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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.24 未知なる世界を見るために 野町和嘉『バハル』(集英社、1983年) 鳥原学

近代社会における目覚ましい経済発展は人間に物質的な豊かさを与えたが、その均質さは生きることの実感を失わせるという側面もあった。ことに高度経済成長期以降の若者たちには、言葉にならない空虚な思いを胸に抱えた者も少なくなかった。なかにはそれを埋めようと、カメラを携えて世界を旅する者も現れてきた。野町和嘉もまたその一人であり、彼の写真メディアを彩り、世間に強烈なインパクトを与えることとなった。

 

失われた秘境

南極大陸の内陸部のごく一部を除けば、もはや地球上で人に閉ざされた場所はない。かつては秘境や辺境と呼ばれた地域への冒険ツアーのチケットも、多少高価ではあるものの、誰もが買える時代だ。

現場に行かなくとも、情報として知るだけなら手間も費用もかからない。インターネットを通じて世界のあらゆる場所の情報をリアルタイムで知ることも、世界各地で撮られた画像や動画を見ることもできる。交通と通信手段の発展により、世界がフラットになった現在、未知なる世界を発見するという特権はもう職業写真家の手にはないのである。

「今はこういう場所に誰でも行けるようになった。再びここを撮影しても、おそらく誰も注目しないでしょう」

野町和嘉は、1983年に出版された自身の写真集『バハル』を前にして私にこう言った。それはいささかショックな言葉だった。

バハルとはアラビア語で「川」あるいは「海」を意味し、アフリカ大陸の東北部ではナイル川を指している。その約6700キロという長さは世界最長である。上流の二つの川、中央アフリカの山岳を水源とする白ナイルと、エチオピア高原から流れる青ナイルがスーダンの首都ハルツームでひとつになり、サハラ沙漠を貫いてはるか地中海へと注ぎこんでいる。この川がもたらす豊かさが、紀元前3000年前に誕生したという古代エジプト文明をつくったのだ。

かつて野町はこの流域の全貌を捉えようと、途方もなく広大な流域を駆け巡り『バハル』を完成させたのだ。その取材期間は、1980年10月にエジプトのアレクサンドリアに上陸してから足掛け3年、現地での滞在期間は延べ13か月半に及んでいる。

ただ本書の構成は実際の行程とは逆になっていて、ナイル川の流れに沿うものである。つまり赤道直下、アフリカ中部のルウェンゾリ山中の深い森から始まる。野町はここで白ナイルの源流を求め、ヨーロッパ人の探検家たちの足跡をたどり、そして氷河から流れ出る細い水流にたどり着いている。

続く3つの章は少数部族を訪ねた記録である。登場するのはスーダン南部の「サッド」と呼ばれる大湿原地帯で牛とともに生きる牧畜民、奴隷商人に追われてスーダンの山岳部に身を潜めたヌバ族、エチオピアのスルマ族で、の街はそれた部族の伝統的な生活に密着している。

次に舞台は青ナイルの源流を擁するエチオピア高原に転じ、旧約聖書そのままの信仰を受け継いできたエチオピア正教と呼ばれる、キリスト教徒たちの世界を眺めている。さらにこの高原で一つになった流れがエジプト南部の砂漠地帯ヌビアに下ると、そこには敬虔なイスラム教徒たちの文化圏が広がっている。

大河ナイルはこの多様な地域を貫き、ついに大陸北東部のエジプトに至る。しかし、輝かしい古代文明を生んだナイル川デルタの肥沃さは、いまや上流に建設された巨大ダムという近代土木技術の結晶によって失われつつあるのだ。

これら本書のどのパートでも、野町は対象をまるで組み伏せるように撮影していることが印象的だ。未知の対象を見極め、その体験を消化しようとする情熱と力に溢れている。それは、どんな事柄もインターネットの検索でわかった気になれる人々には、持ち難い行動力のように思われる。

 

サハラからナイルへ

野町和嘉は、常に過酷ともいえる旅を繰り返してきた写真家である。それも、ひとつの旅の完成がさらなる旅のテーマを生み出すように、次第にスケールを広げてきた。

その流れを遡ると、1972年のサハラ沙漠との出合いに行き当たる。当時、野町は26歳で、広告写真家としてフリーとなり、東京都内にスタジオを設立したばかりだった。すでに仕事は順調だったが、どこか満たされないものも抱えていたという。そんな日常から離れようと、友人たちに誘われるままにアルプスへスキー旅行にでかけてみたが、スキーはズブの素人だったから散々な結果に終わったという。

そのとき野町は、パリで仲間と別れた後、その足でサハラ沙漠まで行こうと決めた。情報や知識があったわけではない。映画『アラビアのロレンス』や写真集で見ていただけで、漠然とした憧れを持っていたに過ぎなかった。ただその憧れが、一種の疎外感の中で膨張していたのだった。

そそて予定どおり仲間と別れると、野町はそこで中古車を買い、イベリア半島を抜けてスペインとモロッコの間にあるジブラルタル海峡を渡った。そしてアルジェリアに入ったのち、生まれて初めてサハラを目にしたのだ。

その広さと気象の厳しさ、美しさは想像をはるかに超えていた。圧倒されるとともに、ここに自分の求めていたものがあることを直感した。

野町にとって最初の著書『サハラ縦走』(日本交通公社出版事務局)の中にある「沙漠には、中途半端な退屈な時間はどこを探しても見当たらないようだった」という短い一文にも、彼の高揚感がよく表れている。「中途半端な退屈な時間」とは、日本で送っていた日常とも読み替えられる。

この心情は野町のものだけではなく、戦後の高度経済成長期に育った若い世代に共有されるものであった。物質的な豊かさと安全を手にした社会では、生きていることを実感する機会は少ない。

この1970年代には、繁栄にともなう退屈さに耐えられない若者たちの中から、強烈な異文化体験を求める者たちが現れる。世界各地の安宿、欧米に限らずアジアやアフリカでも、若い日本人バックパッカーの姿が目立ち始めたのがこの頃なのである。安宿を泊まり歩く一人旅用のガイドブックもなかった当時、強烈な異文化体験は、自分とは何かという問題をつきつけるものだった。

もちろん野町の旅は、素朴な「自分さがし」的なレベルにとどまらなかった。野町はサハラ砂漠を重要なテーマと考え、翌年、翌々年と妻を伴って長期の取材を行なっている。ことに3度目の旅では、 ほぼ1年をかけて広大な砂漠をめぐり、この過酷な土地で世代を重ねてきた人々との交わりを深めた。

そこで理解したのは、過酷な環境で営まれる彼らの生活が、イスラム教によって支えられているという事実だった。その後の作品を貫くキーワード、風土に応じた宗教によって人は生かされているという認識を持ったのだ。野町はサハラ砂漠で見た信仰を持つ人々の強さと美しさを、感動を込めて次のように書いている。

「私たちがサハラで見出した最高の美。それは砂丘でも蜃気楼でも夜空の星々でもなかった。それは沙漠の民の日々の祈りの姿であった。(中略) 絶対者とじかに向き合う姿、—神を持たぬものには思いも及ばぬことである」

野町がナイルへの取材を思い立ったのは、長いサハラの旅も間もなく終わろうとしていた1974年8月のことだ。もはや旅費が枯渇してしまい、あるオアシスで足止め状態となっていたときである。オアシスのそばを流れる川の、干上がった川床を見ていると、ひとつの光景が脳裏に浮かんできたという。それは遥か4000キロも向こうにある、決して水を絶やさない「バハル」の水源についてのイメージだった。

 

サッドの衝撃

驚きに満ちた『バハル』の中でも、読者を圧倒するのはサッドの章だろう。「アフリカ最後の秘境」と呼ばれるこの大湿地帯で暮らす、ディンカとヌエルという二つの部族の牧畜生活があまりにも衝撃的なのである。野町によれば、彼らと牛の関係は、飼い主と家畜という一線を超えてまさに一体化したものになっているという。例えるなら「人は、牛の腸の中をはいまわる寄生虫のような存在」だと同書には書かれている。

その原始的な関係性を物語っている写真を3点挙げれば、まずは朝日を浴びて角の長い牛の群れの中に立つ全裸の男。彼はマラリヤ蚊を避けるため、燃やした牛糞の白い灰を体に塗り込めている。その姿は輝いて見え、まるで初めて地上に現れたという神話に登場する人間のそれを連想させる。

残りの2点はさらに強烈な印象を残す。いずれも部族の少年を捉えたもので、ひとつしたたる牛の尿で頭を洗っている姿でもうお一方は牛の陰部に顔を密着させている写真である。前者はおしゃれのために髪を脱色しようとし、後者は雌牛の乳の出をよくするために膣に息を吹き込んでいるのだ。

当時、野町のナイル取材をサポートしていた『月刊PLAYBOY 日本版』(集英社)の編集長、池孝晃はこれらの写真を初めて見たとき思わず興奮を覚えたという。写真そのものの芸術性が高く、しかもさまざまな取材から内容がしつかりと裏付けされている。池は1981年10月号から始まる 「ナイル・神の水脈へ」と題した不定期連載を、このサッドから始めたいと言った。野町に対する『月刊PLAYBOY 日本版』編集部の期待は膨らんでいた。

当時、世界的なスケールの紀行ノンフィクションは、同誌にとってひとつの柱となっていた。たとえば作家の開高健と写真家の高橋曻のコンビによるアマゾン川の釣り紀行『オーパ!』(1978年)や、ロンドンから日本までを辿った藤原新也の『全東洋街道』(1981年) は社会的な注目を集めていた。これらの連載に共通するのは、いずれも当時第三世界と呼ばれた地域から、日本の現状を問い直すという文明観的な視点を持っていたことである。池はその視点にこそ『月刊PLAYBOY 日本版』のプライドがあったと言う。

もともと『PLAYBOY』は1950年代にアメリカで創刊され、集英社が版権を買って日本版を創刊した雑誌である。もとのアメリカ版では「プレイメイト」と呼ばれる白人女性のヌードモデルが売りだったが、シリアスなノンフィクションやインタビュー記事も常に注目を受けていた。だが、日本版ではアメリカ文化を象徴する雑誌の単なる翻訳ではなく、戦後アメリカから日本人が受容してきた価値観を、問い直すことを独自の編集方針としていたのである。

その編集部がの「ナイル・神の水脈へ」にかけた期待の大きさは、初回の掲載号を見ればわかるだろう。このときに限り、表紙にはアメリカのプレイメイトのヌードではなく、野町の写真が使われているのだから。その上には「文明よ!お前はこの原始を撃てるのか」という池がよるキャッチコピーが添えられている。

野町の連載はその期待をどおりに大きなセンセーションを呼んだ。しかもその反響は日本だけに留まらなかった。サッドの写真はアメリカの『ライフ』、ドイツの『シュテルン』、フランスの 『フィガロ』というそれぞれの国を代表する写真メディアにも掲載され、野町の代表作のひとつとなったのである。

その写真が初めて『月刊PLAYBOY 日本版』に登場してすでに37年、『バハル』が出版されて35年が経つ。だが、写真が与えるインパクトはけして色あせていない。何度見なおしても素直に驚かされ、人間が築いてきた文明や文化、そして信仰の核心にあるものを考えさせられてしまう。いや、これらの場所に気軽に行けるようになった現在だからこそ、当時の問いかけは、いっそう重みを増して響いているようにも思えるのだ。

 

野町和嘉(のまち・かずよし)

1946年高知県生まれ。高校卒業後に大阪で会社員を経験して上京。広告写真家を目指して羽田敏雄、杵島隆らに師事した後、1971年フリーに。1972年のサハラ砂漠の旅をきっかけに、アフリカでの取材を続ける。1980年代後半より舞台を中近東、アジアに移し、中国、チベット、サウジアラビア、インドで長期取材。『バハル』『サハラ悠遠』で土門拳賞、『長征夢現』『ナイル』で芸術選奨文部大臣新人賞・日本写真協会年度賞などを受賞。紫綬褒章受章。

参考文献

野町和嘉『サハラ縦走 熱く深い砂嵐の果てに』(日本交通公社出版事業局 1977年)
野町和嘉『サハラ—空と砂の間で』(平凡社 1978年)
『月刊PLAYBOY 日本版』(集英社) 1981年10月号 野町和嘉「ナイル・神の水脈へ SUDD(サッド)・浮遊草塊水域」
『カメラ毎日』(毎日新聞社) 1984年6月号 追分日出子 「写真見・聞・談6 第3回 土門拳賞を受賞した野町和嘉」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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