【写真学校教師のひとりごと】vol.23 髙橋尚紀について

地味な男だ。特別飛び抜けたところはない、ただ、すべきことは着実にこなす男だ。実にマイペースに。

かれは学校へ入る前から写真を撮っていた。鉄道写真をやっていたのだ。

小学生のころからカメラをもって列車を追いかけていたという。写真制作全般にかかわる会社があり、そこでプリンターが必要となり、高橋を雇用することにしたのが、かれの進路を決定づけた。また好きで撮り続けてきた鉄道写真は15年ほど前に、西荻窪のギャラリー、がらん西荻で「EPILOGUE〜2010」と題し、初個展を開いた。

だがいろいろ思うところがあり、捲土重来を期しているのが現在の心境のようだ。

つまり自分の写真を撮ることをやめることなく、まだまだ大いに撮るということだ。

わたしにとってはやる気があり、ある程度気心の知れた、かつての学生が一人でも多くいればそれにこしたことはないのだ。

高橋尚紀は卒業生の一人である。かれは次の展示をめざして近々北海道へ撮影の旅にでる。

この文章が読まれる頃には、かれはその北海道の旅から帰ってきているはずだ。

 

2024年11月24日磐越西線DL交番検査3月改定前より

 

 

ここであえて名前を伏せてもう一人の人間の話をしたい。

 

この男はカリブに浮かぶ社会主義の国に好意的な興味を持ち、数度通い写真展を開いた。

なかなかただの興味本位レベルとは異なり、明るいラテン気質からくる民族性が垣間見え、こういった閉鎖的な国としてはまれなショットが数多く見受けられた。また最近そこへ行ってきたかれは、今度はこのままでは発表できない、という。

アメリカが最近その国に対して締め付けを厳しくしたため、国が立ち行かなくなり、国自体が厳しい状況に陥っているという。つまり国全体が貧しくなり、本来明るかった人々の表情が暗くなってしまったという。そして町中には不要物やゴミがあふれた状態だったそうだ。

かれはこういった現状をそのまま発表するのは本意ではないのだ。

自分が好意を持って接していた国が、人たちが、見るも無惨に崩壊していくのを直視するのは耐えられない苦痛だろう。それにこの国がこんな状況に陥ったのは、他の国からのある種の嫌がらせによるものだ。こういった状況に接したときには、現実から逃げないで、どういった行動をとればいいのか、ジャーナリストとしての規範が求められる。ただ単に現実を垂れ流しにすればいい、というものではないということは理解できるだろう。

 

じゃあ、このような現実を目の前にしたらどうすればいいのか。写真家として。

このときに写真家という者の小ささ、力のなさを自覚して嘆いていればいいというものではない。

ではどうすればいいのか。

 

暗くなってしまった表情をした人々と、その人たちが暮らしているゴミのあふれた街角。このままでは社会主義の敗北ともとられかねない、状況写真になってしまう。それはかれの意図するものではないし、そうと単純に言いきれるものでもないだろう。こういう状況になってしまったのは、最近のアメリカによるこの国への強烈な締め付けに起因している。

 

なにもしないで、じっと見つめているだけでは一歩も前に進むことはできないのだ。

写真家としてなにをなすべきか?

このまま黙っているつもりはない、なんとか考えをまとめて発表しようと思っている、ようだ。

 

 

なんとも楽しみである。この二人のこれからの発表を心待ちにしている。

菊池東太

1943年生まれ。出版社勤務の後、フリー。

著作
ヤタヘェ~ナバホインディアン保留地から(佼成出版社)
ジェロニモ追跡(草思社)
大地とともに(小峰書店)
パウワウ アメリカインディアンの世界(新潮社)
二千日回峰行(佼成出版社)
ほか

個展
1981年 砂漠の人びと (ミノルタフォトスペース)
1987年 二千日回峰行 (そごうデパート)
1994年 木造モルタル二階建て (コニカプラザ)
1995年 アメリカンウエスト~ミシシッピの西 (コニカプラザ)
1997年 ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年 (コニカプラザ)
2004年 足尾 (ニコンサロン)
2004年 DESERTSCAPE (コニカミノルタ)
2006年 WATERSCAPE (コニカミノルタ)
2009年 白亜紀の海 (ニコンサロン)
2013年 DESERTSCAPE-2 (コニカミノルタ)
2013年 白亜紀の海2 (ニコンサロン)
2015年 日系アメリカ人強制収容所 (ニコンサロン)
ほか

↓PicoN!アプリインストールはこちら

関連記事