
【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.36 白い激情を秘めた北の写真詩人 小島一郎『津軽』 鳥原学
小島一郎は、1960年代初頭に青森から彗星のように現れた新人写真家である。
地元津軽を撮った激しい作品で一躍注目を集めたものの、その活動期間は短かった。たった一冊の作品集『津軽 ―詩・文・写真集―』を残して、この世を去ったのである。
だが2009年に大規模な回顧展「小島一郎 ―北を撮る―」が青森県立美術館で開催されると再び脚光を浴び、その独自のプリント美学は今も人々を魅了している。
写真評論家の予言
これまで多くの写真評を読んできたが、『カメラ毎日』1963年9月号に掲載された次の一文ほど、読むほどに怖さを惑じさせるものはなかった。
「彼の写真はそれにしてもあまりに暗い。真っ暗だ。救いがない。……平凡な感傷ではこれほど途方もない暗やみを直視できまい。感傷や叙情を超えて、暗澹とした一種の絶望とでも言いたい境地が表現されている。それは死の影さえ感じさせるものだ」
文中の「彼」とは小島一郎を指し、書き手は同時代における小島作品の最もよき理解者だった、写真評論家の吉村伸哉である。この文章に怖さを感じた理由は、吉村がこれを書いたちょうど一年後に、小島が39歳でこの世を去っているからである。
「ひたむきで純粋な」と題されたこの文の本来的な意図は、小島一郎を読者にアピールすることにあった。だから吉村は最近の活躍を祝い、「この人のまれな才能を考えれば、もっと日がさしていいはずだ」と締めくくっている。だが、冒頭の一文はあまりに的確にこの写真家の抱えた深い葛藤と、行く末を言い当ててしまっていたのである。
一言で言えば小島一郎は異能の写真家であった。本格的に写真に取り組んだ期間は、わずか10年で、雑誌などのメディアで才能を示したのは最後の3年ほどに過ぎなかった。しかも、その作品のほとんどは地元青森で撮られたものであり、ことに厳冬期の雪に覆われた風景に固執しているのである。
そのため撮影も過酷だった。小島は、猛烈な吹雪に吹きつけられながら十里余(約40キロ)の距離を歩き、冷え切って感覚のなくなった手で押し込むようにシャッターを切り続けた。暗室ではその印象を強調するため、複雑な焼き込みや冷温現像といった技法を駆使している。
さらに、そのトーンは死期が近づくほどに硬くなり、画像の粒子は粗くなった。雪はあくまで白く、空は徹底して鈍く暗い。その向こうにある太陽だけがぼうっと光っている。この冬の津軽は何を語っているのだろうか。生前唯一の作品集『津軽』に寄せた手記「私の撮影行」の中で、海沿いに建つ粗末な民家の姿に己を重ねつつ、こう述べている。
「何ものをも失い、白い大地にへばりついている姿、それはそのまま私自身の姿のようでもあり、あるいはまた、生きようとする人間の執念の姿かもしれない」
小島のプリントには激しい絶望とロマンが織り合わされている。19世紀ドイツのロマン主義の画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの作品とよく似ていると言った人がいたが、フルードリヒは心に死の影を抱えていた画家であった。確かに小島もそうであった。自身が抱えた欝屈や欠落した部分を埋めるため、ひたすら写真に賭けていた写真家の姿が、この一節からも浮かび上がってくるのである。
父との葛藤
小島一郎は1924年に青森市で生まれている。父の小島平八郎は写真材料商「小島写真機店」を経営する傍ら、日本光画芸術協会に属し、地元でアマチュア写真クラブ「北陽会」を主宰した芸術写真家だった。平八郎は絵画調で構成的な作品を精力的に発表し、県内で多くの写真展を開催して尊敬を集めていた。大正期は日本全国にアマチュア写真クラブが誕生し、各地方に「写壇」と呼ばれるネットワークが生まれた時代であり、青森写壇をリードする盟主的な存在だったのである。
平八郎は9人の子どももうけ、一郎はその長男だった。だが生母は彼が5歳のときに亡くなっている。平八郎は後妻をもらうが、繊細な気質の小島に寂しさは残り、異母弟妹が増えると家族への“気がね”は増した。何より圧倒的な存在である父から受ける、跡継ぎとしての期待を大きな重圧に感じていた。
そんな小島は1941年に県立商業学校を卒業すると同時に家業にはいり、芸術写真も始めている。父もその写真家仲間も彼に期待したに違いない。だが、この定められたレールに亀裂が入る。この年の12月8日に、日本海軍がハワイ真珠湾を奇襲し太平洋戦争がはじまったのである。写真の仕事はきわめて限定されたものとなった。そして、小島は日本の戦況が不利になった1944年、徴兵されて中国大陸に出征することとなった。
さらに小島の所属した第47師団は湖南省における大規模な戦闘に参加し、多数の戦死者をだしている。そして敗残兵の一人として引き揚げたとき眼にしたのは、1945年7月の空襲で破壊された青森市の風景だった。小島は大きなショックを受けた。戦争は彼の心に、生涯癒せぬ傷を残したのである。
そんな小島が再び家業に戻るのは、ようやく敗戦から6年後のことである。それまでは、葛藤と重圧から逃れるように職を転々と変えている。そして父の北陽会に加わり本格的に写真を始めるのには、さらに3年を要した。当初、クラブの例会は楽しいものではなかったようだ。父に「一郎は写真が撮れない」と言われたこともあった。だが父の言葉を見返すように、小島の作品はカメラ雑誌や全国規模のコンテスで上位に選ばれ、朝日新聞社主催の国際写真サロンにも入選している。周囲もそれを評価し、北陽会の二代目の会長にも就いている。
小島家の長男もようやく落ち着いた、周囲にはそう見えていたのかもしれない。しかし、本人の心境は違っていた。先の手記にはこの頃のことを、「反省と自己嫌悪のいりまじる不安定な波のなかにもがいていた」と記しているのである。癒えぬ戦争の傷、そして客商売にも写真倶楽部の指導者にも向いていないという強い自覚。こうした複雑な気分のなかで、写真にのめり込んでいた小島は、ある日、師と呼びうる人物に出会うことになる。
トランプ・師・津軽
雪の風景の印象的な再現を目指し、暗室で工夫を凝らす小島は、写真を整理するのにちょっと変わった方法をとっていた。 一般的に現像されたネガはコンタクトプリント、通称「ベタ焼き」で整理するものだが、彼は全力ットを名刺サイズにプリントし、それをアルバムに貼って保存していた。それを持って歩き、セレクトを考えていた。写真仲間はこの名刺判のプリントを、「小島のトランプ」と呼んでいたという。初めて名取洋之助と出会ったときも、このトランプを見せたに違いない。
日本における報道写真のパイオニアである名取が、青森を訪れたのは1956年3月のことだった。自身がプロデュースした『岩波写真文庫』(岩波映画社)のなかでも、観光ガイドとしても重宝され、ヒットシリーズとなっていた「新風土記」の青森県編を準備するためであった。写真界に知らない者がいない名取だったから、青森に到着したその日は県内のアマチュア写真家に囲まれて座談会を持っている。当然そこに小島もいた。彼のプリントを見た名取は「この作者は異常性格だ」と驚いたという逸話が残っている。小島にとっても、名取の写真論には大いに感じるところがあった。
この出会いから1年半後、1957年の秋に名取と再会したとき、小島は「東京で個展を開いてみたい」と打ち明けている。名取も、その熱意と才能を認めて助力を約束してくれた。そして小島は個展のテーマとして、津軽地方西北部に広がる津軽野の冬を撮ると決めた。そこは戦後間もない頃に買い出しにいった土地であったが、カメラを持って再度出かけてから文字通り“憑りつかれて”しまったのである。
小島はその秋から翌春にかけて、まさに寸暇を惜しんでこの地域に通った。とくに撮影ができる休日は5時に起き、青森から電車を乗り継ぎ五能線の五所川原か木造 (きづくり) まで行く。そこから津軽半島に向かって徒歩で北上しつつ風景を探し、折々の行事を撮った。「風景写真は足で撮る」というの鉄則だった。
そんな撮影のなかで、彼は晩秋のある光景に強く惹かれた。それは大地に向かって働き続ける農夫の姿で、「果てしもなく広い大地に鍬を入れたり、陽の没するまで働き続けている姿を見て激しく私の胸を打つものがあった」と述べている。彼はそこに「晩鐘」や「落ち穂拾い」で知られるフランスの画家ミレーの絵を重ねて見た。
そして1958年6月、東京・銀座の小西六ギャラリーで開催された個展「津軽」は、各方面に好意を持って迎えられた。たとえば『アサヒカメラ』8月号では、評論家の渡辺勉が「強い個性の感じられる表現」であり「津軽の唄声が、素朴な低音できこえてくる作品」と評している。ミレー的な世界が評価されたといえる。
この個展の成功から3年後の1961年7月、小島は妻子を連れて上京している。父の激しい反対を押し切って、プロの写真家としての道を歩むことを決意したのである。
一瞬の栄光と挫折
個展以来、小島は地方在住の新人写真家として注目された。写真雑誌のグラビアなどを度々飾るようになり自信を深めていた。それに東京には、師と慕う名取がいるのである。
また、このころの出版界は週刊誌の創刊ブームで写真家の需要が増えていた。すでに弟の啓佑が『週刊新潮』のカメラマンとして活躍していたから、父から離れても、東京で生計を立てることに現実性を感じてもいたのだろう。
だが、結果的にはその希望が叶えられることはなかった。確かに彼は注目された新人作家だった。上京した年には『カメラ芸術』12月号に発表した 「下北の荒海」で同誌の新入賞を受賞している。また翌1962年3月の個展「凍ばれる」では、ミニコピーフィルムを用いた極めて硬く粗い調子のプリントで、北国の冬を印象的に表現して好評を得ている。しかし、津軽を表現する以外の展開を見出すことが、なかなかできなかった。模索し葛藤する小島をさらに衝撃が襲ったのはこの年の11月に、名取が死去したことである。あらゆる面での庇護者を失った小島の落胆は、あまりに深かった。
その苦境は翌1963年に、ピークに達している。確かに、弟の助力もあり、10月に石坂洋次郎、高木恭造との共著で処女作品集 の『『津軽 ―詩・文・写真集―』(新潮社)が出版されて一定の評価を得たことは確かである。だが『カメラ毎日』3月号に掲載された「東京の夕日」には、すでに彼の焦燥感が如実に表れていた。5枚組の重々しい写真構成に、彼は「東京の生活は神経がすり減っていく」というコメントを付している。
小島は状況を好転させようと、年末から翌年2月にかけ、新しいテーマとして北海道での撮影を試みた。しかし思うようなイメージを得られず、体調も崩してしまった。期待が大きかったぶんだけ深い失意を味わった結果、青森への撤退を決めざるを得なかった。その帰る先が父の元ではなく妻の実家であったのは、彼の意地だったに違いない。
小島は青森で鬱々としながらも再起を考えていた。しかしそのささやかな希望も果たせないまま、1964年の七夕の日にこの世を去ることになる。飲み過ぎた後の心臓マヒが原因となっているが、帰郷後にずいぶん酒量が増えていたらしい。振り返れば、度重なる挫折のなかで彼は自身に圧をかけ続け、その写真行為は激しさを増していったのである。それが冒頭の吉村のいう「途方もない暗やみ」として表れたに違いない。写真に賭けたその暗く熱情は、今も余熱を持って見る者に伝わっているのである。
小島一郎(こじま・いちろう)
1924年青森県生まれ。青森県立商業学校卒業。1944年徴兵されて陸軍入隊。1954年ごろより本格的に写真を撮りはじめ、名取洋之介と出会う。1958年小西六フォトギャラリーで初の個展「津軽」を開催。1961年に名取洋之助の勧めもあって上京し、フリーに。1963 年、石坂洋次郎、高木恭造との共著『津軽―詩・文・写真集』を発表。1964年4月に故郷に戻り、同年7月に急逝。その後、2009年に青森県立美術館にて回顧展「小島一郎―北を撮る」が開催され、東北地方の代表的な写真家として再評価されている。
参考文献
JCII P.S.34 小島一郎作品展「津軽」』図録 (JCIIフォトサロン 1994年)
『アサヒカメラ』(朝日新聞社) 1940年12月号 淡谷良一「奥羽写壇の展望2 青森写壇」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社) 1970年9月号 「カメラクラブ訪問 じょっぱり津軽集 北陽会 (青森市)」
『カメラ毎日』(毎日新聞社) 1959年11月号 伊藤逸平「カメラ人国記 東北・関東の巻」
『カメラ毎日』(毎日新聞社) 1960年8月号 小島一郎「雪の津軽を撮りつづける」
『カメラ毎日』(毎日新聞社) 1963年9月号 小島一郎
『カメラ毎日』(毎日新聞社) 1973年2月号 「日本の風景〈3〉津軽 故小島一郎氏の足跡をたどる」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
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