現代アニメ批評 #2『チェンソーマン』

「現代アニメ批評」では、幅広いアニメ作品の中から話題の(もしくはちょっとマニアックな)作品を取り上げ、アニメ鑑賞をより深く楽しむための批評を連載していきます。

今回取り上げる作品は、現在の『週刊少年ジャンプ』を代表する作品と言って過言ではないほどのビッグタイトルである藤本タツキの同名漫画を原作とする『チェンソーマン』だ。型破りで圧倒的なオリジナリティがギラギラと光るこの作品は、「傑作」というよりも「怪作」という表現がよく似合う。2022年にテレビアニメ化され、続編となる「レゼ篇」が劇場版アニメとして今年2025年の9月に公開予定である。原作同様、アニメも非常に高い評価を得ている。

アニメとその原作を全くの別作品として鑑賞することも可能だが、こと『チェンソーマン』に限って言えば、アニメと原作漫画の両方からの解釈が必要だろう。それは、藤本タツキの漫画には、描くことの快楽、キャラクターが動くことの快楽が、深く刻まれているからだ。漫画とアニメの交差路から、我々を惹きつけてやまない『チェンソーマン』の魅力に迫りたい。

描線に滲む、世界への違和感。藤本作画の “ぎこちない” 魅力

藤本タツキ作品は、とにかく絵が魅力的だ。言うまでもなく漫画は静止した絵によって成り立つ。しかし彼の描く漫画は、その静止した絵から、キャラクターの動き、いやもっと言えばそのキャラクターの人生そのものが伝わってくるのだ。

止め絵としての美しさを求めるのではなく、精巧な構図や全体のバランスを崩してまで絵にダイナミズムを求める漫画家はいくらでも存在する。だが、彼の絵の“動き”は、観る者に高揚感を与えるようなダイナミズムではなく、読者に不安や居心地の悪さを与えるようなギクシャクとしたものである。

例えば、本作の主人公であるデンジ。彼は姿勢も悪いし歩き方にもなめらかさがなく、アクションもぎこちなかったり格好悪かったりする。不揃いでガタガタの歯が並ぶ口を大きく開いて下品に喋る。デンジに限らず、気味の悪いキャラ、気持ちの悪いキャラ、育ちの悪そうなキャラ・・・そういったキャラクターこそが、藤本タツキ作品の魅力の中心にいる。

そして、彼の描くキャラクターたちは皆、心のどこかにこの世界への違和感を抱えている。我々が否応なく生まれ落ち、生き、そして死ぬことになる、この世界に対する違和感。いかなる希望や美しさでさえも上書き不可能な、根源的な違和感。だからこそ、彼らの生はぎこちないのであり、あの独特なギクシャクとした動きは、彼らの人生そのもののぎこちなさを我々の直感に訴えかける。

『AKIRA』と『チェンソーマン』 – “不気味の谷” の向こう側

アニメーションにおいて、藤本タツキの描くキャラクターたちのぎこちなさは存分に描き尽くされ、その独特な存在感をさらに強めている。同じく藤本タツキの漫画を原作にしたアニメーション映画『ルックバック』を観たとき、他のアニメ作品には感じたことのない違和感を覚えた。いや、正確に言えば、同じような違和感は過去に一度だけ覚えたことがある。その作品とは、大友克洋の同名漫画を原作とする長編アニメーションの傑作『AKIRA』である。

『AKIRA』を初めて観たときの衝撃は未だによく覚えている。とにかくキャラクターが生命力にあふれている。自分の生まれる前に公開された作品にもかかわらず、それまで見たこともないほど絵が良く動き、キャラクターの表情が、感情が、生の感触として伝わってくる。テレビアニメ作品に慣れた自分にとって、そこに息づくキャラクターたちは、なぜか不気味な違和感をともなって目の前に現れた。

きっとそれは、超一流のアニメーターたちがその技術の粋を尽くし、過剰なまでになめらかな動きによってアニメイトした(=生命を吹き込んだ)キャラクターたちが、ある種の不気味さを湛えているからではないか。そのような優れたアニメーション=虚構によって、我々はそのとき初めて気づくのである。現実の生き物の動きは、よく見ればすごく不気味ではないか、と。そしてこの独特の不気味さを湛えたキャラクターたちは、同時にどうしようもないほどの魅力に溢れている。

『チェンソーマン』もアニメーション自体はまさに時代の最先端にして最高峰と言って良い水準にある。だが、いや、だからこそ、その過剰に流麗なアニメーションが、キャラクターたちの不気味な魅力の源泉になっている、という逆説がある。

悪魔とは何者か? – 格差、身売り、失われた時代

もちろんそういったアニメーションの素晴らしさのみならず、物語としての独自性も『チェンソーマン』の本質的な魅力のひとつである。言うまでもなく〈悪魔〉の存在こそがこの作品のオリジナリティの根底にあるわけだが、その描かれ方、より正確に言えば、悪魔との契約の描かれ方が特に面白い。

着目したいのは、悪魔との契約が人身売買の比喩になっていることだ。悪魔と契約したデビルハンターは、悪魔の力を使う対価として、悪魔に身体の一部や寿命を提供する場合が多い。

思い出したいのは、デンジは亡き父がヤクザに負った借金を返済するために、腎臓と右目、睾丸を売っていることであり、それが物語の冒頭に示されている点である。ここでは明らかに、悪魔との契約が臓器売買の比喩として描かれている。

そして、もうひとり思い出したい人物がコベニである。彼女は、優秀な兄だけは大学に行かせたいという親の意向によって、風俗で働くかデビルハンターになるかしか選択肢を与えられず、大学進学を諦めてデビルハンターになったという経緯がある。

こういったエピソードが物語の序盤で示されており、悪魔との契約やデビルハンターという仕事が、臓器売買や売春、つまりは「身を売る」こととのイメージの連鎖の中に位置づけられる。

失望世代のマイヒーロー

生まれながらに先行世代の負債を背負い、家族を持つことはおろか恋愛すら法外な望みであり、臓器を売り違法な労働に手を染めてすら最低限の生活は成り立たず、ジャムを塗りたくったパンが食べたいというのが望みうる最高の夢であるデンジ。家族のために自分の意思とは無関係に「身売り」しなければならないような境遇を生きるコベニ。

さらに言えば、デビルハンターになる人間は、そのほとんどが家族など大切な人を悪魔に殺された人間であり、復讐のために地獄のような仕事を生業にしている。

生まれながらに、あるいはただ生きていただけで、「普通に幸せな人生」を奪われた人間たちの物語が『チェンソーマン』なのだ。そのような存在における幸福とは一体何なのか。そのような世界に生きる者の生とは一体どのようなものなのか。この作品の根底には、そのような問いが横たわっているように思えてならない。

連載の第1回で私は、「『鬼滅の刃』とは、若者が家族を持つことを躊躇するほど過酷な時代が産み出した鬼子なのではないか」と書いた。そうであるならば、『チェンソーマン』は生まれながらに先行世代の負債を背負い、家族どころか自分一人の「普通の人生」さえもが法外な望みになってしまった世代の物語であると言えるのではないか。

先行世代に幸福を食い潰された世界、それこそがデンジたちの生きる世界なのである。そんな世界を生きる彼らの魂に刻まれた、いかなる希望や美しさでさえも上書き不可能なこの世界そのものに対する根源的な違和感。この作品がこれだけのヒット作となったのは、多くの人々がそういった剥奪感と違和感に共鳴していることの、共鳴せざるを得ない時代になったことの証なのだと考えると、暗い気持ちにもなる。

Easy revenge! 私怨は紫煙のかなたに

ただし、そんな絶望の中にも、希望は、ある。

その鍵は、アニメ第一期のキーガジェットのひとつ、タバコにある。タバコ……それは『チェンソーマン』第1章のもう一人の主人公とも言えるアキの心のよりどころであり、彼のバディである姫野との絆を象徴する、重要な意味を帯びた小道具として劇中に登場する。

アニメ第一期の最終話、幽霊の悪魔からアキに渡されたタバコには、「Easy revenge!」という姫野からの言葉が書かれていた。程度の差こそあれ、多くの人が「普通に幸せな人生」を奪われている世界。かつては誰もが享受していた「普通に幸せな人生」が、予め奪われている世界。

そんな世界に生まれ、逃れられない剥奪感に襲われ、底なしの絶望ともがき苦しむような渇き、晴らしようのない恨みに襲われたとしても、それでも、気楽に、バカになって、この世界に楽しく復讐しながら生きるような生き方ができるとするなら。すべての苦難を吹き飛ばすことはできなくても、苦々しいタバコの煙を一度は吸い込んで、そしてそれをふーっと吐き出すような生き方ができるとしたら。全てを一度飲み込んで、それでも肩の力を抜いて、楽しく生きることができるとするなら。

それこそが、「普通に幸せな人生」を奪ったこの世界に対する復讐に他ならないのではないか。

絶望と渇き、そして恨みがタールのように我々の内臓を蝕み、いずれ悪魔のように我々を呪い殺すのだとしても、それまでの間はせめて気楽に楽しく、肩の力を抜いてこの世界に生きる・・・。大切な存在を奪われ、自分の人生を奪われ、臓器を抜かれ、魂を売り、自身の存在さえも質に入れるような生だとしても、それでも、真面目に頑張ってこの世界に復讐をするのではなく、気楽に、肩の力を抜いて、自分の感情に素直に生きて良いのだとするのなら。喪失とともに、悲しみとともに、悪魔とともに…。

『チェンソーマン』は型破りでぶっ飛んだ作品だ。「怪作」という言葉がぴったりだ。だが、その根底に、この暗い時代に生きることへの違和感と絶望、苦しみに真摯に向き合おうとする誠実さがあることは、間違いのない事実である。

 

文: 冨田涼介
批評家。1990年山形県上山市生まれ。2018年に「多様に異なる愚かさのために――「2.5次元」論」で第1回すばるクリティーク賞佳作。寄稿論文に「叫びと呻きの不協和音 『峰不二子という女』論」(『ユリイカ』総特集♪岡田麿里)、「まつろわぬ被差別民 『もののけ姫』は神殺しをいかに描いたか」(『対抗言論』3号)など。

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