【写真学校教師のひとりごと】vol.29 當麻妙について③
わたし菊池東太は写真家であると同時に、写真学校の教員でもあった。
そのわたしの目の前を通り過ぎていった若手写真家のタマゴやヒナたちをとりあげて、ここで紹介してみたい。その人たちはわたしの担当するゼミの所属であったり、別のゼミであったり、また学校も別の学校であったりとさまざまである。
これを読んでいる写真を学ぶ学生も作品制作に励んでいるだろうが、時代は違えど彼らの作品や制作に向かう姿が少しでも参考になれば幸いだ。
▼【写真学校教師のひとりごと】 當麻妙について
當間は確か東京生まれの東京育ちである。そして写真学校を卒業して間もなくコニカとニコン両方で展示をした、わたしのクラスでは典型的な学生の一人だ。
相方を見つけ結婚する。かれは同業ではないが二人そろって会社勤務でもない、フリーランスである。そこで普通ならば何かと便利な東京で暮らすのだが、二人で何かを求めて、沖縄へ行きそして現在は鳥取県に移り住んでいる。
かの女は住んでいる鳥取にカメラを向け写真を撮り、下落合にあるAlt Mediumで10月31日から11月5日まで「TOTTORI」というタイトルで写真展を開いていた。
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このTOTTORIの場合、写っている風景は誰かの山であったり所有林だ。田畑の所有者たちも兼業農家が多い。
またカメラを斜めにかまえることは、かの女の価値観ではありえないことなのだという。つまり見下ろすことも仰ぎ見ることもなく、カメラは常に水平に構えるのである。
そのように水平に構えることによって、よそ者である自分は叙情的ではなく、極力クールに客観的に、その土地にカメラをむけるようにしているのだ、と當麻はいう。
これはかの女特有の一種の潔癖性からくるもののように思われる。こういったものの考え方は、学生時代の當麻のイメージとまったく変らないものだ。
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そういう當麻がこのTOTTORIの写真展にあたって自分の考えというか、イメージを文章にして送ってきた。以下の通り。
鳥取の景色を撮影していて、特に意識がむいたのが地平にある境界線だった。地平線が天と地を水平に隔てるように、地平は手前と奥とに境界を生み出していて奥には森があり、そこには動植物の世界が広がっていた。
ふと目に入る景色はあらゆる境界を暗黙の中に許容し表面からは伺いしれない生と死を許容していた。人の姿はほとんどないが、荒れ果てているばかりでもない。
作品を構成するにあたって、経済学者の宇沢弘文氏の「社会的共通資本」の概念が非常に参考になった。公共的資本として管理、維持されている景色はまさに鳥取の景色を示すものであり、壊すばかりでなく、人と自然が共に生き続ける知恵が連綿と続いている場所であると感じられたからだ。もちろん、どこの地方都市もが抱える問題もある。
ぎりぎり持ち堪えている感じもあるが、今後どのようになっていくかも、とても興味があるので継続的にみつめていきたい。東京では感じることができなかったが、沖縄、鳥取と移り住むことによって目に映り、感じられるようになった里山。
それまでは小説や人の話でしかなかった里山が、やっと自分の生きている世界に入り込んできたという感慨はひとしおのものだろう。また人びとの暖かい存在を感じさせる里山の風景とはいったい何なんだろう。
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最初の個展の「corner shop」、次の「Tamagawa」、「TOTTORI」とタイトルがすべてアルファベットである。なぜか、と尋ねると漢字からくる情的なものをさけるため、という返事だった。
菊池東太
1943年生まれ。出版社勤務の後、フリー。
著作
ヤタヘェ~ナバホインディアン保留地から(佼成出版社)
ジェロニモ追跡(草思社)
大地とともに(小峰書店)
パウワウ アメリカインディアンの世界(新潮社)
二千日回峰行(佼成出版社)
ほか
個展
1981年 砂漠の人びと (ミノルタフォトスペース)
1987年 二千日回峰行 (そごうデパート)
1994年 木造モルタル二階建て (コニカプラザ)
1995年 アメリカンウエスト~ミシシッピの西 (コニカプラザ)
1997年 ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年 (コニカプラザ)
2004年 足尾 (ニコンサロン)
2004年 DESERTSCAPE (コニカミノルタ)
2006年 WATERSCAPE (コニカミノルタ)
2009年 白亜紀の海 (ニコンサロン)
2013年 DESERTSCAPE-2 (コニカミノルタ)
2013年 白亜紀の海2 (ニコンサロン)
2015年 日系アメリカ人強制収容所 (ニコンサロン)
ほか
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