらいすごく優秀だったというのは、いろいろなところに資料が残っています。その後、東京の美大に進学したいという希望があり、最終的に、桑沢デザイン研究所に入学したんですよね。お2人は桑沢デザイン研究所で出会われて以来のお付き合いになるんですが、そのお話が出たので、出会いからお話ししていただけますか。 三浦 入学初日、僕は教室の前の方に座っていました。すると、後ろから「この席に座っていいですか?」と声がしたので振り向くと、牛腸さんだったんです。当時は、一般的に障害を持っている人への理解があまり進んでいなかったので、牛腸さんを見たときは本当に驚きました。「どうぞ」と答えて、隣に座って話していくうちに、何か普通の学生とは少し違うなと感じました。どう表現したらいいかというと、眼が澄んでいるんです。話し方も理路整然としていて、すごいなぁと思ったのがきっかけで、その後、彼が亡くなるまで交友は続きました。 佐藤 亡くなられてからも、なおお付き合いがあるというのは、本当にすごい出会いだなと思います。そのお話を聞くたびに、他の方もおっしゃっていましたが、三浦さんは牛腸茂雄に選ばれちゃったんじゃないかと。もちろん無意識だったとは思いますが、牛腸さんも牛腸さんで、三浦さんに何かを感じるところがあったとしても、そこまで深く考えていたわけではないでしょう。しかし、何かがあって、たまたまそういうことが起きたのかな、というのは、あまりにも運命的なものを感じてしまいます。 三浦 ある時、牛腸さんが、「三浦さんは、そこにいるだけで十分です。」って言ったんですよ。その意味が、未だに分らない、考えている。80歳になってもね。自分の事を競争相手って見てないのかな?とかね。そんな風に思ったりしたこともありましたよ。 佐藤 牛腸さんは競争相手というか誰かに対して、たとえば、同級生や他の方とかにライバル意識みたいなのはあったのですか? 三浦 そういうのは表面には全然出ない人。だから人の悪口も言わないし。本当に淡々としてる人でしたよ。 佐藤 時間も限られていると思うので、自分がしたいことや表現したいことに集中する。そのため、あまり人のことまで構っていられないのかな、という気もします。表現者としてそういう人は多いのではないでしょうか。 三浦 多分そうだと思うんです。人のことを構っていられないと思いながらも、実はそれが一番気にかかる。で、自分の持ち得ていないものを吸収しようとするんですよね。僕は桑沢に入る前、都立工芸高校の印刷科に通っていました。高校では印刷、デザイン、木工、金属、機械などの各科がありました。当時はあまり知られていなかったのですが、美術作家・伝統工芸の子息などが多く、人間国宝が何人もいるんです。印刷科では、印刷技術を学ぶだけでなく、より基本的な美術的知識も含めて学ぶことができました。そうしたことから、牛腸さんは僕が印刷科出身であることを知ると、「学校で印刷クラブを作りましょう、印刷クラブを作りましょう!」と、とても熱心に誘ってくれました。相当しつこかったですね。 佐藤 面白いですよね、印刷クラブって。でも、どういうクラブなんでしょうね。もし実現できるとしたら。 三浦 グラフィックデザイナーとして、印刷知識のことを知りたかった、という思いがあったんだと思います。 佐藤 なるほど。座学的なところを吸収したかったんですね。なぜ工芸高校に進学しようとされたんですか? 三浦 僕の父が高等工芸の印刷科出身で、父の勧めで都立工芸に進学しました。僕は陸上ばかりやっていて勉強はあまりしていなかったので、父は「どこも行くところがないなら、都立工芸がいいんじゃないか。」と考えたようです。当時、都立駒場高校に行こうかなと思っていました。僕は勉強よりも陸上で、中学の先輩たちが二代続けてキャプテンを務めていたので、次は自分だなと思っていたんです。ところが怪我をして無理だとわかり、最終的に都立工芸高校に進むことになりました。 佐藤 桑沢デザイン研究所っていうのは、そういう意味では当時のことは今となっては全部わかるわけじゃないですけど、非常に独特の学校だったと思うんです。写真家の石元泰博さんがいたり、バウハウスを日本で初めて持ち込んで作られた学校なんですよね。 三浦 デザイン学校の先駆けみたいなところだったんです。 佐藤 お2人は桑沢デザイン研究所に入学し、そこで出会いました。もともとお二人ともデザインを学ぶつもりで入学したのですが、なぜ写真の道に進むことになったのかという点で登場するのが、大辻清司さんという人物です。大辻さんは写真家としても非常に重要な存在ですが、単に「写真家」と一言で片付けられないほど多才な方です。教育者としても優れ、三浦さんや牛腸さんだけでなく、近年では畠山直哉さんをはじめ、多くの写真家を導いてきた方です。 三浦 3年生で写真研究科に進んだとき、初めて大辻清司さんが僕たちの先生だと知りました。牛腸さんはもともとグラフィックを志していましたが、基礎造形での写真があまりに優れていたため、大辻さんをはじめ先生方が「写真家に向いているのではないか」と考えたようです。僕が特にすごいと思ったのは、大辻さんが学生の作品を見て「これは絶対に写真の道に進むべきだ」と断言してしまうところです。後に大辻さん自身も、「この才能を潰してはいけない」と強く感じた一方で、身体的なことを思うと本当によかったのか迷いもあった、と書いています。 それほどまでに牛腸さんは理解され、見抜かれていた。大辻さんだけでなく、周囲にもそういう人がいたんです。多摩美を受験して落ちたとき、試験官が「桑沢という学校がある」と勧めたのもその一つでしょう。容姿だけで判断せず、本質を見ようとする人たちに、牛腸さんは救われてきた。その中心にいたのが、大辻さんだったと思います。 佐藤 私が、大きな展覧会を企画する際には、牛腸さんは、本来であれば今もまだお元気でいらっしゃってもおかしくない年齢ですが、やはり多くの場合、亡くなられた方の作品を扱うことになります。そのときに強く感じるのは、亡くなられた方の作品が、ただ単に「いい作品だから」という理由だけでは残らないということです。やはり人と作品との出会いがあり、作家の運命、亡くなった後の作品の運命が決まっていくのだな、と実感することが多いのです。そういう意味で、牛腸さんの作品に関わると、いつも三浦さんがおっしゃったようなことを私も感じます。 三浦 結局のところ、何か新しいことを最初にやるというのは、やはり評価されます。ですから、こうした写真を発表したという事実は、牛腸さんの前には誰もいなかったのです。『SELF AND OTHERS』のような作品も同様です。これは単に写真の技術が上手いか下手かという話ではなく、牛腸さんの能力や意識、そして独自の感性によるものだと、私は思っています。 佐藤 個人個人のものの見方や考えていること、感じていることは、特に写真というメディアでは表れやすいと思います。そういう意味で、牛腸さんや三浦さんも、それぞれの資質はお持ちだったと思います。しかし、桑沢デザイン研究所での大辻さんをはじめとする先生方との出会いや、その後の友人関係も非常に大きな影響を与えたのではないかと思います。 牛腸さんや三浦さん、そして桑沢を中心とした世代の方々には、1968年から70年代頃にかけて、コンテンポラリーフォト、いわゆるコンポラ写真と呼ばれる時代がありました。日本の写真史の中では、このコンポラ写真という括りは実は少し曖昧です。その時期、コンポラ写真以外ではどのような写真が撮られていたかというと、少し前の世代になりますが、『PROVOKE』や森山大道さんのような写真があります。これらは学生運動など激動の時代背景を投影するような、写真です。しかし、三浦さんたちは、社会が激しく動揺する時代にもかかわらず、そうした影響をほとんど受けず、全く異なる視点で日常を淡々と撮影していました。その独自性こそが、いわゆるコンポラ写真として括られる理由の一つではないかと思います。 三浦 でもね、コンポラ写真の当事者って、多分そんなこと考えてなかったと思います。今になってみるとそういうことだった。だから乱暴に言うとコンポラなんていう写真があったの?っていう人達もいらっしゃる。 佐藤 そうなんですよね、そのあたりは少し難しいところです。今スライドでご紹介した作品ですが、牛腸茂雄の「こども」です。 実は今回の展覧会で出品されている写真作品は、三浦さんの作品はすべて、子どもをテーマにした写真集『会話』からセレクトしたものです。牛腸さんの作品も基本的には、『日々』、それから『幼年の「時間(とき)」』、『SELF AND OTHERS』の作品ですが、この1点だけは写真集には収録されていません。この作品は1968年『カメラ毎日』6月号で「こども」というタイトルで掲載され、実は牛腸さんの作品が世に出た最初の雑誌掲載作品になります。しかも、その号は「コンポラ特集号」で、大辻清司さんがテキストを書かれており、非常に重要な1号です。それが偶然だったのかどうかは、私には正確には分かりませんが、とても興味深い事実です。 三浦 ちょっと違いますよね、この写真。牛腸さんの中でも独特です。この写真は、学生時代の初期の作品のような気がしています。やはり、何か意気込みのようなものが感じられるんですよね。だから、高梨豊さんや石元泰博さん、東松照明さんといった作家に、少し近い印象を受けるのかもしれません。 佐藤 でも、個人的にはこの写真は、いろいろなものを象徴しているようなところがあって、とても好きです。今回のDMにも使わせていただきましたし、展覧会の冒頭でも三浦さんの写真と並べて展示する際、どれにしようか迷ったのですが、やはりこれを選んでしまいました。 三浦 僕はこの写真がいいなと思うのは、この右側に立ってる男の子の後ろにちらっと写ってるおばさん。これがすごくいいなと。 佐藤 牛腸茂雄っぽいですよね。牛腸さんの作品も三浦さんもそういうとこがありますけど、何かこう見ているといろいろ見えてくるんですよね。 三浦 1つじゃないんですよね。複数の要素が入ってる。これが面白いですよね。 『こども』という共通言語──二人展で並んだ、時間差の視線 佐藤 展覧会の話になりましたが、今回「こども」というテーマを設定したのは黒田さんでしたよね。そもそも2人展を行うのは今回が多分初めてで、なら「こども」がいいのではないかと、黒田さんが決めてくださったんです。 牛腸さんの写真集には必ず子どもが写っています。テーマとして明確に括っているわけではないのですが。一方で三浦さんは、『会話』という写真集をすべて子どもでまとめています。 ただ、三浦さんの他の作品には子ども以外の被写体も多く含まれています。 今回、「こども」というテーマで改めて展覧会をご覧になった際、どのように感じられましたか。 三浦 今回この展覧会を主催してくれたのを、一番喜んでるのは僕で、牛腸さんはもしかしたらあんまりやりたくないなと思ってるかもしれない。牛腸さんは『日々』を撮り、『SELF AND OTHERS』、『見慣れた街の中で』を撮っていきます。そして36歳で亡くなられるわけですが、私は牛腸さんよりも2周遅れなんです。1周ではなく、2周遅れで。牛腸さんの写真集作品をオマージュとして制作しています。決して真似るのではなく、自分の作品を出そうとしていますが、そういう形で子どもを撮り、その後、牛腸さんは亡くなる時に『幼年の「時間(とき)」』を出しました。さまざまな編集者に手紙を送っていて、それを見ると、老年期の作品も計画していたような節があるんです。私はその感覚を、何周遅れかでなぞっているんですね。ですので、ここで初めて、牛腸さんの写真に何周遅れかで自分の作品を並べた、そういう展示になっています。 佐藤 牛腸茂雄さんは写真集のために作品をきちんとセレクトし、組んでいらっしゃったので、その写真集をバラして展示するという行為自体が、かなりの暴挙になるんじゃないかと。私自身はお話をいただいたことはとてもありがたかったのですが、「本当にどうしようか」「どこまでやっていいのか」と悩みました。牛腸茂雄さんには熱烈なファンの方も多く、作品をよくご存知の方も多いので、何か変なことをしたら本当に怒られてしまうだろうと思い、非常に緊張しました。 三浦 実は、僕が最初に佐藤さんにお願いした時、普通であれば牛腸作品と三浦作品を分けて展示するのが一般的だろうと思ったんです。ところが、それをどうやってまとめて見せるのかということに、すごく興味がありました。最初にこの展覧会のレイアウトを見せてもらったときは、正直びっくりしました。でも、僕は自分が2周遅れで来て、トップの人と並んだような感覚になり、逆にすごく嬉しかったんです。競技場で1周遅れて走っているランナーの気分に似ていると思うんです。油断はできないけれど、走れた喜びもある。そんな感覚を、今回の写真展でも感じています。 佐藤 そんなに遅れているとは全然思っていなくて、その三浦さんの気持ちは今回初めて聞いて、なるほどと思いました。ただ、やはり若くして亡くなられた牛腸さんの視点と比べると、三浦さんの写真には、きちんと「大人の視点」があるように感じます。もちろん牛腸さんも大人になってから写真を撮っていますが、もし自分が子どもの頃にもっと自由で、健康だったらこうしたかった、ああしたかった、という思いで子どもを見ていた時代もきっとあったはずで、そうした複雑な感情が、子どもたちの写真の中ににじんでいるようにも見えるんです。これはあくまで私個人の解釈ですけれど。それに比べると、三浦さんの写真は、やはりとても「大人の眼差し」だなと感じました。 三浦 やっぱり時間が経って、きちんと「こども」を子どもとして対峙できるようになる。自分の子どもを育ててきた中で生まれてくる視線というのは、確かにそこにあるんですよね。だからいつも、牛腸さんはどんな気持ちで写真を撮っていたんだろう、というところにまた立ち返っていくんです。うん、やっぱり牛腸さんと関係を深めながらずっと続いて行くのかな。 もう一つの居場所──島尾伸三・潮田登久子と牛腸茂雄 三浦 アトリエブロックが牛腸さんの青春時代の最後を締めたと話しましたが、もう1つ重要な場があります。少し後になりますが、写真家の島尾伸三さんと潮田登久子さんの家庭です。潮田さんは僕たちが桑沢で写真を学んでいた時の助手で、島尾さんは造形大学の学生でした。2人の家庭には牛腸さんもよく出入りしており、しまおまほさんの写真も撮っています。ここも、牛腸さんの大事な場の1つだと思います。 佐藤 島尾伸三さんと潮田登久子さんはお2人とも写真家です。潮田さんは数年前に『マイハズバンド』という写真集を出版し、自身の家庭やまほちゃんも撮り続けた作品がまとめられています。潮田さんは80歳を過ぎても海外で高く評価され、一躍時の人となりました。その写真集には、牛腸さんが島尾家を訪れたときの写真も含まれており、交流の深さがよく分かります。 三浦 島尾さんていうのは、小説『死の棘』の作者の島尾敏雄さんの息子さん。だからもうすごく大変な生活を少年時代から送ってきたんだろうなって思いますよ。ずっと書かれてんだから。 佐藤 島尾敏雄さんは特攻隊の生き残りで、奥様は奄美のユタです。そのお子さんが島尾伸三さんで、お孫さんがまほちゃんです。島尾敏雄さんは『死の棘』にもなった作家で、いろいろ小説を書いています。実は三浦さんは沖縄で島尾さんのポートレートを撮影したこともあるそうです。牛腸さんが島尾家を訪れていた頃、三浦さんはあまり一緒に行っていなかったのですか? 三浦 一度も行ったことはありませんでした。島尾伸三さんはとても癖があり、近寄りがたい人で、人を人として見ないところがあるので、全然相手にしてくれませんでした。最近になって、やっと仲良くなってきたのですが、牛腸さんのことも辛辣に言いつつ、きちんと文章に残しています。だから、本当に大した人(大人)だなと思います。 沈黙の中で引き受けたもの──牛腸茂雄作品を守るということ 佐藤 ご遺族がいらっしゃるので、著作権の管理はご遺族がされていますが、作品自体は本当に全部、ネガも含めて管理されてるのは三浦さんなんですよね。牛腸さんが亡くなられた後に、なんで三浦さんがかなりの大役を担うことになったのでしょうか。責任もあるし、結構荷が重い話だと思うんですよね。 三浦 そうなんですよね。仲間はたくさんいたんですけど、誰も下を向いて黙っていて、何も言わないんです。だから牛腸さんが亡くなって整理する時、ネガをどうするかなど悩みました。書籍はご実家にすべて運び、牛腸コーナーのような形で一時的に展示していたんですが、作品やネガ、プリントをどう扱うかとなると、みんな「自分がやります」とは言えないんですよね。だって、それを預かって火事になったり、保存状態が悪くてダメになったら、何を言われるかわかりませんから。 佐藤 いや、ほんとネガって結構大変なことですよね。保管って言っても。 三浦 美術館でも少し前までネガって収蔵しなかったんです。作品は収蔵するんですけどね。最近ちょっと違うようになってきましたけど、その時に高梨豊さんが、「あんまり気負わなくていいんだよ。自分のネガとおんなじ状況で管理すればそれで十分で、それでダメならしょうがないんだよ。」って言ってくれたんで、「だったら、僕が預かりましょうか。」っていうことで、そのネガとプリントを大体茶箱を1箱ぐらいを僕がずっと持ってたんです。そのネガを、茶箱を見に来たのが、飯沢耕太郎なんです。大辻さんから、「三浦さん、牛腸さんに興味を持ってる学生がいるんだけど、三浦さん会ってやってくれませんか?」って言われて、「ああ、どうぞ。」って言ったら、飯沢耕太郎さんがビーチサンダルと短パンでやってきたんです。 佐藤 飯沢さんは筑波大学の大学院にいらして、そこで大辻さんと出会うんですね。 三浦 その茶箱を見てもらって。 佐藤 飯沢さんは実は調査に来てらっしゃる時に、展覧会とか牛腸展とかには行ってるみたいなんですよね。だけどご本人には結局一度も会えないまま。 三浦 そうだって言ってましたね。 佐藤 飯沢さんはじゃあその時、三浦さんのところへ来て、その牛腸さんが残したものを見られたのですね。 三浦 飯沢さんみたいな人だと、一瞥すると大体のものが把握できるから、それでいろんなことができるっていうふうに判断したんじゃないかと。 佐藤 それで、山口県立美術館に繋がっていくわけですね。 三浦 その山口県立美術館で写真展をやって、その後に茶箱を、島尾伸三さんのところに預けて編集したんですよ。それが、四谷三丁目のモールっていうギャラリーでやった展覧会と冊子になってるんです。 佐藤 プリントとか結構大きいコレクションは、先程言ったように『SELF AND OTHERS』は山口県立美術館、『日々』は東京都写真美術館なんですけれども、それ以外に関しては、故郷、生まれ故郷の牛腸さんの新潟市美術館が基本的には管理されているんですよね。 三浦 その後に山形美術館、それから、新潟市美術館と三鷹市美術ギャラリー、この3館で牛腸茂雄の巡回展をやったんですね。その時に、家にある資料を全部持っていって調べた。で、それが『牛腸茂雄作品集成』っていうカタログになったんです。これができたおかげで、今、牛腸さんがきちっとちゃんとした形で紹介されていると思う。 佐藤 本当にそうなんですね。いろいろなところで、その写真以外でも紹介される機会が多いので、それこそ飯沢さんの『デジャ=ヴュ』で多分一番最初に出たんだと思いますけど、お姉さん宛のお手紙だとか、そういったものもかなり全部保存されてるんですけど、この時の新潟市美術館の松沢さんとか関係者の学芸員の方々がすごい入念にリサーチをして、きちっとファイリングをしてくださったおかげで、今いろいろな展覧会ができています。 三浦 この企画を立てたのが、共同通信社の石原さんっていう人なんです。石原さんの熱意で山形美術館、新潟市美術館、三鷹市美術ギャラリーが協力したっていう形なんですよね。 佐藤 石原さんはそもそもどこから牛腸茂雄展の企画を立ち上げたいと思われたんでしょうか? 三浦 おそらくモールでしょうね。 佐藤 そうやってちょっとずつ、茶箱の中に収められていたものが、いろいろなきっかけで世の中にちょっとずつ出て、整理されていくっていう過程を、三浦さんは本当に全部伴走してくださっている。 三浦 ネガ以外のコンタクトシートとか、『扉をあけると』、まだ作品集にはなってない『水の記憶』これも新潟市美術館に全部入ってます。なかなか見せてくれないけどね。 佐藤 そうなんですよね。先ほど三浦さんがおっしゃっていた2004年に開催された巡回展に合わせて、共同通信社から『牛腸茂雄写真集成』が刊行されたんです。本当に素晴らしい本で、「これ1冊あれば何でもわかる」と言えるような内容でした。ただ、その本が絶版になってしまい、手に入らない状況で、赤々舎の姫野さんが「それならば『牛腸茂雄写真集成』に代わる、より多くの方に見てもらえる写真集を作りましょう」と声をかけてくださったんです。そうして作られた写真集は、全作品を網羅した内容になっています。また、『SELF AND OTHERS』や『日々』については、昔の作品を復刻するかたちで制作されました。本当に印刷所も頑張ってくれて、丁寧に仕上げてくれました。 佐藤 現在、山口県立美術館に収蔵されている『SELF AND OTHERS』の印刷原稿のプリントをもとに、デザイナーさんやプロデューサーさんと一緒に収蔵庫を開けて見せていただき、実際にプリントを確認しながら印刷を作り上げていった、という経緯があります。 三浦 初版の『SELF AND OTHERS』はグラビア印刷なんです。今はもうグラビア印刷っていうのがほとんどなくなってしまった。で、オフセット印刷なんですが、実はこれ、同じ印刷会社が担当してるんですね。 佐藤 偶然なんですけどね、日本写真印刷コミュニケーションズ株式会社という京都にある印刷会社さんです。 三浦 会社が力を入れて再現してくれてるので、デザイナーの方の力もあるんですけど、本当にちゃんとしたものに仕上がってる。で、発行はもう2年前でしたっけ? 佐藤 そうです。もうね、3年になりますね。 三浦 で、本当はすぐ資料編も出す予定だったんですけど、資料整理が思ったよりハードで、未だに作業中です。完成はいつですかと聞かれる度に「すみません。」と謝っているんですけど。 佐藤 そうですね。もともとの『牛腸茂雄写真集成』は、資料も写真もすべて収めた、1冊で完結する本でした。最初は今回もそのような形を考えていたのですが、すべてをまとめるとかなりのボリュームになってしまい、実現が難しいという判断になりました。そこでまずは、図録として写真集を制作することになりました。ただ、資料も見れば見るほどまだまだ多く残っているんです。せっかく新しく作るのであれば、そうした資料も掲載して、皆さんの手に届くかたちにしたいという思いもあり、準備に時間がかかっています。本はそのように、かたちとして世の中に残っていくものですが、展覧会は残りにくいものです。展覧会のために、三浦さんがプリントしてくださったモノクロ全作品を実際に見た方の記憶の中にはとどまると思っています。 それぞれが紐解く牛腸茂雄──連なり続ける評価 三浦 こうした活動を続けていると、やはり若い世代の方が牛腸さんに興味を持ってくれるようになりました。その1人が、小倉快子さんです。彼女は高校生のときに、新潟で開催された3館巡回の写真展を見て衝撃を受け、写真の道に進むことを決めました。その後、日本大学に進学し、自ら新潟に「BOOKS f3」という書店を立ち上げます。そして、そこで写真展を開催したいと考えました。『牛腸茂雄写真集成』はすでに刊行されていましたが、彼女はあらためて資料を調べ直し、自分なりに「牛腸茂雄とはどういう人物なのか」を問い直す展覧会を企画したのです。その際には、パンフレットも自ら制作していました。 佐藤 これが本当によく出来ているんです。今の彼女の世代から見た、新しい牛腸茂雄という視点がしっかりと盛り込まれていますし、もちろん強い思い入れや「好きだ」という気持ちもあるのでしょうが、それだけではなく、とても入念にリサーチがなされています。牛腸さんが辿った道を丁寧に追い、自分自身でも写真を撮ってまとめるなど、真摯に向き合っているんです。正直なところ、私自身もこれを見てかなり触発されました。実は、最初の段階で写真集の制作が少し滞っていた時期があったのですが、これを見て「やはりやらなければいけない」と強く思い直したんです。 三浦 その写真展のタイトルがね、すごくいいんですよ。 佐藤 牛腸茂雄 写真展 「SELF AND OTHERS〈失われた瞬間の探求、来たるべき瞬間の予兆〉」 三浦 彼女の気持ちは、本当によく伝わってきます。限られた時間の中で急ぎながらも、資料を的確に整理していて、これがあると牛腸茂雄という人物像がぐっと見えてくるんです。 佐藤 今のお話を聞きながら思ったのですが、良い作品が残っていくためには、作家自身の運命もありますし、亡くなった後に支える周囲の存在も関わっていると思います。ただやはり、新しい世代にどう受け取られていくか、ということが大きいのではないでしょうか。時代はどんどん変わっていきます。その中で、点と点をつなぐように受け継がれていくものこそが、本当に残っていく作品なのだと、牛腸さんのことを見ていて強く感じます。三浦さんは、日本写真芸術専門学校で先生をされていたこともありますし、若い世代や次の世代のことを、何かをするたびにきちんと考えて動いてくださっているように感じます。そばで見ていて、そう思うことがとても多いんです。決して「自分の言うことを聞け」というような姿勢はなく、むしろとても謙虚でいらっしゃる。その姿を見ていると、どうしてこんなに謙虚でいられるのだろう、と感じてしまうほどです。本当に、そういうところがまったくないんですよね。 それから、牛腸茂雄さんも、亡くなった当時は今ほど大きな評価ではなかったかもしれませんが、年を追うごとに再評価が進んでいきました。『デジャ=ヴュ』で特集され、大きな展覧会が開催され、さらにはドキュメンタリー映画も公開されるなど、少しずつ広がっていったのです。 三浦 佐藤真監督の『SELF AND OTHERS』これもいいよね。牛腸さんの肉声が出てくるんですよ。もうそれ聞いた時には鳥肌が立ちます。 佐藤 この映画の制作にあたっては、ドキュメンタリー映画監督の佐藤真さんが関わっていました。とても新しいタイプのドキュメンタリーを撮る方でした。三浦さんたちが牛腸家でさまざまなリサーチを進めていた際に、それまで誰も知らなかった、牛腸さん自身が録音していたテープが発見されたんです。 三浦 そうなんです。それ佐藤真監督と新潟市美術館の元学芸員 大倉宏さんがそれを見つけて、車の中で聞いて、何かもうゾクゾクしたっていう話を聞いていました。 佐藤 機会があれば、これもDVDになっているのでぜひご覧いただくと面白いと思います。私が言いたかったのは、こうして牛腸茂雄という写真家の名前が徐々に世の中に広まり、評価されていく過程のことです。その中で、三浦さんは淡々とネガを管理し、優れた作品をきちんと残すと同時に、ご遺族との関係も非常に良好な形でつなげてくださいます。三浦さんがいなければ、ここまで多くのことが実現しなかったのではないかと思うこともあります。ただ、三浦さん自身も展覧会をご覧いただくとわかる通り、写真家として同じ立場にいるので、牛腸さんに対して嫉妬やライバル心のような感情をほとんど抱かないんです。そこが本当にすごいなと感じます。同じ写真家として、どうしても「なぜ牛腸ばかり評価されるのか」と卑屈になりそうな場面もありますが、三浦さんは全くそうならない。その姿勢が、本当に尊敬に値するなと思います。 三浦 牛腸がじろじろ見られても卑屈にならなかったから、それに負けないようにと思って。 佐藤 でもやっぱりそういうお人柄を見抜かれていたんじゃないですかね。何か知らぬうちにやっぱり選ばれていたっていうのは、何かそんな気もしないでもないですけれども。 二人の写真が対峙する空間 ご質問ある方いらっしゃいますか? 質問者 今回の展示の見方は、会場を時計回りで見た方がよろしいでしょうか?見方を教えてください。 佐藤 今回の展示についてですが、正直なところ、順番はあまり気にせず、どう見ていただいても構わないと思っています。入ってすぐのパネルはこの方向に見えるのですが、私の最初の意図としては、左側から、さっきの子どもの大きな写真のあたりから見ていく流れを考えていました。ただ、会場自体が広くないので、順番に縛られず、むしろ自由に見てもらった方がいいのではないかと思っています。キャプションもあえてつけていません。そのため、少し見にくいかもしれませんが、これは展示の構成について何度も相談した結果の判断です。「これは牛腸さんの作品で、これは三浦さんの作品」ということは、牛腸さんをご存じの方ならわかるかもしれませんが、初めてご覧になる方はどちらの作品か迷うかもしれません。作品リストは配布していますが、それを見ながら、少し考えながら作品を見ていただくと面白いと思います。長く見ていると、だんだん「これは牛腸だ」「これは三浦だ」と、自然に見えてくるものもあるのではないでしょうか。展示の順番や構成については、三浦さんはいかがでしょうか。 三浦 こうした企画展は、やはり会場の場所によってかなり印象が変わりますよね。今回は、佐藤さんがおっしゃったように、基本的には左から見ていただき、ぐるっと回ってもらう形が基本です。ただ、並べ方を見ていただくとわかる通り、写真展では普通1列に並べることが多いのですが、今回は段違いの配置になっているので、どの順番で見ても構いません。気になったところを自由に見て回る、というので十分だと思います。 質問者 個人的には、『SELF AND OTHERS』の最後の写真、子どもたちが少しの煙のようなものに向かって走っていく場面がありますが、あれは明確なメッセージなのかな、と勝手に思い込んでいるところがあります。ただ、それが壁面の真ん中に配置されているので、ちょっと驚いてしまうんですよね。 佐藤 そうですね、私もそう思います。正直、この写真を入れるか入れないかは、本当に悩ましいところでした。入れるにしても入れないにしても、非常に有名な写真ですし、作品自体の力がとても強いので、展示するとどうしても浮いてしまうことは、最初からわかっていたんです。そのため、このセレクトの段階から、「入れるか入れないか」が大きな判断ポイントになっていました。 三浦 そうですね。でも、そうなると、双子さんの写真は入っていないんですよね。あれ(煙に向かって行く子どもたち)は牛腸さんの『SELF AND OTHERS』という写真集の中で、最後の作品です。ただ、それを今回のように、特に意味を持たせず何でもない場所にぽんと置いたときにどう見えるか、というのは非常に実験的な試みです。新しい発見があるのか、それとも失敗に終わるのか、そういうことを確かめる場でもあります。物事はこうした考え方をしないと、次に進めません。もちろん、牛腸さんが作った『SELF AND OTHERS』の写真集自体は、あれで既に完結したコンプリート作品です。 佐藤 そうですね。これで思い出したのですが、一番最初と最後、どちらが最初でどちらが最後でも構わないのですが、さっきの牛腸さんの子どもの写真に使った作品のことです。 要するにそれはあえてこっちに牛腸さん、 こっちに三浦さんっていう二人の写真が1点ずつは対峙するように、お互いが写真をこう見つめ合ってるんじゃないけど、そこはすごく意識したところですね。   ある意味で、三浦さんと牛腸さんの関係性を象徴するような形になっています。そのため、2人展としての意識を持ってもらえるように、1点1点の配置だけは最初から決めていました。 三浦 だから僕はこの写真展すごく嬉しいな、よかったなと思ったんですけど、牛腸さんはもしかしたらそう思わない?って最初に言ったのはそういうことです。 佐藤 あと、文字情報があまりにも少ないと、知識のない方は戸惑ってしまうだろうな、というのは、私自身も最初から感じていたことです。それから、窓側の壁についてですが、もともと壁がほとんどない場所だったため、最初はここに展示する予定はありませんでした。しかし、いろいろと黒田さんにご無理をお願いしたところ、なんとベニヤで壁を作ってくださったんです。 本当に大変だったと思うので、とてもありがたく感じています。 質問者 学生が見た方が良いオススメの写真集や作品を教えてください。 三浦 僕、結構いろんな写真が好きなんですよね。沢渡朔さんの『ナディア』とか、『少女アリス』とか、篠山紀信さんの『晴れた日』とか、いろんな作家を全部じゃないけど、色々見ています。図書館で片っ端から見た方がいい。片っ端からパッパパッパでいいの。それを見てる時に、どこか一つでもいいから引っかかると。それがなぜかなっていうのを自分で考えていけばいいと思いますよ。 佐藤 展覧会も見てください。写真集と展覧会って違う媒体なので、同じことを伝えようと思っても、写真集になった時と、展覧会、しかも展覧会って美術館みたいな場所もあれば、小さいギャラリーもあって、見る場所で作品も全然違って見えるし、テーマによっても、『SELF AND OTHERS』じゃないですけど、牛腸さんの個展だったらこういう並べ方はしないよね。っていうことも、展示のテーマに沿って見せる作品と、また全然違って見えると思うし。なので、写真集と展覧会って両方見てもらえると気づきもあって面白いかなと。 佐藤 今日ちょっと特別に、牛腸さんから三浦さんに送られたお手紙を持ってきてくださいました。 三浦 これ、僕が桑沢2年の時、20歳になった時ですね。牛腸さんの記した日付見ると、昭和41年2月21日ってなってるから、ちょうど20歳になった時に僕に手紙をくれたんです。それ読みますね。 三浦 君が手にあふるる水は、過ぎし水の最后のものにして、来たるべき水の、最初のものである。現在という時も、また、かくのごとし。ーレオナルド手記、人生論よりー いつか、むかえねばならない“この時”といっても、これは形式的な人生における、ある一時点であるのかもしれません。しかし、人間には、このような、割り切れない“もの”「何かが」やっぱり必要と思うんです。ボクもあと数ヶ月で、貴殿のあとを追って、このような事に直面しなければならないのかと思うと、人ごとのように思えないのです。そして、二度と来ないこの日を称えるべく、心から「おめでとう。」とこの一言をお贈り致します。今後の御多幸を祈り致しております。常々のお礼というより、感謝の気持で、微々たる余りふさわしくないものであるかもしれませんが、フィルム(SS・20)をお贈り致します。(貴殿のお進すみになられる道、また、思いのままに使って永久(?)に残るもの、しかも、お金のかからない、そんなことから考え合わせて。)また、フイルムはどこにも売っておりますが、20才(はたち)のシャッターは、いかに技術が向上しても押すことのできないものと思うんです。そんなシャッターが、このフィルムに切られたら、この上ない喜びかと存じております。 ではこの辺で筆を置かせて戴きます。 三浦和人様 牛腸茂雄 41・2・21   三浦様、佐藤様、貴重なお話ありがとうございました。 文・編集/PicoN!編集部 市村 展示撮影/黒田渉   ↓PicoN!アプリインストールはこちら

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