Lines of Sight ーそれぞれのアジアへの視線ー vol.18
学校法人呉学園 日本写真芸術専門学校には、180日間でアジアを巡る海外フィールドワークを実施する、世界で唯一のカリキュラムを持つ「フォトフィールドワークゼミ」があります。
「少数民族」「貧困」「近代都市」「ポートレート」「アジアの子供たち」「壮大な自然」、、
《Lines of Sight ーそれぞれのアジアへの視線ー》では、多様な文化があふれるアジアの国々で、それぞれのテーマを持って旅をしてきた卒業生に、思い出に残るエピソードを伺い、紹介していきます。
憧れの地へ
PFWゼミ12期生 田村 ありさ
熱帯雨林の中を湿った空気と土の匂いに包まれながら、鬱蒼とした樹海の道のりとは反して気持ちが高揚していた。
二年生の時からずっと訪れてみたかった、マレーシアにあるキナバル山に登っている。
首都クアラルンプールのあるマレー半島より、東の位置にあるボルネオ島。
その北部、サバ州にある標高4,095.2mとボルネオ島一高さを誇る山で、海外での登山としては登りやすく観光客で賑わっているが、サバ州に居住するドゥスン族にとっては、祖先の霊が宿る山であり神聖な場所だ。
民話・民謡や言い伝えのある場所へ行き、その土地の人々の暮らしや文化、それを取り囲む自然を撮影していた自分にとって、キナバル山を崇拝しているドゥスン族は大変興味深く、キナバル山は絶対に訪れようと決めていた。
二年生の時、研修でマレーシアへ。
その時はキナバル山には行かず、西南の位置にあるPenampangにて川沿いに住むドゥスン族のお祭りや生活を中心に撮影をしていた。
撮影も終盤に差しかかったころ、滞在していたホテルのオーナーさんに誘われ朝日を撮りに行った。
暗闇の中で朝日が昇るのを待つ。空が薄っすらと明け始めた時、周りの山々よりも、高く刺々しい頂上が目立つキナバル山に目を奪われた。
まるでRPGに出てくる魔王城のようで、畏敬と興奮、胸が高鳴った。
研修期間中、木々に囲まれた生活を送っていたので、キナバル山をじっくりと見たことがなく衝撃が走った。
頂上まで行ったら、どんな景色が見渡せられるのだろう。今ここにいる場所が見えるのだろうかと、ワクワクが止まらなかった。
俄然三年生になったら行くことを心に決め、二年生の研修を終えた。
三年生になり、フィールドワーク(FW)が始まり再度マレーシアを訪れた。
念願のキナバル山へ登る!と息巻いていたが入山の予約が取れず予定を変更して、麓を中心に、山々に囲まれながらも切り開いた田畑広がるドゥスン族の人々の暮らしやその周辺を撮影することにした。
目の前の遠くにある集落へ弾丸で行ったり、急斜面や丘に登ったり下ったり大変動き回った。
その度に、後ろを振り返ったり横を向くとキナバル山がそびえ立っていて、歩き疲れて途方に暮れても、キナバル山を見つけると元気が湧いてくる。
だんだんと私はキナバル山を荘厳で神聖なる山から、いつも見守ってくれる親しみのある山へと変わっていった。
この感覚は、富士山となんだか似ているなあとしみじみ感じながらキナバル山を見上げることが増えていき、ますますキナバル山への興味と憧れが強くなっていった。
ラストチャンス、FWフリー期間へと目を向けることにした。
フリー期間はキナバル山の麓にあるキアウ村にてホームステイをし、サブランさんご家族にお世話になった。
キナバル山に登る前に、キアウ村について村の案内をしていただいた。
訪れる所々アップダウンが激しく、今思えばこの時から山に登る準備運動をしていて、そのおかげで無事に登頂できたのかもしれない。
キナバル山はキナバル自然公園に含まれており、自然遺産に登録されている。
登頂するには一泊山小屋に泊まることが必須で、その関係で人数制限をしているため事前に予約するか当日キャンセルを待たなければならない。
今回滞在数日後に当日キャンセルがあり、運がよく登ることができた。
また入山する際はガイドさんと同行しなければならず、地元のガイドさんのシグーさんという小柄でがっしりとした脚を持ち笑顔が素敵なおじいさんと一緒に登ることとなった。
9月中旬、キアウ村では天気は良好で気持ちが良かったが、標高の高い自然公園入口に着くと肌寒く霧がかっていた。
登山道は整備されてはいるが、雨が降った後のせいで地面は泥濘でいたり石の上は滑ったりと足場に注意しながら、シグーさんを追いかける。
撮影しながら登っていたので、観光客と違ったペースにシグーさんは最初先に行ってしまったりしていたが、徐々にこちらのペースに合わせてガイドをしてくださった。
たくさん喋ったりもせず必要な時に話しかけてくれる、自分にとって撮影に集中できて、居心地のよい距離感だった。
標高が高くなるにつれ植物の背丈が低くなっていき、空が近い。
天気がよかったら周りの景色が見渡せて圧巻なのだろうが、あいにく霧がかかっていて雲の中にいるのだろう、頂上までおあずけ。
登山開始から5時間、山頂付近に着いて予約していた山小屋にて一泊し、真っ暗闇の朝2時半に出発して山頂を目指す。
皆一斉に頂上へ目指すので数珠繋ぎになって進んで行き、頭にヘッドライトを点けて進むので緩やかな一本線のごとく上へと続いている、道標のように見えた。
足元は土から段々とゴツゴツした石へと変わり、植物もほとんどいなくなって岩だけの世界になった。
急な斜面もあり、ロープを掴んで上に登る、朝からアクティブである。
昨日の疲れもあってか皆黙々と、少しの話し声と服の擦れる音、自分の息づかいだけが聞こえる、静かで異様な状況になりつつあった。
山頂間近、その日は爪を切ったような細い月が浮かんでいて、細い月なのに光が強く、辺りをうっすらと照らし出した。
一面なめらかな岩肌と隆起した岩山が姿を現し、違う惑星に来たかのような錯覚に陥った。
午前5時30分、頂上に到達。風が強く吹いていて寒かったが、地平線が色づき始めるのを見続けながら太陽が昇ってくるのを待った。
徐々に視界が明るくなって、山頂から見える景色があらわになった。
岩肌と空だけの景色、下を見ると連なる山々が海の波のように押し寄せてくる、絶海の孤島ってこんな感じなのかなと、不思議な感覚だった。
また太陽が昇ってくると反対側に山頂の影が伸び始め、山々をより向こう側の海までも巨大な三角形の影が覆い被さっていた。改めてキナバル山の標高の高さに圧倒された。
ご来光を仰いで少し経ってから、頂上台地のある箇所へ向かう。
ドゥスン族が儀式をする際に使用する小さな池がある。儀式は、毎年キナバル山を訪れるすべての人々の安全と幸福を確保するために、年に一度慣習的に行われている。司祭またボボリアンという高位の巫女により鶏などを生贄に儀式が行なわれ、生贄の池と呼ばれている。
サブランさん宅で見た写真よりも小さく感じたが、澄んでいてとても綺麗だった。
もっと散策したかったが、そろそろこの絶海の孤島を降りる。
下山するとこんなところを登ってきたのかと驚きの連続で、暗闇と雲の中のおかげで登ってこれたのかもと自然の現象に感謝した。
頂上付近は足取りも軽快だったが、段々と降りるペースがゆっくりになってきて、入口に着く頃には亀並みの足取りでなんとか無事下山を終えた。
次の日を迎えて2、3日間あまりにも動けなくて摺り足でしか行動ができず、笑うしかなかったことを今でも覚えている。
富士山にもまだ登ったこともない高尾山止まりの私にとって未知なる領域だったが、二年生のマレーシア研修・FWを通してキナバル山に好奇心を掻き立てられ無事登ることができた。
それもドゥスン族の方々と関わって、その土地に足を運んで想いが募った結果だったと思う。
遠くから、麓から、樹海から山頂まで畏れ美しく、感慨深い経験となった今でもずっと憧れの場所である。
今回紀行文の話しを頂いた時、11カ国の旅を終えてから6年が経ち、思い出せるだろうかと不安だったが、手元にはたくさんの写真と少しのメモ、そして当時のブログのおかげで詳細を思い出すことができた。
細かいことは覚えていなくても、今も東京にいてもこの気温はインドの何処そこに行った時の気温に似ていたり、ベトナムの何処そこの路地の匂いを感じたり、気のせいだったとしても五感がそう感じるのであればその当時を思い出しては懐かしんで行きたくなったりする、丸々愛おしい思い出である。
思い出補正もあるだろうが、あの時の感動を、感覚を忘れることだけは多分一生ないのだなと思った。
無事に11ヶ国も旅を終えられたのは、学校の先生方や事務の方々のご協力のおかげでできたことを、ありがたい環境だったことを個人で撮影していると身に沁みて実感する。
改めて、学校の方々やサポートしてくれた家族や友人、そして各国の現地で出会った方々に感謝を申し上げたい。また会いに行く。
今回この紀行文を思い出すのに大分時間がかかってしまった。待ってくださった編集部三浦さんにも感謝を伝えたい。
ありがとうございました!