
【写真学校教師のひとりごと】vol.22 久保木英紀について④
わたし菊池東太は写真家であると同時に、写真学校の教員でもあった。
そのわたしの目の前を通り過ぎていった若手写真家のタマゴやヒナたちをとりあげて、ここで紹介してみたい。
その人たちはわたしの担当するゼミの所属であったり、別のゼミであったり、また学校も別の学校であったりとさまざまである。
これを読んでいる写真を学ぶ学生も作品制作に励んでいるだろうが、時代は違えど彼らの作品や制作に向かう姿が少しでも参考になれば幸いだ。
▼【写真学校教師のひとりごと】 久保木英紀について



久保木英紀の写真展が近づいてきた。6月17日からだ。
次の誕生日で50才だという。人生半ばにして初写真展、すばらしいよ!
2025年「マイホームタウン」 NikonSalon
20代初期にデビュー展をやって、しばらくのブランクの後、再デビュー展をやるというのはときどきあるのだが、今回のこのようなケースは初めてのことだ。
と、述べてきて、ふと自分の言葉にチラリと違和感を感じた。
数回前にとりあげた棚木晴子である。
かの女こそが、卒業後しばらくしてから初個展を開催した、わたしのまわりでは最初の人間だ。
ただ、棚木は在学中に学年総代をやったり、有名作家のもとで写真を扱う仕事をしてきたり、写真の最前線で生きていたので、なにか錯覚していた。
棚木の初個展のときも、最初の展覧会という認識がほとんどなかったのが事実だ。
わたしの感覚がくるっていたのだ。
久保木の話にもどる。
今は写真の最終セレクトをどうしよう、とか仕上げをどうしようとかいろいろ悩んでいるときだと思う。
この悩みは写真展が決まった者の特有の悩み、いってみれば特権みたいなものだ。
後から後悔しないように、今のうちにしっかり悩んどけ!そしてそれを楽しめ!
展示が決まった写真のテーマ性、考え方、撮り方が認められたのだから、その写真を撮ることだ。今しかできないことだと思う。
自分のやっていることに疑いなく、自信をもって取り組めるなんてことは、いつもあることではない。いまだけだ。
いつもほどには迷うことなくフレーミングし、シャッターを押すことができるだろう。
個展のタイトルは「マイホームタウン」。
かれの生まれ故郷ではないが、もの心ついてからずっと住んできた土地だ、そして今も。
茨城県の牛久である。
かといって”心のふるさと”、”心のよりどころ”的なべったりした感じなわけでもないようだ。
久保木はもともとがさっぱりした性格なのである。
かれの写真もけれん味のないさっぱりとした、キレのいい写真といえる。
それが近年ふとしたことでわたしの写真教室に通いだし、そこで今回の写真展、マイホームタウンの原型ともいえる写真を撮りだしたのがきっかけになった。
それは時とともに変化していく町の様子を時間差で追いかけたものだった。
それが今回中途半端で終わらず最後までいけたのは、以前にも述べたように子供へのしつけというか教育が頭の片隅にあったからだ。
途中で放り出すことができなかったのだ。子供の存在というものが、久保木本人のために大きく寄与したのである。
大げさに言えば子供の存在によって、かれは生き方をまっとうすることができたのだ。
でもそういった判断をしたのは久保木本人の人間性だから、今回は間違いなくようやったといえるだろう。
菊池東太
1943年生まれ。出版社勤務の後、フリー。
著作
ヤタヘェ~ナバホインディアン保留地から(佼成出版社)
ジェロニモ追跡(草思社)
大地とともに(小峰書店)
パウワウ アメリカインディアンの世界(新潮社)
二千日回峰行(佼成出版社)
ほか
個展
1981年 砂漠の人びと (ミノルタフォトスペース)
1987年 二千日回峰行 (そごうデパート)
1994年 木造モルタル二階建て (コニカプラザ)
1995年 アメリカンウエスト~ミシシッピの西 (コニカプラザ)
1997年 ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年 (コニカプラザ)
2004年 足尾 (ニコンサロン)
2004年 DESERTSCAPE (コニカミノルタ)
2006年 WATERSCAPE (コニカミノルタ)
2009年 白亜紀の海 (ニコンサロン)
2013年 DESERTSCAPE-2 (コニカミノルタ)
2013年 白亜紀の海2 (ニコンサロン)
2015年 日系アメリカ人強制収容所 (ニコンサロン)
ほか

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