【写真学校教師のひとりごと】vol.16 小島昇について

わたし菊池東太は写真家であると同時に、写真学校の教員でもあった。
そのわたしの目の前を通り過ぎていった若手写真家のタマゴやヒナたちをとりあげて、ここで紹介してみたい。
その人たちはわたしの担当するゼミの所属であったり、別のゼミであったり、また学校も別の学校であったりとさまざまである。

これを読んでいる写真を学ぶ学生も作品制作に励んでいるだろうが、時代は違えど彼らの作品や制作に向かう姿が少しでも参考になれば幸いだ。

▼前回【写真学校教師のひとりごと】


 

この男はもともとはわたしのゼミの学生ではなかった。となりのゼミの所属だった。
だがなぜかわたしのゼミの授業に顔を出し、授業後の飲み会にもほとんど参加していた。
その時代はわりにそこらへんがルーズというか、自由だったのだ。
いまでは考えられないことだが、わたしは自分の大学時代、そして写真学校時代もふくめ、担当教師を囲んでコーヒーや酒を飲むのは好きだった。
教室では喋ってくれないようなことも、そういった場所ではわりに自由に喋ってくれたし、こちらも自由に喋ることができたのが、その理由だ。
失礼がないようにではあるが、臆することなく、自由な会話をすることができたのは、かけがえのない思い出だ。
いまではそれがわたしの財産になっていると思う。

この小島昇は約半年後、夏休みあけにわたしのゼミに正規に移動してきた。出席簿に小島の名前が新たに加えられていたのである。
ゼミの移動なんて実に簡単なことだった。相手の担当教師とひとこと、ふたこと話せばそれで終わり、挨拶のようなものだった。かれの代わりにだれかを、つまり交換要員をだすこともなかった。
そして、小島はわたしのゼミに移れば力量を発揮しやすい、ということがなぜかピンときていた。
まあ、相性というヤツだろう。
それが証拠に卒業後4ヶ月で個展を開いている。
わたしのクラス所属では2番目に個展をやった男である。

1994年「いってまいります 上野発夜行列車の乗客たち」 コニカフォトギャラリー

「いってまいります 上野発夜行列車の乗客たち」
コニカフォトギャラリーである。
当時、若者をターゲットにした写真展会場としてのリーダーシップを握っていたところだ。
「新しい写真家登場」というシリーズ名でスタートし、その第3回目だった。華々しくデビューした。

小島は、もともと写真のうまいヤツなのだ。
だが、最初の1回だけで作品作りからは、遠ざかっていった。
手間がかかって、作品のことを考えるだけでもほかのことができなくなってしまう。こんなことでは飯が食えなくなる。
だから作品作りは時間的に自分には無理だ、と思いスパッとやめてしまった。
思い切りがいいといえば、その通りだが。
その後、料理写真家として著名な作家のところで修業をつみ、現在の小島がある。

表紙撮影:小島昇

表紙撮影:小島昇

表紙撮影:小島昇

 

このシリーズに登場してもらおうと決めてから、かれにインタビューをした。
久々に実物の小島と会った。
そのときの第一印象は「太った」だ。
むかしにくらべ10キロ以上体重が増えたといっていた。100キロを超えているそうだ。
今の写真(料理写真)をはじめたのは、食べ物が好きだから、そして食べることが好きだからというのが最大の理由だ。
だから撮ったら、そのあとは撮影が終わったものをすべて完食する。だから太ってしまうといって、苦笑いをしていた。
本気で作品撮りをやりだしたら、小島ならわりに手間取らないで写真展を決めるだろう。
楽しみにしておこう。待ってるぞ!

 

菊池東太

1943年生まれ。出版社勤務の後、フリー。

著作
ヤタヘェ~ナバホインディアン保留地から(佼成出版社)
ジェロニモ追跡(草思社)
大地とともに(小峰書店)
パウワウ アメリカインディアンの世界(新潮社)
二千日回峰行(佼成出版社)
ほか

個展
1981年 砂漠の人びと (ミノルタフォトスペース)
1987年 二千日回峰行 (そごうデパート)
1994年 木造モルタル二階建て (コニカプラザ)
1995年 アメリカンウエスト~ミシシッピの西 (コニカプラザ)
1997年 ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年 (コニカプラザ)
2004年 足尾 (ニコンサロン)
2004年 DESERTSCAPE (コニカミノルタ)
2006年 WATERSCAPE (コニカミノルタ)
2009年 白亜紀の海 (ニコンサロン)
2013年 DESERTSCAPE-2 (コニカミノルタ)
2013年 白亜紀の海2 (ニコンサロン)
2015年 日系アメリカ人強制収容所 (ニコンサロン)
ほか

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