【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.47 突きつけた‶時代への違和感″ 藤原新也『東京漂流』 鳥原学
1980年代前半、高度経済成長が終わったとき、日本人は社会の変質の大きさに改めて気づいた。深川通り魔殺人事件、金属バット両親撲殺事件などの事件が象徴的に語られ、センセーショナルに報道された。なかでも写真によって鋭く考察したのが藤原新也だった。写真週刊誌『FOCUS』で連載した「東京漂流」が衝撃をもたらしたのだ。
写真週刊誌『FOCUS』における「東京漂流」事件
どんな表現分野にも「話題作」はたまに登場するものの、「事件」とまで称される作品はきわめて少ない。それは既成概念を揺さぶった後、作り手の意思を離れて歩き出し、次の時代への指標となり得た作品にだけ与えられる称号である。
この意味におけて、藤原新也の「東京漂流」はまさに事件だったのである。しかもこの作品は写真週刊誌『FOCUS』での連載時と、その後の単行本とでは違った質のインパクトを与えている。
『FOCUS』が「写真で時代を読む」 をキャッチフレーズに新潮社から創刊されたのは、1981年10月 23日(10月30日号)のことである。その後、スキャンダル雑誌として一世を風靡する同誌だが、創刊号の目次には著名な写真家の連載が連なっていた。なかでも藤原の「東京漂流」は、同誌の目玉企画であった。結果的にこのシリーズは創刊号から12月4日号まで、2か月足らず、計6回の掲載に留まったが、このうち5回までが世相を大きく騒がせた事件をテーマとしていた。 掲載順には、深川通り魔殺人事件、金属バット両親撲殺事件、東京最後の野大‶有明フェリータ″の死、ヨガ教師失踪事件、バスガール情痴殺人事件となる。
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これらの事件の記憶は、数十年という歳月の中ですでに風化してしまった。しかし藤原の「東京漂流」 において、戦後という時代の帰結として象徴的な意味が与えられたことで、何度も繰り返し語られている。ことに同じ時代に青年期を迎えた世代に与えた影響は強く、社会に対する見方に大きな影響を与え続けている。それはなぜか?
たとえば初回に取り上げられた通り魔事件は、覚せい剤中毒者による白昼の凶行だった。 この事件を通して、藤原は、高度経済成長下で疎外されていった人間、ことに男性のメンタリティを描こうとした。それは拘置所から護送される被疑者の顔をはっきり捉えたカラー写真に表れている。当時の新聞や週刊誌では、事件報道には主にモノクロ写真を、女優の口絵や文化的なニュースにはカラー写真を使うという慣習があった。しかし藤原は文脈を転倒させるため「カラーで、毛穴までわかるように、できるだけはっきり」写そうと撮影準備を進めたのである。
さらに撮影の瞬間、被疑者に「こんにちは!」と声をかけたのも掟破りだった。こうした現場では、報道カメラマンたちは対象に罵声や挑発的な言葉を投げかけ、あえて鬼のような形相に仕立てることがあるが、逆を突いた。結果的に藤原は撮影のタイミングを逸したものの、常識的な挨拶で被疑者の表情の意表を突き、人としての顔を引き出そうとしたのだった。
手法の転倒は、次の金属バット両親撲殺事件でも行なわれた。彼の撮った写真では、事件現場となったニュータウンの一軒家が、晴天下で撮影されていた。犯行現場というより、まるで「不動産屋の広告」だ、新潮社の重役がそう評したという無機的な写真である。経済成長の勝ち組であるエリート一家に起きた悲惨な家庭崩壊、それは日本の大多数を占めつつある核家族にも起きうることだろう。サラリーマンが目指していた清潔な郊外の持ち家は、希望の裏で膨れ上がる閉そく感がもたらす不幸を暗示していた。
このような手法は、藤原自身によれば「ひとつの記号にむかって、別の記号化を試みた」ものだったという。だが長いアジアでの旅で撮られた、それまでの藤原の写真を知る読者の多くはその手法の変化に驚いた。沈んだ色彩で溶かしたように捉えたアジア各地の光景は、見る者の官能に訴えてきたからのだ。この連載でそうした写真を使ったのは最後の6回目、 ただ一度きりであった。ただし、それも皮肉に満ちた表現であった。
「犬に食われる」という自由
その冒頭の見開きに、藤原は1970年代前半にガンジス河畔で撮った写真を置いた。画像は全体に暗く緑がかっていて、うつ伏せに転がった人の屍体に2匹の犬が集う。うち1匹は左足にかじりつき、もう1匹が背中に前足をのせている。
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写真の左下隅には「幻街道・シルクロード」という小さなキャプションが添えられ、右の余白には「ヒト食えば、鐘が鳴るなり法隆寺。」というコピーが大書されている。ただ、写真の上の余白だけが不思議なほど広く空いている。ページをめくると、同じ写真の右半分に、おそらく「東京漂流」のなかでも、もっともよく知られる次のコピーが重ねられている。
「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。―幻街道」
このレイアウトは老舗の酒造会社の広告「夢街道」シリーズをパロディ化したものだった。 広告写真というジャンルで多くの名作を生み出してきた同社のなかでも、シルクロードをゆく隊商やオアシスのバザールをモチーフとしたこのシリーズは高く評価されていた。だが、当時の藤原は、これに強い違和感を覚えていた。いや、それは「夢街道」だけでなく、当時盛り上がっていた、シルクロードをブランドとして構築しようとするブーム全体に対する苛立ちだった。
シルクロードブームは1970年代末、中国政府が中央アジア地域の取材を外国メディアに許可したことから始まっていた。さらにNHKが1980年にドキュメント番組『シルクロード』を放映すると、喜多郎のテーマ音楽とあいまってブームは過熱した。酒造会社の広告もその波に乗ったものだった。
だが藤原にとって美しいオリエンタル調のビジュアルは、約13年に及ぶアジアの旅で見たものとひどく違っていた。何かが巧妙に隠されているとも感じられた。それは人間の生を巡る生々しさ、つまり「哀怒、死、狂気、汚物、異物」といった、ネガティブとされるものだった。
無茶苦茶に「負けに行った」インド
藤原が初めてインドに向かったのは1969年、25歳のときだ。遅く入学した東京藝術大学のキャンパスは学生運動の渦中にあった。一部共感はできたが、運動の側にもノンポリ側にも寄れず、ひたすら絵を描きながら鬱屈した日々を送っていた。
そんなある日、書店で手に取った『アサヒグラフ』で、海外の取材記を募集する告知を見た。編集部に押しかけると、幸運にも約30本ものカラーフィルムと10万円の取材費を得た。そして藤原は下宿を引き払いインドへ旅立ったのである。現地についての予備知識も写真の技術も持ち合わせていなかったという。ではなぜインドだったのか、具体的な理由はなかった。後に藤原は無茶苦茶に「負けに行った」のだと語っている。これまでの自分を変えてしまうほどの手応を欲していた、そう解釈できるだろう。
翌年3月、同誌で発表した「インド発見100日旅行」は大きな注目を集めた。以降『インド放浪』、『チベット放浪』、『逍遙游記』(朝日新聞社)、そして『全東洋街道』(集英社)などを立て続けに発表していく。その間、新人写真家に与えられる木村伊兵衛写真賞も獲得し、新進気鋭の写真家としても認められている。
この頃の著書を通して読むと、各地での異文化体験によって自身に染み込んでいた価値観が解体され、健康的な眼を取り戻す過程が見えてくる。端的に言えば、日本では汚くネガティブなものとして。人の目から遠ざけられてゆく死を、自然の営みの一部と捉える眼差しの回復である。そして、それが結晶したのが「大に食われるほど自由」という一文だった。そこには、人間の存在をこのように見る、天然に寛容な社会であれば、通り魔犯も、崩壊した家族も救われたのではないかという問いが込められている。明るい繁栄の中で見捨てられたものたちを、公然と社会に突きつけたのである。
生き続ける問いかけ
6回目をもって藤原は『FOCUS』の連載を降りた。広告主からのクレームを予測した出版社の判断で、レイアウトが大きく改変されることを知ったからだった。刷り上がった誌面には、商品写真が入るはずの空白が痕跡として残った。その後、継続を望む声もあり、同誌には第2部を準備中という予告が載ったが、再開されることはなかった。
単行本『東京漂流』が情報センター出版局から上梓されたのは、2年後の1983年1月である。実現しなかった連載に至るまでの過程や思索、写真を加えて収録したため、400ページを超える分厚い本になった。だが、その反響は関係者の予想を遥かに超え、25万部に迫るベストセラーになった。
当初、藤原には本としてまとめる気がなかったらしい。企画を立てた情報センター出版局の星山佳須也 (後に三五館社長) によれば、藤原からは「このまま眠らせるもの」だと何度も断られたと振り返る。そこを熱意で押し通したのは、この時代に必要な本になるという確信があったからだった。また犬の写真が与えた印象も大きく「見ていると、疲労がとれるように思えた」という。星山の仕事場には、長くこの写真が飾られていた。
ベストセラーとなった本書については賛否が分かれた。目についたものをいくつか挙げると「私の目についた鱗を一挙に削ぎ落としてくれる衝撃の書」(佐江衆一 『朝日ジャーナル』)、「藤原新也の重く鋭い、しかし深い愛を秘めたメッセージを受信して欲しいと思う」 (佐野山寛太『宣伝会議』)という全面肯定の一方で、写真も文章も輝いているが「「論」によって整理されたり、関係づけられたりすると、とたんにそのイメージが平板なものになる」 (沢木耕太郎『週刊文春』) という指摘もあった。一概に批判的な評は、生理的な感覚で事象を単純な図式にしたという点に向けられている。
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ただ藤原の生理的な感覚こそ、より広範な読者を得た理由だった。特に本書を熱く支持したのは、男女を問わず、社会に対して違和感や疎外感を抱えた若者たちだった。なかには感動のあまり、昼夜を問わず藤原を訪ねたり、突然電話をかけたりした者もいた。やがて藤原はそうした若者の中に「父性」の欠如と希薄な自我を見出し、続編として『乳の海』にまとめることになる。
さらに本書は、仕事の質も変えた。世相を騒がす事件があると、気鋭の批評家として、マスコミからコメントを求められるようになった。藤原はこうした反応を過剰反応だと見た。もちろん愉快なものではなく、行き詰まりさえ覚えたのだった。
しかし、若い世代にとってこの『東京漂流』は蒔かれた種だった。たとえば20歳で本書と出会ったという作家の重松清は、何度も読み返す度に「愛読書と呼ぶにはあまりにも痛く鋭い問いを突きつけられてきた」と語り、社会学者の宮台真司は自分の郊外論は『東京漂流』 の延長線上にあると述たている。
もちろん、筆者もその一人である。バブル経済崩壊後の「失われた30年」や何度もの震災を経験した今も、1980年代に藤原の立てた問いにどれほど答えられているか。ふとそんなことを思い、また本書を手に取るのである。
藤原新也(ふじわら・しんや)
1944年福岡県生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科中退。主に、文章と写真を組み合わせた形で作品を発表。『逍遙游記』で第3回木村伊兵衛写真賞、『全東洋街道』で第3回毎日芸術賞を受賞。近著に『たとえ明日世界が滅びようとも』、『若き日に薔薇を摘め』(瀬戸内寂聴との共著)、『神の島沖ノ島』(安部龍太郎との共著)などがある。
参考文献
『カメラ毎日』(毎日新聞社) 1978年1月号 山岸章二・藤原新也・松岡正剛(対談)「放浪の写真家・藤原新也の世界 屍よりはじまりて」
『週刊文春』(文藝春秋) 1982年9月号 藤原新也「写真と文字のアマルガム」
『朝日ジャーナル』 (朝日新聞社) 1984年4月27日号 「若者たちの神々3藤原新也」
『SAPIO』(小学館) 1998年4月22日号 書想特別対談―宮台真司藤原vs藤原新也「コミュニケーションが崩壊した時代に」
「朝日新聞」2001年3月10日朝刊 西部版「写真家・藤原新也:2 (在る。)」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
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