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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.23 記憶と現実の狭間の漂泊者 尾仲浩二『slow boat』(蒼穹舎、2003年) 鳥原学

尾仲浩二の撮るひなびた街の風景は、見る者の記憶をいたく刺激する。それがいつ、どこだったかは思い出せないが、確かに見たことがある……。ノスタルジーと喪失への予感が入り混じった不思議な感情を湧かせるのである。尾仲の写真を通して「旅もの」と呼ばれた、写真の系譜を振りかえってみたい。

 

節目の写真集

尾仲浩二は小さな旅を重ねてきた写真家である。その行先は観光地や名所旧跡、もちろん秘境などともまるで縁がない。 行き先はもっぱら地方の小都市とその周辺で、しかも人気の少ない風景ばかりを切り取っている。カメラを向けるのも、とてもありふれている。たとえば小さな商店街、 ローカル線の駅前ロータリー、その線路ぎわに広がる草むら、昼間のスナック、海沿いの漁師町といった場所である。たとえ海外に行ったとしても見ているものは、なんら変わることがない。

しかし、そんな眠たい場所が尾仲の写真では相貌を変える。引き気味で撮られた小さな風景は、 いずれも独特な詩情を親しみ深く伝えている。ずっと長いあいだ思い出せなかった、あるいは失われた時と場所を、ようやく見つけたような気分になる。

ただ、その郷愁はあえて作ったものではない。目の前の風景への自然な反応が写真になるのだと尾仲は言った。

旅の行き先は、なんとなく気分で決めている。地図や時刻表をめくりながら、地名や地形から場所の雰囲気を連想する。あまりに寂しいところも嫌だから、中規模の地方都市が多くなった。なんやかんやで目的地に着かないことも、通りすぎることも多い。決して肩肘を張らない小さな旅だ。いや、張っていたらこれほど旅を重ね、写真を撮り続けることはできなかったに違いない。旅の多さは発表歴の多さからもうかがい知れる。写真展は1983年から2018年まででも50回以上、写真集も26冊を数えている。

そのなかで2003年出版の『slow boat』は5冊目の写真集にあたる。本書には1984年から 1999年までの15年間の旅の写真がランダムに並べられていて、 ほとんど同じスタンスで撮影していることがわかる。その止まった時間が、余計にノスタルジーを掻き立てるのかもしれない。

当時43歳だった尾仲は「これが最後のモノクローム写真集になるかもしれない」と、あとがきに書いている。本書が写真家としての節目だと強く自覚していたのだ。それまで「あれほど写真はモノクロームだと信じていた」のに、1999年にネガカラーのプリント現像機を手に入れると、すっかりそちらに専念するようになっていたからだ。とはいえ、カラーになったからといって旅の写真が大きく変わったわけではないのだが。

ただ別の選択肢を手にしたことで、ひとつの区切りがついた。過去のモノクロ作品を冷静に見直すゆとりが生まれたのだ。だから撮った状況さえ忘れてしまったネガを見直す作業や、撮影年の離れた写真を気分のままに並べてみることが新鮮に感じられた。自分の足跡を、ほかの誰かが撮ったもののように見たとき、思いがけない何ごとかが浮かんできた。その作業は、行き先も定かでない彼の旅のあり方とよく似ている。

『slow boat』で自身の写真の“質”を再発見したことは大きな収穫だったに違いない。同時にこの作品は彼に新しい展開をもたらした。国際交流基金の海外巡回展で紹介され、写真が広く知られるきっかけともなったのだ。つまり、いくつかの意味において、過去と現在をつなぐ結節点となったわけである。

 

『遠野物語』を起点として

今も昔も、新宿には写真ギャラリーが多数存在する。かつて駅周辺には有力な写真関連企業の展示スペースがひしめいていた。それらの多くは2000年代のカメラ業界の変化に伴って消えてしまったが、新宿御苑の周囲にはまだまだ自主ギャラリーが点在している。自主ギャラリーとは、写真家たちが自ら出資運営し、作品を発表している場の総称である。それゆえ同人ギャラリーという別名もある。

自主ギャラリーの誕生は1970年代半ばに遡る。作品発表の場がまだ少なかった当時、カメラ雑誌や業界関連のギャラリーに頼るだけでなく、自前でメディアを持つことでより自立的になり、状況を突破しようとした若い写真家たちのグループが登場した。そして、彼らは新宿でギャラリーを開いた。

その先駆けの一つに、東松照明が主催す「ワークショップ写真学校」(1974~76年)で教室を持っていた森山大道と彼を慕うメンバーによって、1976年に開設された「イメージショップ・CAMP」があった。北島敬三や山内道雄といった写真家がここで大胆なスナップショットの連作を発表して自らを鍛え、そして注目されたことはよく知られている。

尾仲浩二もまたCAMPのメンバーだった。参加したのは写真学校を卒業した1982年で、翌年末には初個展「背高泡立ち草のある町」を開催している。このときは出生地である福岡県直方市の風景写真を大全紙で50枚、硬調に焼いてギャラリーの壁を埋めた。

直方はかつて炭鉱で栄えた筑豊地方の街である。尾仲は同地の父の実家で生まれ、8歳で千葉に移るまでを過ごしている。幼いころに見た「ボタ山と田んぼの境にへばり付く様に並んだ10軒あまりの集落」の風景をよく憶えている。ボタ山には背高泡立ち草が一面に生えていて、 それを振り回して遊んだり、風呂の焚き付けに使ったりした。生理に染み込んだその記憶が、彼の原風景となった。

その記憶にかたちが与えられると気づいたのは、高校時代だった。写真に熱中するようになり、ふと手にした森山大道の『遠野物語』に衝撃を受けたという。1976年に朝日ソノラマから「現代カメラ新書シリーズの一冊として刊行された小さな本から、ひなびた遠野の光景が硬いトーンを伴い、きわめて印象的に浮び上がってきた。しかも2つのコマが1つのイメージとしてプリントされていて、異様な視覚効果を生んでいた。

森山は本作について「カメラを手にしてから初めての『里帰り』」だと振り返っている。幼い日のぼんやりとした「ふるさと」の記憶を、遠野という現実の土地に重ねて「写真というもう一つの場所」として示したのだと。ちなみに1938年生まれの森山のふるさと、大阪府池田市であり東北ではない。

それからの尾仲の写真は、この『遠野物語』にすっかり染まった。高校の文化祭に出品したのが「草に囲まれて煙突がポンとたっているような風景」だというから、モチーフに関してはその後の作品と大きな違いはない。いま思えば、そこが写真という旅の最初の一歩だったのだ。

尾仲は高校を出ると、大手の製鉄会社に入社する。家族は安定した職場を得たことを喜んだが、本人の体質にはどうにも合わなかった。東京の美大に進んだ同級生を訪ね、好きな絵を描いているのを目の当たりにすると、自分の現状になお我慢ができなくなったりもした。

結局、製鉄所は2年で辞めた。そして1980年、20歳の春から東京写真専門学校(現・東京ビジュアルアーツ)に通い始めることにした。都内に写真学校が多かった当時、ここを選んだ理由は、あの森山大道が教えていたからだった。しかし入学して見ると、意外なことに、ほとんどの同級生たちはその名前を知らなかった。

当時の状況を振りかえると、それも無理はなかった。森山は1972年に『写真よさようなら』(写真評論社)を出版した後、しだいに極度なまでのスランプに陥っていたのだ。作品の発表も極端に減り、睡眠薬を過剰に摂取するようにもなっていた。尾仲を感動させた『遠野物語』も撮れない中で撮ったもので、「結局は一過性」の輝きだったのかもしれない。

ただ幸いなことに、尾仲が入学した翌年から森山は回復期に入っている。白夜書房から創刊された『写真時代』で連載「光と影」を持ったことをきっかけに、少しずつ生気を取り戻し始めていた。尾仲がその姿から学んだことはきわめて多かった。それをあえて言葉にすれば、写真家としての自立や、人としてのしなやかな強さといったものだ。

 

自ら「場」をつくる

写真学校を出ると尾仲の本格的な苦闘時代が幕を開けた。誘われて参加したイメージショップ・CAMPだったが、先輩たちの背中を見る日が続いた。ようやく1983年12月に初個展「背高泡立草のある町」を開催できたものの、その3か月後にはギャラリー自体が解散したため、活動の足場を失ってしまったのだ。以降はバイトをかけ持ちしながら、発表するあてのない写真を撮り続けた。

先の見えない日々を支えてくれたのは、森山との関係だった。ことに1987年、森山が渋谷に住居を兼ねた個人ギャラリー「room・801」を開設するさい、その改装作業を手伝ったことは尾仲に大きな刺激を与えた。写真家はリスクを負っても、自分で場を持つことに賭けるべきだと思え、共同で借りていた西新宿にある青梅街道沿いのビルの3階を、小さな写真ギャラリーに変えることを決めた。その部屋の壁を新たに銀色のペンキで塗ったとき「これでもう止められない」という覚悟のようなものが生まれたと、後に尾仲は振り返っている。

自身のギャラリーの名を「街道」にしたのは、古くからの街道沿いという立地と、「ここから道は続く」という意味からだった。この「街道」は1988年4月1日からおよそ3年8か月続き、その間、尾仲は小さな旅を繰り返しながら32回の個展を開いた。3回目からはタイトルを「背高あわだち草」としたのだが、これは、切れ目なく写真と向かい合っていく意志の表れだった。とはいえ、展示の回数と来場者数は比例しない。誰一人見に来ない日も、しばしばだったという。

だが少数ではあっても続けていれば評価する人は必ず現れるものである。会社勤めの傍ら、蒼穹舎という写真集の出版社を立ち上げた大田通貴もその一人だった。独自の文学的センスを持った大田は、深瀬昌久の1986年の『鴉』を皮切りに、翌年には森山の『仲治への旅』などを手がけて作家の新しい側面を引き出していた。これらの写真集は、いまや伝説的な写真集として国際的に評価されている。

その大田の強い勧めで、処女写真集『背高あわだち草』を出版したのは1991年のことである。制作費200万円を太田と折半した600部の写真集は、完売するまで10年を要した。本の売上げとその良し悪しも、また比例しない。出版の翌年、尾仲は有志が設けている「写真の会賞」を、荒木経惟や平地勲とともに受賞。敬愛する写真家に挟まれた記念写真を見ると、その喜びが素直に表れている。

こうして作家として認められ始めた尾仲は、ちょうど『背高あわだち草』が完売するころ、 2001年に『Tokyo Candy Box』(ワイズ出版)と『hysteric Five』(HYSTERIC GLAMOUR)という2冊を出版して周囲を驚かせた。こだわり続けてきたモノクロではなく、カラー写真集だったからだ。

そのころの尾仲は現像機を手にして色彩の面白さに気づいたのだが、一方では、モノクロ写真の限界も感じていた。なぜなら階調や粒子の印象が先行し、そのトーンを森山の影響というフィルターで読まれることが少なくなかったからだ。実際、この時期には尾仲のモノクロプリントは、独自の表現性を得ていたが、それをいくら否定してもそうは見られず、重い枷になっていたのだった。

そんな評を振り払うかのように出版したのが『slow boat』だったのである。

こうした経緯を考えると、本書のなかではそんな写真家の過去と現在、記憶と現実が曖昧に混じり合っているように思えてくる。それゆえに、見る人は感情を強く揺さぶられるのではないか、と。いずれにしても、歩くことを止めなかった写真家だけが持ち得る強い確信が、本書からにじみ出ているのである。

 

尾仲 浩二(おなか・こうじ)

1960年福岡県生まれ。東京写真専門学校(現・東京ビジュアルアーツ) 卒業。1982年よりフリー。自ら運営するギャラリーを拠点に活動。主な写真集に『背高あわだち草』『遠い街・DISTANCE』『Tokyo Candy Box』『GRASSHOPPER』『DRAGONFLY』『海町』『Matatabi』『twin boat』『Lucky cat』『SHORT TRIP AGAIN』などがある。写真の会賞、東川賞新人作家賞、日本写真協会新人賞を受賞。

参考文献

尾仲浩二『極・私家版 あの頃、東京で・ ・』 (私家版 2012年)
金子隆一、島尾伸三、永井宏 編集『インディペンデント・フォトグラファーズ・イン・ジャパン1976ー83』 (東京書籍 1989年)
『日本カメラ』 (日本カメラ社) 2013年12月号 上野修(インタビュー) 「われら写真仲間 第24回 尾仲浩二」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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