
現代に問いかけ続ける建築家・篠原一男—TOTOギャラリー・間「篠原一男 空間に永遠を刻む」展覧会レポート
戦後日本を代表する建築家のひとりである篠原一男(1925〜2006年)。生誕100年を記念する展覧会「篠原一男 空間に永遠を刻む――生誕百年 100の問い」が、TOTOギャラリー・間で、2025年6月22日(日)まで開催中です。

展覧会ポスター[写真情報]「ハウス イン ヨコハマ」(1985年)にて © GA Photographers
篠原は日本の現代建築を語る上で欠かせない存在であり、2006年に逝去した後も、国内外から注目が集まっています。アメリカやヨーロッパで回顧展、中国で3都市を巡回する展覧会が行われるなど、世界中から彼の作品について問い合わせが殺到しているそうです。
本展は、代表作や晩年のプロジェクトを通して篠原の活動を捉え直すとともに、初めて彼の建築を知る若い世代に向けて企画されました。
篠原の数多くの言説にも触れ、その思想が現代にどのような影響を与えているのか、若い世代がどのように受け取るのか、皆で考える場としても機能します。

写真向かって右から、本展のキュレーターを務める奥山信一氏(建築家)、貝島桃代氏(建築家)、セン・クアン氏(建築史家)、およびアシスタントキュレーターを務める小倉宏志郎氏(東京科学大学)
本展のキュレーターを務めるのは、建築家の奥山信一氏、貝島桃代氏、建築史家のセン・クアン氏の3名です。また、アシスタントキュレーターとして、東京科学大学の小倉宏志郎氏も企画に携わりました。
作品を模型や図面、写真で知ることに加えて、スケッチや建築のモックアップを通して、篠原の人間性にまで触れられるような、多角的な展示です。
この記事では、展覧会のレポートをお届けするとともに、50年以上も前から篠原が提唱し続けた思想がなぜ現代にも影響を与えているのか、その理由を探ります。
(※トップ画像キャプション:TOTOギャラリー・間「篠原一男 空間に永遠を刻む――生誕百年 100の問い」「ハウス イン ヨコハマ」(1985年)の展示風景)
展覧会レポートーー代表作と言葉でたどる篠原一男の思想

「から傘の家」(1961年)模型
東京オリンピックや日本万国博覧会の開催が決まり、さらなる発展に国民が期待を膨らませていた1960年代半ばの日本。
都市計画の推進に関わる建築家が活躍する中で、篠原一男は小住宅の設計に多大なエネルギーを注いでいました。
国を挙げての大規模なイベントに対し、彼は小さな個人住宅の設計によって、建築の価値を転換しようと試みたのです。
さらに、篠原は、自身の思想を論文や雑誌で発信することにも力を入れていました。作品の写真や解説にも自らの主張を反映する姿勢を徹底し、建築のありかたを探究し続けました。
まずは、1960年代に作られた初期の代表作3点をご紹介し、その独自性に迫ります。
「から傘の家」(1961年)

「から傘の家」(1961年)展示風景
「から傘の家」(1961年)は、それまでに篠原が手がけた中で最も小さな家です。「住宅は芸術である」という言葉とともに発表され、学校の教室と同程度の55平方メートルという限られた空間でその思想を体現しました。
正方形の平面で中心に柱がなく、屋根の構造は扇垂木(おうぎたるき)で傘のように作られているのが大きな特徴です。
垂木とは、木造建築の屋根を支えるために使う材料で、「から傘の家」では垂木を放射状に配置する扇垂木が採用されました。
「住宅は芸術である」という言葉の背景には、住宅設計が都市デザインや敷地条件、さらには住民の家族構成からも自由であるという思想がありました。(※)
都市計画に焦点が当てられていた当時の社会に対し、重要な問題提起を行った作品だと言えるでしょう。
※参考:奥山信一「高次言語(メタランガージュ)建築の行方——再考『住宅は芸術である』」『THE JAPAN ARCHITECT 93号(2014年春号)』株式会社新建築社、2021年(初版:2014年)、p.8〜9
「白の家」(1966年)、「地の家」(1966年)

「白の家」(1966年)模型
篠原が1966年に同時に発表した「白の家」と「地の家」は対照的な空間を持つ住宅でした。
「白の家」は一辺10mの正方形の平面で作られており、初期作品の特徴である「正方形を中心とした完結形の空間」というコンセプトを代表する住宅です。

「地の家」(1966年)模型
一方、「地の家」は、彼が初めて不定形を取り入れた住宅で、さらには主屋が土間で寝室が地中にあるという、「土」を主題にした斬新な設計でした。
ところで、篠原が自身にとって重要なテーマである「永遠性」を見出したのは、「白の家」が大きく関係しています。
竣工を数日後に控えたある日、行政が定めた計画道路が発表され、なんと「白の家」の敷地もそこに含まれていると判明しました。
つまり、建物が完成しても、わずか2、3年で取り壊されることが宿命づけられたのです。
この出来事によって、篠原は「永遠性への期待というものはその挫折によってかえって鮮明になるもののように思える」(※)と述べています。
加えて、「もし多くの人がこの空間を愛しているのならば、文化財に指定されるであろう」という趣旨の挑戦的な言葉も残しています。
彼の主張から40年以上が経った今、「白の家」を含めた建築作品の移築や、新たな継承者による保存が進んでおり、当時の発言が次々と実現しているそうです。
本展のタイトルにもなっている「空間に永遠を刻む」という篠原の言葉は、その思想を強く表しているとともに、過去から未来へと影響を与え続けていると言えるでしょう。
※引用元:「白の家」『THE JAPAN ARCHITECT 93号(2014年春号)』株式会社新建築社、2021年(初版:2014年)、p.30〜31
篠原一男の思想と「100の問い」

中庭の展示の様子。正面には、多木浩二氏が撮影した「谷川さんの住宅」(1974年)(右)と「上原通りの住宅」(1976年)(左)の写真が展示されています。
3階の展示室を通って中庭に出た時にまず目に入るのは、多木浩二氏が撮影した「谷川さんの住宅」(1974年)と「上原通りの住宅」(1976年)の写真。
写真に向かって左の壁には、篠原の作品と当時の出来事をまとめた年表が掲示されています。

中庭の手前から奥まで伸びている年表。篠原の作品と様式、当時の出来事がまとめられています。下段には「100の問い」がピックアップされ、彼の言葉がどのような背景から生まれたのかを考察できます。
そして、右側には、「篠原一男 100の問い」と題した言葉が連なる壁面。本展のキュレーターが、篠原の言説で特に重要だと考えた言葉を選んだそうです。

「篠原一男 100の問い」の展示風景。階段の上まで言葉が掲示されています。
「失われたのは空間の響きだ」「伝統論は創作の出発点でありえても回帰点ではない」といったフレーズが立ち並び、来場者はその意味を理解しようと思考を働かせるでしょう。
本展のキュレーターの一人である貝島氏は、「篠原先生の言葉を読んだ時、私は問いかけられているように感じました。先生の言葉を来場者の方々がどのように受け取って、何を考えるのか、そのきっかけを作りたいと思っています」と話しました。
なお、会場では、「100の問い」への回答をハンドアウトとして配布しています。1980年以降に生まれた若手の建築家たちがそれぞれの問いに答えたもので、篠原の言説と新たな視点が交差するメディアです。
展示空間やハンドアウトを通して、彼の思想を捉え直し「考える場」が作られていると感じました。
篠原一男の「永遠性」

「ハウス イン ヨコハマ」(1985年)ダイニング・書斎のモックアップ。出窓から眺めた書斎の空間。
中庭から4階に上がると、手前に大きく張り出した出窓や、特徴的な形状の出入り口といった不思議な形態に目を奪われます。

「ハウス イン ヨコハマ」(1985年)特徴的な形状の出入り口
出入り口をくぐると、篠原が自邸兼アトリエとして建てた「ハウス イン ヨコハマ」(1985年)のダイニングと書斎が姿を現します。

「ハウス イン ヨコハマ」(1985年)の展示風景
篠原が自邸に招くのは、自分の真の理解者だけだったと言われており、「ハウス イン ヨコハマ」に足を踏み入れたことがある人は限られているそうです。
今回の展示では、ダイニング・書斎の空間と、TOTOギャラリー・間の展示室のサイズがほぼ適合したそうで、1/1スケールのモックアップが実現しました。
3階から中庭を通して、篠原の作品や思想に触れた来場者が、彼の建築を理解し「ハウス イン ヨコハマ」に招かれたというストーリーが見えてくる、巧みな展示構成です。
ここでは、4階の展示室を巡りながら、本展のテーマである「永遠性」について、考えてみましょう。
虚構の空間

篠原一男真筆の「ハウス イン ヨコハマ」(1985)スケッチ
提供:東京科学大学 奥山信一研究室
篠原は雑誌で作品を発表することを重視していましたが、オープンハウスを避け、住宅には限られた人しか招かないという姿勢を貫いたことがひとつの理由だと言えるでしょう。
また、図面、写真、作品解説に至るまで、自分の主張を徹底していたことも大きく関係しています。
写真に関しては、自ら依頼したカメラマンによる写真のみ公開し、無許可での撮影は固く禁じていました。

上原通りの住宅(1976年)© 多木浩二
さらに、多木浩二氏が撮影した「上原通りの住宅」(1976年)の写真を見ると、建築の全体像を伝える目的ではなく、作品の芸術性に重きを置いていることが分かります。
つまり、写真に表れるのは、実態とは異なる虚構の空間だったと言えます。篠原は「虚構の空間を美しく演出したまえ」と主張し、オリジナリティに溢れる写真を雑誌に掲載したことで、多くの人々に影響を与えてきました。
メディアによって「永遠を刻む」という行為も、彼の表現スタイルのひとつだったと言えるでしょう。
過去の自分への問いかけ

篠原一男真筆の「蓼科山地の初等幾何」スケッチ
提供:東京科学大学 奥山信一研究室
本展では、未完の遺作となった「蓼科山地(たてしなやまぢ)の初等幾何(しょうとうきか)」(2006年、計画案)のスケッチも鑑賞できます。
この作品は、篠原と家族の別荘として計画され、アトリエの閉室から10年もの間プランの検討が続けられたそうです。
残念ながら、彼が逝去したためプロジェクトは未完となりましたが、800枚以上のスケッチが残されています。
スケッチを分析すると、昔の作品に使われていた形態をもう一度試したり、まったく新しい曲線を取り入れたりと、試行錯誤していた様子がうかがえます。
アシスタントキュレーターを務める小倉宏志郎氏は、「篠原自身が、自らの過去作や言説に問いかけ、それをもとに新しい作品を展開していたことを象徴している資料だと思います」と話しました。
作り手である篠原自身が、自らの作品と思想に対して常に問いかける姿勢を持ち、変化し続けていたことが、現代建築に影響を与えた大きな要因だと言えるでしょう。
まとめ:考える場としての展覧会

中庭から4階に続く階段に展示された「100の問い」
この記事では、TOTOギャラリー・間「篠原一男 空間に永遠を刻む――生誕百年 100の問い」の展覧会レポートをお届けするとともに、彼の作品と思想が今なお影響を与えている理由を探りました。
社会の動向を鋭く観察し、数多くの作品と言葉を通して自らの主張を発表し続けた篠原一男。
今一度その表現とメッセージに触れることで、「現代の建築のありかたとは?」「未来に何を残すのか?」など、様々な課題を考えるきっかけになる展覧会です。
現代に生き続ける篠原の思想をぜひ会場で体感し、国内外からなぜ注目が集まるのか、その理由と背景に触れてみてくださいね。
《展覧会情報》
「篠原一男 空間に永遠を刻む――生誕百年 100の問い」
会期:2025年4月17日(木)~6月22日(日)
開館時間:11:00~18:00
休館日:月曜・祝日
会場:TOTOギャラリー・間(東京都港区南青山1-24-3 TOTO乃木坂ビル3F)
主催:TOTOギャラリー・間
入場料無料
https://jp.toto.com/gallerma/ex250417/index.htm
《参考文献》
『THE JAPAN ARCHITECT 93号(2014年春号)』株式会社新建築社、2021年(初版:2014年)
文/浜田夏実
アートと文化のライター。武蔵野美術大学 造形学部 芸術文化学科卒業。行政の文化事業を担う組織でバックオフィス業務を担当した後、フリーランスとして独立。「東京芸術祭」の事務局スタッフや文化事業の広報、アーティストのサポートを行う。2024年にライターの活動をスタートし、アーティストへのインタビューや展覧会の取材などを行っている。
note
X
↓PicoN!アプリインストールはこちら