川内倫子インタビュー「いま生きているこの場所を整える」ために
川内倫子さんの事務所を訪れ、話を伺ったのは1月半ばのこと。昨年11月から開催されていた東京オペラシティ アートギャラリーで「川内倫子: M/E 球体の上 無限の連なり」展が好評のうちに終わり、滋賀県立美術館での展示が始まる直前だった。
この巡回展では2010年以降に発表された「4%」、「An interlinking」、「Illuminance(映像)」、「光と影」、「あめつち」、「M/E」、「やまなみ」などの写真と映像のシリーズが出品された。川内さんといえば、あふれる光のもとで、命のはかなさを描写する写真家という印象がある。ひとつのフレームに生の喜びと死の残酷さが同居し、その反復が連なりながらシリーズが構成されている。作品に表されたこの切実な感覚は、世界中で多くの人の心をつかんできた。今回の展示ではさらに、10年の間に川内さんが得た新たな展望が示めされていた。その意思は、展覧会のステートメントで次のように書かれている。
「死に向かうことは止められないが、いま生きているこの場所を整えることはできるだろう」
川内さんはどのように、この認識に達したのだろうか。筆者は、それを聞いてみたいと思った。
新作「M/E」に込めた希望
今回の大規模個展の打診があったのは、開催から1年半ほど前のことだった。その最初の打ち合わせで川内さんは、次のようなアイデアを提示したという。
「小さい部屋を前半にいろいろ作って迷路のようにめぐってもらい、最後に広々とした場所に出るというイメージを伝えました。」
なにか子宮をイメージさせるような構造である。このリクエストを受け、会場のレイアウトを担当した建築家の中山英之さんは、10の展示空間を設計した。その順路は「4%」を展示する小部屋から始まり、「An interlinking」が設置された5mもの高い天井をもった通路を通り、「M/E」を展開する大空間へ至る。そして、途中に「Illuminance」や「あめつち」のための小部屋や、「M/E」の展示室内には半透明のトンネル状の空間を設置したのだった。中山さんは作家がたどってきた時空と、対象を見る眼ざしと観衆の「会場を巡る時間が意識の底で重ね合わされるような経験」を与えることを目指したと『新建築』誌で述べている。
筆者が見事だと思ったのは、空間の高低や遠近を巧みに組み合わせていた点だ。たとえば高所に映像を投影して観客の目線を上げさせておいて、次の小部屋では床に投影した川の流れを撮った映像を見せたりしている。ここで筆者は、足首まで水につかっているような感覚に包まれてしまった。川内さんはこのインスタレーションについて、こう教えてくれた。
「この空間は最後まで悩んだところです。ここでいちど目線を変えたくて、最初から池や川をのぞき込むような、上から見下ろす感じにはしたいと考えていました。水を張るというアイデアもあったんですが管理が難しいだろうということで、最終的には川の映像に決めました。わりと体感型の空間にはなっていたと思います。」
ちなみに川内さんにとって「川」の持つ意味は大きいという。
「以前は多摩川の近くに住んでいたこともありましたし、いまの家は浅い川に対して並行して建てました。せせらぎの音がちょうど良い感じで聞こえてきて、気に入っているんです。常に流れているせせらぎの音は、時の経過を感じます。」
展示に話を戻すと、川内さんは「M/E」の部屋に設えられた半透明のトンネルについて「中山さんが自分の想像を超えたデザインにしてくださった」と評価した。そこはライトボックスに置かれた小さな写真を見るために作られた、178mものポリエステルの生地を折り重ねて作られた空間である。写真から発した光が空間内に柔らかく拡散し、なんともいえない安心感に満ちていた。
「ここは出来るまで分かりませんでした。自分のイメージとして、柔らかく透明なものをと伝えていましたが、構造や素材に関しては完全におまかせしました。結果としては想像を超えた面白さがありました。良い意味で裏切られた感じがします。
自分でやるともっとシンプルになったでしょう。ああいう“ひだ”のような形状の空間は思いつきません。人間の腸のような感じもするし、あの半透明のレイヤーがあることによって、外が見えたり、見えにくかったりというバランスが絶妙なものになりましたね。」
冒頭で触れたように、オペラシティの展示には希望への意思が強く感じられた。そのことを話すと川内さんはこう答えた。
「自分の中でそんなに意識してはいませんでした。ただ新作の部屋については、私自身が希望を感じたかったのではなかったかと思いますし、それが伝わったのかもしれませんね。いま世界でコロナや戦争を初めとして、いろんなことが起きているハードな状況があり、現実を悲観してもという思いがあったのかもしれません。」
アイスランドの地下から始まった新作
この展示で核となっていたのは最新作の「M/E」。そのタイトルにはMother Earth(母なる地球)の頭文字と、一人称代名詞のME(私)とが重ねあわされている。
同作はアイスランドの休火山や北海道の美瑛などの自然と、川内さんの日常の範囲で撮影された写真と映像で構成されていた。川内さんはときに広い視野で風景を眺め、また微細な対象を凝視している。遠近を自由に跳躍するこれらイメージの連なりは、視覚だけではなく、見る者の五感すべてを刺激するようだった。
「M/E」の出発点となったのは、2019年の夏に訪れた、北極圏に位置する火山の島国アイスランドだ。20数年ぶりだという同地への旅に、川内さんは3歳になった娘さんとお母さんを伴っている。では、なぜアイスランドだったのか。
「2016年に娘を出産してから初めて作品に取り組もうと思ったとき、アイスランドが浮かびました。日常との“ふり幅”がほしかったからです。出産前後の2~3年はあまり動けませんでしたし、大自然のなかに身を置きたかったからです。
それまでずっと家にいましたから、よりダイナミックに自分の生を感じたかった。大自然に行くと、自分の小ささが分かるのですが、そういう実感を求めていた。じっさい、アイスランドの休火山の内部にはいったことが『M/E』のきっかけになったんです。」
地底の深くに降り立ったときの感動を、川内さんはエッセイ集『そんなふう』で、「上を見上げると入り口が女性器の形に似ていることに気づいた。まるで地球の胎内にいるような気持ちになり、自分の身体も大自然の一部に溶け込んだように感じた」と書いている。
そしてこの発見から『M/E』は始まるのだが、シリーズの全体像はこの時点でつかんでいたわけではない。どの作品でも、川内さんはいくつもの気になるものを同時に撮り進めるなかで、自分が何を表現しているのかに少しずつ気づいていく。それは、作家としての全キャリアを通しても言えることだという。
「これまでの作品は、すべて最初から結びついてます。2002年の最初の写真集『うたたね』から、自分の中では一歩ずつ外に出てきたのだと思っています。『うたたね』では自分の半径5mくらいの狭い世界を撮り、そこから一歩外に出たのが、さまざまな生き物や出産を撮った2004年の『AILA』でした。その次が2005年、自分自身の家族を被写体にした『Cui Cui』ですが、これは自分にとって一番小さい社会が家族だということも関係しています。そうして少しずつ広がっていき、最新作「M/E」では、自分の住んでいる場所としての地球へと繋がっていったんです。」
この10年あまり、東日本大震災、コロナ禍、ウクライナ戦争などの世界各地の紛争と、私たちは多くの惨劇を体験し目にしている。その影響で、精神を病んでしまったりした人たちも多い。このストレスフルな時代のなかで、川内さんを救ったのは幼い娘の存在だった。
「やはり子どもの存在が大きいと思います。子どもは“生”の塊で、エネルギー量が全然違います。家の中のトーンが全然、明るさが違うんですよ。私自身がすごく助けられて、生に向かっているように思えます。「M/E」の部屋では、そういった思いが表れていたのだと思います。」
子どもの誕生が転機となった
川内さんが子どもを授かったのは43歳、結婚して半年後のことだった。30代後半まで子どもを持ちたいと思ったことはなく、ひたすら仕事に打ち込んできた。だがその年代になって、女性としての「意識下にあった本能」が目覚めたのだと言う。だから結婚するとすぐに不妊治療に取り組んでいる。
「身体的な意味で、女性の場合は男性に比べて一般的な意味では限られている。それを実感したのが30代後半でした。このまま持たない人生なのかと考えたとき、チャレンジしないままでは後悔すると思ったのです。」
出産と子育て。それは母となった女性の喜びとともに、重い負担も強いる。将来を考えて、子どもを持つことをちゅうちょする若い女性は少なくない。川内さんも20代のときはそうだった。
「自分のキャリアを求めていくと、出産や子育てのための時間は少なくなりますよね。子どもを持った時点で、いったん中断してしまう。会社員の方でも、やっぱりたいへんですよね。復帰してもポストがあるかどうかわからない場合もあるでしょうし。私自身もそうしたリスクは高いと感じています。」
とはいえ40歳を超えての出産となると、身体的には強い負荷がかかる。その後の、回復も遅い。
「出産は、交通事故の全治8カ月分くらいのダメージだと聞いてはいたのですが、本当にそれは実感しました。
授乳中はエネルギーを吸い取られていて、妊娠中は分かり易く乗っ取られているような感じでしたね。自分の身体の中に、エイリアンのような何かがいるという感覚がはっきりあった。授乳が終わって1、2カ月たってから、じわじわと復活してきたような感じでした。復帰するまでずいぶん時間がかかりましたが、人によってはもっと長い期間が必要だと思います。」
そして50代になったいま、体力の衰えを実感することも増えた。そのなかで仕事と家事の両立はきついときもあるが、充実感の方が大きいようだ。「家族のために洗濯をしたり、ご飯を作ったりするのは喜び」だと語る。
「作業中でも子どもがしがみついてくるのでたいへんですけど、かわいいですね。それに今だけのことですから。やはり子どもを授かったことは自分にとって大きな転換点で、ものすごく人生が変わりましたね。私自身の価値観は変わっていないかもしれないけど、楽しいと思えることが増えました。それはとてもありがたいと思っています。
一番大きいのは、生きることに対して前向きになれたことです。それまで現実世界で生きることについての喜びが薄かった。」
好きなことを心のより所にしてほしい
川内さんにとって、子どもは被写体でもある。出産後、彼女はすぐにカメラを向けるようになった。ずっと追い続けてきたテーマ、時間の流れや生と死の循環についても馴染みやすい存在なのだ。
その成果のひとつが2020年の写真集『as it is』で、生まれてから3歳までの間に撮られた写真がまとめられている。愛おしさにあふれた写真集だ。それに子どもの目線で、親しい人の死を含めて、自らが体験してきたこの世界と出会いを描き直しているようにも感じられる。
同書には川内さんが書いた詩も掲載されていて、そこに「腕の中にいる小さな人の瞳の中に、縮こまって固くなっているあの日の自分を見る」という印象的な一文がある。自分と娘とを重ね合わせることが、よくあるようだ。
「後ろ姿とか見ていると、自分の小さい時を思い出します。もちろん他の保護者の方々と同じで、この子を守りたいという思いが強いですね。」
幼少期の記憶を、創作活動の重要な動機やモチーフにしている作家は少なくない。川内さんの場合、ことにその比重が大きい。4歳の時に父の事業がうまくいかなくなり、一家で滋賀から大阪に移ったことが喪失体験として強く刻まれているという。
「いったい何が起こったのか分からなかったという、その記憶がいまも強く残っています。みんな小さいときに理不尽なことをいっぱい体験して、それを抱えながら大きくなっていくものだと思います。自分の場合はそこに対してすごく敏感で、いろいろな体験を消化できないままに大きくなってしまった。それがあるから、いま、この仕事をやっている部分もあります。だから娘には、できるだけ自分のような経験は持ってほしくないと思っているんです。」
インタビューの最後として、これからの写真家たちへのエールを聞いた。
「自分の好きなことを見つけるのがいいのではないでしょうか。好きなことを仕事にできなくとも、それをより所にするような人生になっていけば良いんじゃないかな。自分がより所にするものがないと、生きるのがつらくなるんじゃないかと思います。
私は大学時代にグラフィックデザインを専攻したのですが、写真の授業が面白いと感じて写真を始めたんです。卒業するときに、もう少し写真の勉強をしたいと思ったのですが、親に経済的負担をかけたくありませんでした。だから実践で学びながら給料がもらえるというのがベストだと思ってスタジオに入りました。大学の写真の先生がスタジオを紹介してくださって、今でもとても感謝しています。
いま考えればその選択は必然だったと思います。そして、そこを辞めて東京へ行ったのも、勇気がいることでしたがやはり必然でした。そんな学生時代や駆け出しのころ、お世話になった方たちのことは、一生忘れないと思います。」
文・インタビュー:鳥原学
写真:植田真紗美