現代アニメ批評 #4『SPY×FAMILY』
「現代アニメ批評」では、幅広いアニメ作品の中から話題の(もしくはちょっとマニアックな)作品を取り上げ、アニメ鑑賞をより深く楽しむための批評を連載していきます。
連載第4回で取り上げるのは、現在アニメ第3期が好評放送中の『SPY×FAMILY』だ。2019年より『少年ジャンプ+』で連載されている同名漫画を原作とし、2022年に第1期が、2023年に第2期が放送された。
前回まで取り上げた3作品と異なり、『SPY×FAMILY』は架空の世界の東西冷戦下におけるスパイが主人公というハードな設定とは裏腹な、ハートフルなホームコメディ色の強い作品である。
魅力的なキャラクターたち、大人から子どもまで楽しめるシンプルながらも意外性のあるストーリー、そして、その背後に横たわる戦争の暗い記憶。多くの人を魅了する『SPY×FAMILY』の多角的な魅力に迫りたい。
『SPY×FAMILY』あらすじ
物語は、ある男が家族をつくることから始まる。
男の名は、ロイド・フォージャー。彼は西国=ウェスタリスの諜報組織WISEに所属するスパイであり、冷戦下にある東西世界の均衡を保つため、東国=オスタニアで極秘裏に活動をしている。「黄昏」というコードネームを持ち、変装をはじめとしてあらゆる能力に秀でた「西国一のスパイ」であるとされている。
彼に与えられたオペレーション「梟(ストリクス)」は、東国で大きな影響力を持つ国家統一党(対西国強硬派であり、東西平和を脅かす存在であるとされている)総裁ドノバン・デズモンドに取り入るため、彼の息子が通うイーデン校に養子を通わせ、インペリアル・スカラーと呼ばれる特待生とその親だけが出席できる懇親会でデズモンドと接触せよというものだ。任務遂行のため、彼はロイド・フォージャーという名前を使い、仮初めの家族をつくっていく。
スパイであるロイド、エスパーのアーニャ、殺し屋のヨル(彼女は東国の暗殺組織の一員であり、西国のスパイである黄昏とは敵同士であるとも言える)、そして未来予知ができる犬のボンドが、互いに自分の正体を隠しつつ、偽装のために家族を演じる。
だが、破天荒なアーニャ、一流の殺し屋ながら日常生活ではどこか抜けているヨル、その他の様々な邪魔が入り、任務は遅々として進まない。フォージャー家だけでなく、ヨルの弟で秘密警察のユーリ、情報屋のフランキーやロイドの同僚(スパイ)の夜帷、アーニャが通うイーデン校の面々などなど・・・・・・本作は、魅力的なキャラクターたちが織り成すドタバタコメディの様相を呈する。
アーニャに命を吹き込む、アニメーションの身体性
コメディとはいえ、物語を引っ張るのは切れ味鋭いギャグではなく、キャラクターの魅力である。それこそが『SPY×FAMILY』という作品の生命線と言いきって良いだろう。
特にアーニャの造形が素晴らしい。物語は主にフォージャー家の三人(ロイド・ヨル・アーニャ)のいずれかの視点で進行するが、第1話を振り返ると、本作の正式な主人公はおそらくロイド・フォージャー(エージェント「黄昏」)である。アーニャは、第一級のスパイである黄昏の任務に混乱を与え、物語を引っかき回す魅力的なトリックスターでありつつ、主人公のロイドを凌ぐ、この作品の求心力そのものだ。
アニメ第一話で、アーニャの台詞を一声聞いた瞬間に、多くの人がこの作品の虜になったはずだ。声優の声によってキャラクターに真の意味で命が吹き込まれる奇跡を目の当たりにすることができる、希有な作品である。
逆に、ロイドとヨルは主要キャラでありながら、雑味のない芝居(シリアスパートもギャグパートも、視聴者が求めるものに対して過少でも過剰でもない、ノイズが入り込む余地のないドンピシャの芝居をしてくる)によって、アーニャの個性を引き立てている。
ここでは、スパイのロイドと殺し屋のヨルは、表向きは普通の人間を装わなければならない、という設定が効いている。また、日常パートの抑制的な芝居とアクションシーンとの落差が、作品としてのメリハリを生み出してもいる。
ロイドとヨルが過少でも過剰でもない〈ちょうど良い塩加減〉の芝居である反面、彼らの近くに配置されたキャラクターたち(夜帷、フランキー、ユーリ・・・)は味付けが少々濃すぎるように思える。しかし、それでも食傷気味にならないのは、やはりキャラクター同士の関係性のバランスの良さや、ストーリー構成のテンポの良さのなせる技だろう。
ぎこちなさのいとおしさ
声の芝居と同様に、絵の芝居にも見所は多い。しかしながら、派手なアクションシーンはこの作品においては一番の見せ場ではない。
ロイドやヨルのアクションシーンは確かに流麗であり、しなやかでリズミカルな美しいアニメーションだ。スパイとして、殺し屋として活躍する二人のアクションに、胸のすく思いをした人も多いだろう。だが、誤解を恐れずに言うが、『SPY×FAMILY』というアニメーション作品の力点は、そこには置かれていない。
着目したいのはやはり、ロイドやヨルの洗練された動きに対比される、アーニャのぎこちなさである。私のお気に入りは、アーニャが通学バスのステップによじ登るシーンだ。
まさしく「よじ登る」という描写がふさわしいと思えるような、がに股になって脚を踏ん張り、バスのドアにかけた手にぐっと体重を預ける仕草。シーンとしてはなんてこと無い日常の一コマだ。だが、それこそがこの作品の魅力なのだと思う。
自分の身体を意のままにコントロールし、流麗な所作で踊るように任務を遂行する、一流の仕事人である大人たちと、自分の身体と感情を持て余し、たどたどしく、アンバランスで、予測不可能な動きをする子どもたち。そういう対比が、この作品には随所で見られる。
守るべきかりそめのために、力を合わせて舵を切る
そして本当はクールで完璧な仕事人であるはずのロイドやヨルもまた、家族のことになると全身が力んで本来の流麗な所作を失う。そういった身体のコントロールの失敗を描くアニメーションこそが、この作品の魅力なのだ。
映画『劇場版 SPY×FAMILY Code:White』にもお気に入りのシーンがある。
面白みに溢れる「うんこの神様」のシーンも、おなじみになったロイドやヨルのクールなアクションシーンも、確かに見物ではあった。だが、それらのシーンも、やはりクライマックスの前座でしかなかった。家族三人で、力いっぱいに舵を切るクライマックスのあのシーンこそが、この映画を通して描きたかったものなのだろう。
脚にぐっと力を入れて踏ん張り、力一杯腰をひねる。全体重が舵を握る腕に伝わっていく。腕の筋肉が収縮し、歯が食いしばられる。全身に力が入る。舵がいっぱいに切られる。
彼らは血のつながっていない他人同士の偽りの家族である。それどころか、生まれた国も、信じる正義も違う。出会い方によっては敵同士として殺し合っていたかもしれない。
それでも彼らは、力を合わせて舵を切る。この世界の向かう先が少しでも善くなるように。この世界が少しでも平和になるように。
東西冷戦下。戦争はなんとか回避されているとはいえ、そこにあるのは仮初めの平和であり、潜在的な戦争によってもたらされている均衡状態、つまりは偽りの平和である。そうであったとしても、その仮初めの平和は、我が手を血で汚してでも守るべきものであるのだ、とこの作品は訴えている。
壊れかかったこのお茶目な星で
黄昏の過去には、戦争の暗い記憶がある。戦争は起きないと思い込み、親友たちが爆撃で死んだと思い込み、銃を手に取って敵を殺せばいつか平和を取り戻せると思い込んだ。敵国を憎み、その憎しみの先に、現れるはずのない平和を渇望する、永く、苦しい時間。その憎しみが、誰によって、何のために作り出されたのか、その憎しみによって誰が得をするのか。戦災孤児となった彼に、そんなことを考える余裕などなかった。
だが彼は、戦場で再会した親友たちの死をきっかけに、自分が開戦の本当の理由さえも知らないことに気付き、「国のため」に人殺しに躍起になっていた自身の過ちを知るのだ。
盲目的に敵を憎み
盲目的に銃を取り
盲目的に国に従った
無知とは
なんて無力で
なんて悪
戦時下に限ったことではない。“平時”であるはずの現代の日本においてさえ、この「悪」は蔓延っている。
排外主義やマイノリティ差別が、日増しにこの社会に深く食い込んできている。盲目的に誰かを憎み、盲目的に誰かを傷つける。その憎しみが、誰によって、何のために作り出されたのかも知らずに。その無知は、我々が幸福に生きられる平和な世界の実現にとって無力であるというだけでなく、悪と名指すにふさわしい、おぞましいものである。
平時においてさえ、この世界に、真に恒久的な平和、留保なしの平和など、存在しようがないのかもしれない。手を汚し、ボロボロになり、駆けずり回って、それでも我々はこの世界の中で、偽りの、見せかけの、張りぼての、そんな平和すら、作り上げることができていない。
いや、「世界」などという大それた話だけではない。
そう、たとえば「家族」という(世界に比べれば幾分かは)小さな、身近な共同体の中にすら、真の平和(それはきっと、絶対的な安心と愛が保証された時空間だろう)を築き上げるためには、莫大な努力と忍耐を必要とする。この世界の中の、どんなにささいな平和も、誰かが嘘をつき、手を汚し、自分を殺して、どうにかこうにか維持されている。その努力を知らず、誰かに煽られた憎しみに溺れる人間は、無力であるだけでなく、悪でさえある。
黄昏は、「子どもが泣かない世界」をつくるためにスパイになった。幼少期に両親を亡くしたヨルは、幼い弟を養うために殺し屋になった。そして今、東西世界の均衡を保つために奔走する。その均衡が仮初めのものであったとしても、潜在的な戦争によってもたらされる、欺瞞に満ちた平和だったとしても。
だからやはり、プロフェッショナルとしての嘘や汚れ仕事も、あるいは親としての不器用な愛情も、『SPY×FAMILY』においては(あるいはこの世界においても)、主役ではない。大人はあくまでも子ども(たち)の笑顔の引き立て役に過ぎないのだ。
大人たちが駆けずり回って守ったその笑顔こそが、未来の平和な世界を築いていってくれるはずだ。
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「バスジャック編」PV公開🎊✨
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来週より「バスジャック編」放送📺⚡️
アーニャ達イーデン校組みと
テロリストを乗せたバスが動き出す🚍皆様、ぜひご覧ください👏👏
バスジャック編PV🔽https://t.co/qEgFiCuiMp#SPY_FAMILY#スパイファミリー#幾田りら pic.twitter.com/msoWQqMP7s
— 『SPY×FAMILY(スパイファミリー)』アニメ公式 (@spyfamily_anime) November 1, 2025
文: 冨田涼介
批評家。1990年山形県上山市生まれ。2018年に「多様に異なる愚かさのために――「2.5次元」論」で第1回すばるクリティーク賞佳作。寄稿論文に「叫びと呻きの不協和音 『峰不二子という女』論」(『ユリイカ』総特集♪岡田麿里)、「まつろわぬ被差別民 『もののけ姫』は神殺しをいかに描いたか」(『対抗言論』3号)など。
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