現代アニメ批評 #3『呪術廻戦』

「現代アニメ批評」では、幅広いアニメ作品の中から話題の(もしくはちょっとマニアックな)作品を取り上げ、アニメ鑑賞をより深く楽しむための批評を連載していきます。

今回取り上げる作品は、これまた『週刊少年ジャンプ』で連載された大ヒット漫画を原作に持つ『呪術廻戦』である。アニメはテレビシリーズとして2020年に第1期がスタートし、翌2021年に『劇場版 呪術廻戦0』が公開、2023年にテレビシリーズ第2期が放映された。今年2025年にはテレビ第2期の「懐玉・玉折」編の総集編が劇場公開され、「渋谷事変」編の特別編集版および2026年1月からテレビ放映予定である「死滅回游」編の先行上映が、今年11月7日より劇場公開されることも決まった。この作品もまさしく現代を代表するアニメ作品と言えるだろう。

『鬼滅の刃』=鬼、『チェンソーマン』=悪魔、に続く今回のテーマは「呪い」ということになる。こういった作品群がヒットしていること自体が、今がどのような時代かを表しているようにも思える。

誰もが、何か(誰か)を呪わずにはいられないこの時代。正しい呪い方を学ぶ物語である『呪術廻戦』を読み解く。

呪いとは何か? – 「正しい呪い」のありかを問う

先に述べたように、この作品の最も重要なテーマは、間違いなく「呪い」である。

作中で呪いとは「人間から流れ出た負の感情や、それから生み出されるものの総称」と説明される。呪術師は自身の呪いをコントロールできるが、非術師はそれができない。そういう非術師から漏出した呪力が澱のように積み重なり形を成した「呪霊」を祓うことが、呪術師の主な仕事である。

さて、『呪術廻戦』はこの「呪い」をどのように描いているのか。それを考えるために、まずはこの作品の「プロトタイプ」である『呪術廻戦0』(以下『0』)について考えてみよう。

『0』は、『呪術廻戦』の連載前に『ジャンプGIGA』に連載されていた『東京都立呪術高等専門学校』が原作となっている。両作とも、主人公(虎杖悠仁と乙骨憂太)が莫大な呪いの力をその身に宿すことで死刑を宣告され、その呪いを解くことを目指すという点において、明確に類似した物語構造を有している。

特に『0』冒頭での乙骨と五条の会話はこの作品のテーマを端的に示していると言えるだろう。

自らの呪いであるリカの暴走によって死刑を言い渡された乙骨は、誰かを傷つけるくらいならと自死を試みる。それが叶わないことを知ると、「もう誰も傷つけたくありません」「だからもう外には出ません」と宣言する。それに対して五条悟はこう諭すのだ。

君にかかった呪いは 使い方次第で人を助けることもできる
力の使い方を学びなさい
全てを投げ出すのは それからでも遅くはないだろう

力の使い方=正しい呪い方を学ぶこと、そして呪いを解くこと。『0』の冒頭で示されたこの台詞にこそ、『呪術廻戦』の物語全体を貫くテーマが凝縮されている。

誰もが何かを呪わずにはいられないこの時代において、「正しい呪い方」とは何か、「呪いの解き方」とはどのようなものか。両作は、そういう問いに対峙した、試行錯誤の物語である。

呪いを力に – メンタルコントロールとしての呪術

誰もが持つ負の感情である呪力。その呪力をコントロールする方法を学ぶこと。そうした視点で見れば、『鬼滅の刃』の「呼吸法」と同じく、〈メンタルコントロールの一種としての呪術〉という側面が見えてくる。

作中において呪いとは、「廻る」ものであり、「流れる」ものである。呪力のコントロールの仕方を学ぶ際に、まずは呪力を「流す」感覚をつかむ。物語の序盤で登場するこの設定こそが、この作品の映像的な面白さの源泉となっている。

作中で「呪力は腹で練る」という台詞が何度か出てくるが、呪術師は腹で生まれた負の感情をうまく廻らせ、呪術として出力する。もちろん、出力の形は暴力に限らない。術式の中には他者を癒やすものもあり、反転術式という正の力さえも生み出せる。

この感覚は、我々が普段行っているメンタルコントロールと同じではないか。

それは負の感情を何らかの形でそのまま放出するストレス解消法に限らない。スポーツであったり、勉強であったり、仕事であったり、対象は何でもよいのだが、我が身に宿る負の感情(不安、重圧、後悔・・・)をうまくコントロールし、何らかの形で出力するという身体感覚は、多くの人にとって経験があるに違いない。

呪力を練り、流し、何らかの形でぶつける。この身体感覚の描写が抜群にうまく、そこに読者の心身が同調するような感覚が生み出されるからこそ、『呪術廻戦』は読んでいて最高に気持ちが良いのだ。アニメーションはここに動画の力と音楽の力も上乗せし、キャラクターの身体感覚がまさに自分自身の感覚であるかのような快感を与えてくれる。

特にアニメーションで生きてくるのが「黒閃」の設定である。「打撃との誤差0.000001秒以内に呪力が衝突した瞬間、空間は歪み、呪力は黒く光る」と説明される「黒閃」は、精神と肉体がシンクロする気持ちよさを、流麗なアニメーションとドラマチックな音楽のシンクロによって演出する。アニメのバトルシーンはさながらMVのダンスシーンのようだ。

いわゆる「異能モノ」でありながら、キャラクターが「異能」を使用する快感を視聴者にここまで感覚させる点で、この作品は突出していると言えるだろう。

 “解けない呪い” をどう引き受けるか?

一方で、『0』と『呪術廻戦』の違いから見えてくるものもある。

この二作の最も大きな違いは、呪いを解くことが前提されているかどうかという点だろう。

『0』においては、乙骨が呪いについて学ぶことで自身の(あるいはリカの)呪いを解くということが、作品としての目的地であり、到達地点だった。正しい呪い方を学び、呪いを解き、自分が生きていてよい人間なのだと思えること、それこそが乙骨に与えられた結末だった。

一方、『呪術廻戦』においては、虎杖に宿った呪いは祓うことも解くこともできない、ということが物語の冒頭で示される。その呪いを消し去る唯一の方法は、虎杖が呪いを全て引き受け、その呪いと共にこの世界から消え去る(=死ぬ)ことである。

この点が、二つの作品を隔てる、大きな、そして本質的な違いである。

そして、自分の力が他者を傷つけるくらいなら、誰とも関わらず、この力と共に消えて無くなりたいという『0』での乙骨の恐れは、『呪術廻戦』の虎杖に対して最悪の形で具現化する。自らの死刑を先延ばしにしたことによって、自身に巣くう呪い(=宿儺)が何百人もの人々を虐殺してしまった虎杖にとって、正しい呪い方を学び、呪いを解き、自分が生きていてよい人間なのだと思える未来は永遠に訪れないだろう。彼にとっては、呪いと共に消える(=死ぬ)ことこそが、倫理的に最も「正しい」ことなのである。

あるいは、「善い行い」でさえ、結果として誰かを傷つけうる、ということ。例えば、宿儺による大虐殺は、伏黒が虎杖を助けなければ起こらなかったことだ。人を救うという、それだけで見れば善い行いも、その救った人間が誰かを傷つけるという結果を生むかもしれないということが、本編では幾度か示されている。

これは虎杖や伏黒に限った話ではない。人は生きている限り、必ず呪いを生んでしまう。どれだけ善くあろうとしても、誰も呪わずに生きられる人などいない。よかれと思ってした行動が、誰かを傷つける呪いとなってしまうかもしれない。「愛」すらもまた呪いであることは、『0』ですでに示されていたはずだ。

誰も傷つけずに生きられる人などいない。これは避けようのないことだ。いかに強く、力の使い方に長けた者であっても。本作において「懐玉・玉折」編が重要なのは、そういった現実を「最強」=五条悟に突きつけたからだ。どこまで突き詰めても、完璧な力など存在しない。その力の行使によって、誰かを傷つけることを完全に回避しながら、救いたい人を全て救うことなどできない。あの五条悟でさえそうであるように。

呪う動物としての倫理

呪いは時に人を傷つける。完全にコントロールしきることはできない。我々にできるのはせいぜいのところ、その力の使い方を学び、自身の呪いによって傷つく人を一人でも減らし、他者のために少しでも役立てることぐらいである。そう考えると、自身の呪いと共にこの世界から消滅することの方が、よほど「正しい」ことに思える。

『呪術廻戦』は、「正しい呪い方を学ぶ」というテーマをその次元まで追い詰めている。

「正しい呪い方」などというものは、机上の空論に過ぎない。呪いはいかに完璧にコントロールしようとしても、否応なしに人を傷つけてしまう。ましてやその呪いをきれいに解きほぐすことなど、誰にできようか。人は呪いをその身に宿し、時に人を傷つけながら生きていくしかない。

それでも、その呪いと共にこの世界から消滅することを選んではいけない、という声が、この作品からは聞こえてくるのだ。人を傷つけ、自分も傷つきながら、それでも正しい力の使い方を学び、強く、聡くなることを目指し続けなければならない、という声が。

虎杖がその身に受けたのは、宿儺の呪いだけではない。

例えば、祖父からの呪い。「お前は強いから人を助けろ」という遺言=呪縛がなければ、そもそも虎杖が宿儺をその身に宿すこともなかった。

あるいは、七海からの呪い。七海はその言葉が虎杖にとって呪いになってしまうことに罪悪感を抱きながら、それでも彼に「後は頼みます」という言葉を託した。その呪いの言葉によって、虎杖は傷つき、煩悶し、呪術師として最後まで苦しみ続けることになる。

では、呪わないことが正解だったのか?

誰も呪わず、誰とも関わらず、自身の呪いと共にこの世界から消えていくことしか、道はないのか?

いや、決してそうではないはずだ。

他者を呪わないことが良いのではない。そんな単純な話ではない。呪いを受け、傷つき、苦悩し、誰かを呪いながらしか、人は生きられない。

その中で、もがくこと。少しでも強く、少しでも聡くなるために、もがき、苦しむこと。それこそが、誰かを呪いながらしか生きられない、その生自体が非倫理的である我々が、かろうじて取りうるぎりぎり倫理的な態度である、と『呪術廻戦』は示している。

人は呪い、呪われて生きていく。

だからこそ、どのように呪うか、が重要なのだろう。

繰り返す。『呪術廻戦』とは、誰もが何かを呪わずにはいられないこの時代において、「正しい呪い方」とは何か、「呪いの解き方」とはどのようなものか、という問いに対峙した試行錯誤の物語である。

文: 冨田涼介
批評家。1990年山形県上山市生まれ。2018年に「多様に異なる愚かさのために――「2.5次元」論」で第1回すばるクリティーク賞佳作。寄稿論文に「叫びと呻きの不協和音 『峰不二子という女』論」(『ユリイカ』総特集♪岡田麿里)、「まつろわぬ被差別民 『もののけ姫』は神殺しをいかに描いたか」(『対抗言論』3号)など。

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