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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.16 チェルノブイリに見た ″人間の暮らし″ 本橋成一『無限抱擁』(リトル・モア)1994年 鳥原学

1986年のチェルノブイリ原発事故は、世界最悪の放射能汚染を引き起こした。だが、数年後にその被災地を訪ねた本橋成一は、昔と変わらぬ村の暮らしを目にして驚いた。なぜ汚染された場所に人が住み続けているのか。その疑問を胸に、取材を重ねた本橋は『無限抱擁』を初めとするチェルノブイリ三部作を発表し、世界的な評価を得た。
さらに、その仕事は2011年の東日本大震災のさい、改めて読み直されることになった。

 

美しい風景の裏に

2011年の写真に関するニュースを振り返ってみると、やはり震災関連の写真集がベストセラーに挙げられている。 それもある特定の写真集だけではなく、全般的によく売れていたことが分かる。写真によって何が起こったのかを確かめ、考えてみたいと思った人が多かったのだ。
ことに被災地では一人で何冊も買う人が目立ったという。当時、津波と原発事故によって生活インフラが途絶していたため、被災当事者はことの全体像をつかむことができなかったからだ。
写真集の出版点数の多さは、もちろん被災地に入った写真家の多さを意味している。彼らの撮影目的はさまざまであるが、 動機はほぼ同じだと思う。この厄災を前にしたとき、写真で何ができるのか、写真家としてどうあるべきかという問題に答えるためである。
それから数年後、私が本橋成一に会ったとき、彼もすでに何度も被災地に足を運んでいたが「まだシャッターを切っていない」と言った。なぜかと聞くと「みんなが撮らなかったものを撮ってみたいから」と答えた。 私は、じつにこの人らしい言葉だなと思った。
本橋は起動が遅く、しかし持続力の高い写真家である。その写真作法を、作家の森まゆみは本橋の写真集『無限抱擁』 の書評でこうスケッチしている。

「一、二度仕事をともにしたが、彼はなかなかシャッターを押さない。手に隠れる小さなカメラひとつだけである。最初は話を聞くだけだ。次に行くと家族写真を撮る。それを届けにいって喜ばれる……というふうに徐々に町に入っていく」

そして、そこから長く深く人と関わって、その心の奥にあるものを見ようとする。その姿勢は、チェルノブイリ原発事故による放射能汚染下での人々の暮らしを捉えた、この写真集を見ればよくわかるのである。

チェルノブイリ原発が爆発事故を起こしたのは、1986年4月26日。被害は発電所があるウクライナだけでなく、隣接するロシアとベラルーシの広範囲に及んだ。ソ連政府は発電所から30キロ圏内の住民11万人以上を強制的に避難させた後、半径350キロ圏内の高放射線地域に暮らす人々にも避難を勧告し、当該地域での農業を禁じた。

本橋が事故現場を初めて訪れたのは、事故から5年後の4月である。現地で医療活動を行なう日本チェルノブイリ連帯基金から強く誘われてのことだった。本橋にとって、それは恐ろしい体験だったという。
コンクリートで全体を覆い封印された″石棺″と呼ばれている発電所や、発電所の職員のために建設されたがすでに廃墟となった都市、そして放射能で重い障害をおった子どもたちの姿を前に「写真など撮れるものではない」と感じたと言う。本書にこうした、核の恐怖を強調する写真が少ないのは、そのためかもしれない。

それでも、この時から本橋が3年半をかけて渡航を重ねていったのは、正反対の現実も見たからだ。そこはチェルノブイリから170キロ離れたべラルーシのゴメリ州 チェチェルスク地区の、昔と変わらぬ田園地帯の営みである。たとえば結婚式の祝宴やピクニックを楽しむ人たち、ミレーの絵を思わせるような暮らしぶりに本橋は強く惹きつけられた。
本書の中心を占めるのは、こうした牧歌的な風景なのだが、もちろんここにも放射能汚染は広がっていた。笑顔で本橋のカメラの前に立つ人たち、ことに老人には居住禁止地区に勝手に戻ってきた人が少なくなかった。
「サマショール (わがままな人々)」と呼ばれる彼らは、故郷で人生をまっとうしたいという望みを持ち、当局もそれを黙認していた。彼らの微笑の中にこそ、この地に根ざして生きてきた人々の誇りと哀しみが見えてくるのである。

 

被写体と同じ目線

チェルノブイリをテーマにした仕事は『無限抱擁』の後も続いた。本橋は2002年までに 『ナージヤの村』(平凡社)、『アレクセイと泉』(小学館)という3冊の代表的な写真集と、同名の2本のドキュメント映画を発表し、国内外で数々の写真賞と映画賞を受賞している。

これらの作品が、東日本大震災の後に再び注目を集めたというのは不思議なことではないだろう。それでも、事故の後の1年間で、開催された映画の上映会が300回を超えたというのには正直いって驚いた。本橋の目を通じて描写された風景の美しさと痛ましさを、自分のこととしてもう一度見直したい。当時、そう思った人が全国にいた。しかしなぜ、これほど本橋作品が必要とされたのだろうか。

1つの回答として、再び森まゆみの書評から引用したい。それは「本橋成一はここでも略奪的に写真を撮っていない」 からだ。それは、自分の主張のために被写体を利用していないということだ。この姿勢は、若い日の挫折を通じて得た彼の信念である。

1960年代に写真家を志したころの本橋に、強く影響を与えた本が2冊ある。1冊は写真集で、1960年に出版された土門拳の『筑豊のこどもたち』(パトリア書店)である。エネルギー政策の転換により、閉山に追い込まれていった九州の筑豊の炭鉱街で暮らす、幼い姉妺の極貧の暮らしぶりを克明に捉えた報道写真史上の名著である。土門はこの写真集をわずか2週間で撮ったが、写真の質は極めて高く、彼が提唱した社会的リアリズムの到達点といわれる。本書は100円という低価格に設定されたこともあって、10万部を超えるベストセラーとなり炭鉱問題は社会の注目を集めた。

この傑作に刺激を受けた報道写真家やその志望者は少なかった。そして彼らが筑豊に押しかけるまで時間はかからなかった。本橋もそのひとりだったという。炭鉱町を訪れたのは1965年、25歳のときで写真学校の卒業制作を撮るためだった。当時は「悲惨な風景を撮ることしか頭になかった」 と彼は言う。

このとき本橋は、炭鉱労働者の過酷な現実を描いた上野英信の著書『追われゆく坑夫たち』(岩波新書)もその手に握っていた。上野は京都大学文学部を中退した後、炭鉱労働者となって筑豊の記録を綴り続けた記録文学者である。当時は、空き家となった炭鉱長屋で「筑豊文庫」を開き、自らの執筆と地域の文化活動の拠点としていた。筑豊に“つて”を持たなかった本橋はここに飛び込み、上野はそれを快く受け入れてくれた。

それから本橋は懸命にシャッターを切る。だが、彼が望んだ『筑豊の子どもたち』のような、見る人が心を痛めるような悲惨な状況は撮れなかった。彼がカメラを向けると、町の人々は強い拒絶反応を示したからである。
やがて本橋は、その原因が土門の『筑豊のこどもたち』 にあると知る。このベストセラーによって筑豊は悲惨で貧しい地域というイメージが定着してしまい、その出身者は全国どこに行っても憐れみの目で見られるようになっていたのだ。そのイメージを上書きするために東京から来た写真家が、街の人たちから警戒されて当然だったのである。そのことに気づいてから、本橋のアプローチも撮る写真も変わり始めていった。

もちろん、上野英信も写真の力がもたらしたこの状況を良く知っていた。その上野らが編纂し、1980年に出版したのが記録写真集 『写真万葉録・筑豊』(葦書房)全10巻である。このシリーズにはプロの報道写真家とともに、地元のアマチュアや一般の家族アルバムからも写真が採録されているが、土門の写真は一枚も入っていない。また炭鉱の過酷な現実だけでなく、地域の絆を誇りとする人々の表情がとても印象深い。

その最終巻で上野は土門について「絶望的な状況に心を奪われて、隠された真実が見えていない」と厳しく指摘し、次のような感想を加えている。

「もし土門拳がもっと彼らの心の底におりていったなら、少なくともこのような偏見にとらわれずにすんだであろうに、と惜しまれてならない」

撮られる人たちの「心の底におりて」いくこと、それを本橋は上野をはじめとする筑豊の人々から学んだのである。

 

論争

『無限抱擁』から始まるチェルノブイリシリーズでも、状況の悲惨さを描写するより生命の瑞々しさを見つめた写真が際立っている。本橋は「核」ではなく、「いのち」が本書のテーマなのだと語る。

それだけに、ときに別の視点から批判を受けることもあった。1998年の『技術と人間』誌の7月号から8・9月合併号では、フォトジャーナリスト広河隆一との間で、本橋の映画『ナージャの村』をめぐって議論が交わされているのだ。

広河も1989年からチェルノブイリの取材を手がけたことで知られ、これまでに多くの写真集やルポを出版してその被害を伝えてきた。たとえば同じゴメリ州の村々をとらえた写真を見比べると、広河の写真は、本橋の写真集からは想像もできないほど荒涼とした場所に見える。住民の表情もはるかに硬く、憤りと悲しみに満ちている。ジャーナリストの眼差しとは、これほど厳しいものかということに驚く
。福島の事故についても2か月後には『暴走する原発 チェルノブイリから福島へ これから起こる本当のこと』を発表し、警鐘を鳴らしている。

その広河は本橋の作品に対して、高濃度汚染地域で暮らす人々を肯定する気持ちはわかるが、危険性をあまりに軽視しているのではと疑問を呈した。そして、そこに次の犠牲者を生む危険性があると指摘する。

「被害にすでにあっている人の心を傷つけることを恐れるあまり、問題自体を放置することは、つぎにでる犠牲者にたいする責任が問われることになる」

これに対して本橋は、この事態は人類が引き起こした悲劇であり、責任を取りうる個人などいないのだと応えている。この悲劇を住民側のこととしてとらえることが自分の責任であり、 「私は、ありのままの現実を描いて、問題提起をしているのです」と反論する。

だが広河は、なおも鋭く問いかける。本橋のように、残った住民側に視点を置くだけなら、やむを得ず村から逃げ出した人の生き方や価値観は批判され排除されてしまう。映画は、そんな人々の存在を見えにくくしているのではないか、と。

このチェルノブイリ事故を巡る2人の論争は、私たちの現在に当てはまるのではないか。福島第一原発事故による放射能汚染は、地域の共同体に深い亀裂を生み、それは10年以上を経ても続いている。いま残留放射能はどうなっているのか、海に放出されるのは処理水なのか汚染水なのか、それは風評被害なのかどうなのか。もちろん、いまもって事故の責任の所在は曖昧であり、政府や電力会社の対応にも強い不信を抱いている。

だが、そんな現状を前にして、絶望だけに囚われるのは、なお危いことではないかと思える。 上野が書いたように「絶望的な状況に心を奪われて、隠された真実が見えていない」ことこそ、恐れるべきだろう。本橋の作品が、多くの人の心を打ち続けているのは、災厄の向こう側にある人間というものを見ているからだ。「みんなが撮らなかったもの」の中から、本当に大切なものをつかみ出しているからなのである。

本橋成一 (もとはし・せいいち)

1940年東京都生まれ。自由学園、東京綜合写真専門学校卒業。
1991年よりチェルノブイリ原発とその被災地に通い始める。それをテーマとした写真集は『無限抱擁』に加えて『ナージャの村』『アレクセイと泉』があり、同タイトルの映画も発表。『炭鉱〈ヤマ〉』で太陽賞を、『ナージャの村』で土門拳賞などを受賞。そのほかの作品に、写真集『上野駅の幕間』『バオバブの記憶』『屠場』、映画『ナミイと唄えば』『バオバブの記憶』などがある。

参考文献

『タイムトンネルシリーズVol.24 本橋成一 「写真と映画と」』展 小冊子(ガーディアン・ガーデン 2007年)
『アサヒカメラ』(朝日新聞社) 1994年12月号 本橋成一「無限抱擁 チェルノブイリ・いのちの大地」
『週刊朝日』(朝日新聞社) 1994年12月30日号 書評欄「森まゆみ 静かな眼差しがとらえた日常に潜むチェルノブイリ 本橋成一 「無限抱擁」」
『第三文明』(第三文明社) 1998年10月号 本橋成一「汚染された大地に暮らす―「チェルノブイリ」から13年―人々の営みをみつめた『ナージャの村』」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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