【写真学校教師のひとりごと】vol.24 久保木英紀について⑤

わたし菊池東太は写真家であると同時に、写真学校の教員でもあった。
そのわたしの目の前を通り過ぎていった若手写真家のタマゴやヒナたちをとりあげて、ここで紹介してみたい。
その人たちはわたしの担当するゼミの所属であったり、別のゼミであったり、また学校も別の学校であったりとさまざまである。

これを読んでいる写真を学ぶ学生も作品制作に励んでいるだろうが、時代は違えど彼らの作品や制作に向かう姿が少しでも参考になれば幸いだ。

▼【写真学校教師のひとりごと】 久保木英紀について

 

約30年前に卒業した男が、現在ニコンで展示をしている。
それもかれにとっては、生まれて初めての写真展だ。

卒業した頃に応募したが、そのときは願いかなわず選考からはずれた。
深く追求せず、あっさりと写真から足を洗い、会社勤めにつき、結婚し子供を3人もうけた。2人は大学を卒業し、1人はその途上にある。
その子供たちといろいろ話をするのだが、困っていることがあった。
人生の節目で、それなりに努力することが必要なときがある。

そんなとき、親として子供にはそれなりのことを言わなければならない。
だが、久保木は今までは意にかなわず子供の前で言葉を呑込んでしまうことが、ときにあった。
自分が写真に対して中途半端な努力しかしてこなかったからだ。
それが心の隅にあった。
それが引き金となったのか、最近私の写真教室のようなものに顔を出すようになり、今回のニコンへの応募、そして展示へとつながった。

写真の出来は長いブランクを感じさせないものだ。
かつての、30年前に見た久保木の写真センスが風化や変質することなく生き残っている。
展示初日、土田ヒロミさんが見にきてくれた。
学校の授業で特別講義というのがある。

通常の授業と異なり、作品がある者は卒業生でも出入り自由にしてある。
今まで何度か土田ヒロミさんにその授業をお願いした。
久保木は最近、その特別講義で土田さんに作品を見てもらった。そのとき以来だ。

マイホームタウンの「マイ」にとらわれすぎている。
そうすると小さくなってしまう。最近の人たちに共通していることだと思う。
わたし、ということが小さくなってしまっている原因の一端を担っているようだ。わたしの、ということは決して悪いことではないのだが、内に向かってしまっている一因になっているのならば、考えろ、考えろ。

社会とわたしということを考えて写真に向かってみたらいいんじゃない。
どんな個人でも社会のなかに生きている。社会というものなしでは、誰も生きていけないんだ。
そういったことを加味したら深みがでてくるのでは、というのが、土田さんの意見だ。

そこなんだな、わたしではなかなか思いつかないことだ。
こういうところが足りないから、わたしは一流の教師になれなかったんだなあと、つくづく今さらながら感心してしまったのである。

久保木はどうしたら「社会性」というものを取り入れることができるのか、自分の頭でよおく考えることだ。
とにかく、ここまできたのだから、このアドバイスを肝に命じて頭の隅に置き、これからも撮り進み、社会的視点にもたってマイホームタウンを久保木英紀の写真著作本として、完成させて欲しい。

菊池東太

1943年生まれ。出版社勤務の後、フリー。

著作
ヤタヘェ~ナバホインディアン保留地から(佼成出版社)
ジェロニモ追跡(草思社)
大地とともに(小峰書店)
パウワウ アメリカインディアンの世界(新潮社)
二千日回峰行(佼成出版社)
ほか

個展
1981年 砂漠の人びと (ミノルタフォトスペース)
1987年 二千日回峰行 (そごうデパート)
1994年 木造モルタル二階建て (コニカプラザ)
1995年 アメリカンウエスト~ミシシッピの西 (コニカプラザ)
1997年 ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年 (コニカプラザ)
2004年 足尾 (ニコンサロン)
2004年 DESERTSCAPE (コニカミノルタ)
2006年 WATERSCAPE (コニカミノルタ)
2009年 白亜紀の海 (ニコンサロン)
2013年 DESERTSCAPE-2 (コニカミノルタ)
2013年 白亜紀の海2 (ニコンサロン)
2015年 日系アメリカ人強制収容所 (ニコンサロン)
ほか

↓PicoN!アプリインストールはこちら

関連記事