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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.5 アマチュア精神の真髄 植田正治『小さい伝記』鳥原学

構成的な画面の中に流れる、ユーモラスで温かい時間。その独特な作風は「植田調」と称され、世界中で愛されている。鳥取に暮らし続け、その風土を写真表現を模索した植田は、自身が「アマチュア」であることにこだわり続けた。

 

「アマチュア」という言葉に込めたプライド

今からちょうど10年前、東京国立近代美術館で、来館者による所蔵作品の人気投票が行われた。日本画では上村松園「母子」、彫刻では高村光太郎「手」が首位を獲得。写真部門では、国内外の名作を抑えて、植田正治の「パパとママと子供たち」が選ばれている。植田の家族6人が一列に並んだ、あの平面並列構成の演出写真。海外でも知られる「UEDA-CHO(植田調)」を代表する一点である。

翌2013年はその植田が生まれて、ちょうど百年にあたっていた。地元の鳥取や東京では記念イベントが開催され、いずれも盛況だったと聞いている。植田は2000年に没しているが、その人気は在命中よりも高まっていたのだった。

面白いのは、ほかの巨匠たち、たとえば木村伊兵衛や土門拳らとは、その人気の質がかなり違っていることだ。

植田の写真は、誰にでも親密さを感じさせる。初めて見る人でさえ、あの単純化された構図とユーモラスな演出にまず目を奪われる。やがて画面に漂うほのかな寂しさに気づくと、そのまなざしの豊かさを実感していく。どれほど演出をしていても、核心には、ごく普通の人々の生活感情が息づいているのだ。

そんな植田の生涯を語るなら、「小さい伝記」というフレーズが良く似合う。これは『カメラ毎日』に1974年から85年までの12年間、計13回にわたって不定期に連載されたシリーズの題名である。6×6フォーマットで撮られたポートレートを中心としているが、全体を貫く明確なコンセプトがあるわけでなく、アメリカ旅行で撮った在米鳥取県人会の人々や、過去の代表作を振り返った回などもある。それだけに生涯を通し、自らを「アマチュア写真家」と称して生きた植田の歩みと到達点がよくわかる。

ここで言うアマチュアとは「お金を目的とせず、好きで写真を撮っている人」のこと。同時に植田は、自信を「シリアス・フォトグラファー」とも称していた。どちらの呼び方にも、純粋で妥協をしない、自立したアーティストとしてのプライドが込められている。このあたりの感覚が、東京の“プロ”たちを仰ぎ見る現在のアマチュア層とはひと味違う。

植田が写真に目覚めた1920年代には、プライドの高い芸術写真家が少なくなかった。ことに関西のアマチュアはそれまで主流だった絵画調の写真からいち早く脱皮し、精緻な描写とモダンな造形性を求めた新興写真を経て、ダダイスムやシュルレアリスムの影響を受けた前衛写真に進んでいた。当時の写真雑誌には、その代表格である安井仲治、中山岩太、小石清などの名前が躍っていた。植田も彼らの後を追いながら、独自の世界を確立していったのだ。

 

若き芸術写真家への注目

もともと絵心のあった植田は、地元である境港の旧制中学を卒業したら、東京の美術学校に進みたいと願っていた。だが履物商を営んでいた両親は、ひとり息子が親元から離れることも、売れない絵描きになることにも強く反対した。それでも高級カメラを買い与え、写真館を開業することで折れてくれたのだった。

植田は1932年2月に上京。写真館と感光材料メーカーが運営していたオリエンタル写真学校で半年間学んだ後、8月に約束どおり自宅の一部を改装して写真館を開いてもらった。19歳の若い、というより若すぎる館主は仕事もそこそこに、好きな写真に熱中していく。毎月の写真雑誌への投稿を欠かさず、写真クラブの例会や展覧会にも積極的に参加したのだった。

『カメラ毎日』1980年1月号に発表された「小さい伝記 半世紀のカビ 1930~1933年」には、ちょうどそのころの写真が掲載されている。解説には50年ぶりに、棚の奥から見つけた未発表ネガを焼き付けたものだとある。ネオンサインを強調した銀座の夜景、ゆるく湾曲したコンクリートの堤防と灯台の風景、地元の子どもたちを使った演出写真、開業したばかりの写真部の洋窓に揺れるカーテンなど12点。長期間の密閉によってネガはひどく劣化しており、焼かれたプリントはところどころ擦れたり、カビの黒い斑点で覆われている。しかしそれが表現効果として、古い記憶の手触りを見るものに感じさせる。

植田が多くのコンテスト入選を果たし、有望な新人作家として注目を集めるまで、さほど時間はかからなかった。翌年1月号の「小さい伝記 軌跡 1934~1940年」は、植田が写真界での評価を高めた1940年までの入選作品で構成されている。

それは地元の子供を田園に立たせ、ポーズをつけた作品群で、造形的な空間の中、少し緊張した子供の表情がなんとも愛おしい。植田の演出は、素朴に生きる人の素顔があってこそのものなのだと分かる。

この1940年には、初めての著書『田園の写し方』(アルス写真文庫)も出版している。ハウツー書というより、自作を解説した小さな写真集という形態で、そこにこんな彼の決意を呟いたような一文が挿入されている。

「僕は甘いといわれても構わない。いつでも田園に詩を求める男。『田園詩人』として生きたいんだ」

この前後が、植田の最初にピークだったと言える。海岸にオカッパ頭の少女を一列に並べて撮影した「少女四態」や「群童」、あるいは画面の両端に人物を配した「茶谷老人とその娘」などの作品を発表しているのだ。背景を極端に単純化し、そこに複数の人物を背面的に構成した、あの「UEDA-CHO」を確立しつつあった。

しかし、田園詩人の創作活動に急ブレーキがかかった。1941年にアメリカとの戦争が始まると、海岸線での撮影は防謀上の理由で禁止され、さらに前衛写真家は危険視されて監視の対象となった。カメラを持って歩くだけで、それまで撮影していた子どもたちからスパイ扱いされたこともあったと語っている。

 

変わること、変わらないこと

やがて戦争が終わると、植田は前にも増して旺盛な活動を再開し、童話的な世界をつくろうと励んでいく。そして1949年9月に、あの「パパとママと子供たち」が写真雑誌『カメラ』(アルス)に掲載された。同年末に出版された『写真と技術』でこう宣言した。

「日本の写真界に、機知、皮肉、ユーモア、をもった作品がほとんどありません。だから、僕は、そんな写真を創りたいとおもいます。鹿爪らしい、深刻ぶった写真が、芸術写真という事になっているなら芸術写真という言葉をアッサリ返上して、僕は、大いに芸術でない写真を創ります」

このころ、植田が新たに取り組み始めたのが、鳥取砂丘と空とを天然のホリゾントとして使い撮影した作品だった。砂丘の群青写真といえば植田の代名詞として知られているのだが、じつは境港から砂丘まではかなり遠い。距離にして100キロ余り、車で2時間以上はかかる。それを植田は、ほぼ毎週往復していた。

ところが奮闘中の植田に、再び困難が立ち塞がる。1950年代に入ると土門拳の主唱する「リアリズム写真」がアマチュア写真界を席巻したのだ。土門は困難な社会状況を直視することこそ敗戦後の写真家の使命だと説き、必要なのは「絶対非演出の絶対スナップ」だとした。さらに返す刀で、戦前からの芸術写真家を激しく攻撃した。植田自身が土門から直接批判されたわけではないが、演出を否定された失望感はあまりに大きかった。

植田はそれでも地元の子どもたちを被写体として、彼なりのリアリズムを模索した。その苦闘の成果は、1971年に出版された『映像の現代 3 童暦』(中央公論社)にある。山陰の四季折々の風景の中に子どもたちが巧みに配され、風土と人の関係が叙情的に表現されている。ここには写真という表現にとって、写真家と被写体とがカメラを挟んで意識し合う時の心情の表出こそが何よりもリアルなものだという確信が示されている。だからこそ、演出によって、多様で豊かな生活感情が醸し出され得るのだ。

そして、この写真集が出版されるころから、再び写真表現の潮流が変わった。日常性や私生活に目を向ける若い写真家たちは登場し、彼らは自分たちと同じ志向を持つ先達として、植田作品を見出したのである。また同じころから、海外での評価も高まっていった。

「小さい伝記」の連載は、こうした再評価の流れの中で始められた。1974年1月号掲載の第一回は、正方形の画面に正面から子どもたちを捉えた写真が発表された。編集者からダイアン・アーバスや十文字美信のポートレートとの類似性を指摘された植田が「ほれこむとすぐまねてみたくなる」と、素直に認めたエピソードが、作品紹介記事に綴られている。

植田は時代の逆風にあってもスタンスを崩さなかった。いや、それどころか自分自身に変化を求めた。だから、高い評価を受けても過去の作品に強い執着を見せなかったのである。常に「今」であることが、この作家のすべてだったのだ。69歳のときに植田が記した言葉を紹介しておきたい。

「画家とちがって、写真家は、どんな世代であっても、『過去』に足踏みすることは消滅につながる。『今』を踏まえて、明日を志向することができてこそ、これぞ『若さ』というものではないのか、とおもう」

それから約10年後の1993年、若い写真学生の輪に自ら進んで入り写真談義を楽しむ植田を、私は見ている。80歳のあの若々しい姿が、昨日のことのように思い出される。

 

植田 正治(うえだ・しょうじ)

1913年鳥取県生まれ。1932年、東京のオリエンタル写真学校に入学。卒業後は郷里で写真館を営みながら、精力的に作品を発表。主な写真集に『童暦』『植田正治写真集』などがある。「植田調」といわれる独特の作風は海外での評価も高い。二科賞、日本写真協会功労賞など受賞多数。フランスの芸術文化勲章シュヴァリエ受章。2000年死去。鳥取県の伯耆町に植田正治写真美術館がある。

 

参考文献

植田正治『私の写真作法』(TBSブリタニカ)2000年
『SHOJI UEDA PHOTOGRAPHS 1930’S – 1990’S 植田正治』(植田正治写真美術館編)1995年
『写真と技術』(富士写真フイルム株式会社)1949年12月号「作品に寄せて」
『カメラ毎日』(毎日新聞社)1971年7月号 植田正治「『童暦』によせて」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1982年12月号 植田正治・一村哲也「交換しゃしん談義 初源への視線・本物の写真家と「若さ」」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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