
セバスチャン・サルガド氏のご逝去に寄せて vol.4 – 写真家・鈴木邦弘氏より追悼文
先日、惜しまれつつこの世を去った世界的写真家、セバスチャン・サルガド。本校名誉顧問を務めていただいたご縁のあるサルガド氏への追悼企画といたしまして、今回は本校講師で写真家の鈴木邦弘先生による追悼文を掲載いたします。
文・鈴木邦弘
サルガド夫妻が本校のワークショップのため来日するたびに、不自由のないよう私たち夫婦はアテンドをする立場にいた。そのため、多くの時間を二人と共に過ごした。彼が本校の名誉顧問としてワークショップを行うことをなぜ了解してくれたのか。今でも理由はよくわからないが、ワークショップの講師料のせいではない。もちろん、彼はそういう人ではなかった。
学校の職員と共にパリにある事務所を初めて訪ね、そこで彼らを待つ間に事務所のスタッフが「彼は日本の学校で教えることに興味を持っているわよ。彼宛に毎日たくさんのメールが送られてくるけれど、あなたたちのメールは削除しないように言われてるのよ」と笑顔で耳打ちしてくれた。
その後の初めての顔合わせで、穏やかだが目は笑っていない真剣な表情で私たちをじっと見つめながら「こうやって実際に顔を合わせることは非常に重要だ、メールのやり取りだけでは何も決められない。パリの事務所に来てくれてありがとう」と挨拶を受けた。そして少し間をおいて、想定外の最初の質問が飛び込んできた。「ところで、君たちはなぜ私を選んだのだ」。
私は一瞬戸惑った。そして、彼の眼をじっと見ながら「写真を教えられる世界的写真家はあなた以外にもいるでしょう。しかし、写真以外のことも教えられる世界的写真家はあなた以外にいないと考えたからです」と返答した。彼は私の眼をじっと見ながら大きくうなずいた。
5日間のワークショップの初日は、受講する学生20人の自己紹介から始まった。サルガド夫妻は日本地図を脇に置きながら、学生一人ひとりに出身地や家族構成、親の職業など、私たちスタッフも知らない細かなことを、時間をかけて質問した。セバスチャンは学生たちの返答を聞きながら、まるで被写体を観察するかのような鋭い目で彼ら彼女たちをじっと見つめていた。
結局ワークショップ1日目はこれで終わった。学生たちの写真は一枚も見ていない。授業終了後控室で休息しているときに彼に質問をした。「なぜあんなに時間をかけて学生の自己紹介をやったのか、彼らの写真は見なくてもよかったのか」。彼はゆっくりと真剣な顔で答え始めた。
「クニ(彼は私のことをこう呼んでいた)、どのような人が撮影しても、写真には撮ったその人の歴史、人生が写ってくるのだ。本気で写真を理解しようとするならその撮影者を知ることから始まる。まして今回は、初めて会う写真家を志す若者たちに写真を講義しなければならない。私は彼ら彼女らをまず理解することから講義を始めた。そう、これは学生たちの作品を理解するためには必要なことなのだ」と語るセバスチャンの隣で妻のレリアは微笑みながらうなずいていた。
私は彼の説明を聞きながらあることばを思い出していた。「真のドキュメンタリー写真家はクリエイター(表現者)である前にオブザーバー(観察者)でなければならない」。私の目の前には本物のドキュメンタリー写真家がいた。
2日目、3日目と学生たちの作品を見ながら二人は様々な感想やアドバイスを学生たちにしていた。セバスチャンは、撮影に関しての現場での対応の仕方、構図のとり方、撮影技術の問題など彼自身の経験をもとに写真家としての行動のあり方を、レリア(彼女はセバスチャンの写真集や展示の編集、構成を全て行っていた)は写真のシークエンス(並べる順番)やストーリーの作り方、並んだ写真の作品としての全体性の維持の仕方など構成、編集についてそれぞれの学生に説明していた。
3日目の終了後、レリアが不満そうな表情でセバスチャンに何かを真剣に語っていた。彼は彼女の言葉を一言も聞き逃さないような、それこそワークショップを受ける学生のように、彼女の一言一言をうなずきながら聞いていた。翌日の朝、講義が始まる前にレリアは私たちに教えてくれた。
「昨日の講義でセバスチャンに作品について厳しいことを言われて、終わった後に教室から出て泣いていた女の子がいたでしょう。後で彼に言ったのよ。作品について厳しいことを言うのは構わないけれど言い方を考えなさいよと。彼女は傷ついたと思うのよ。心を傷つけないような言い方を考えながらアドバイスするのも教える人の責任よと、彼は理解してくれたみたい」。
このやり取りを聞いて、セバスチャン・サルガドという偉大な写真家は、決して彼一人の力で誕生したわけではない、レリアというパートナーの存在の大きさを垣間見たような気がした。
サルガド夫妻は一週間のワークショップ、講演会の日程を終え、東京近郊の温泉に宿泊していた。ご夫婦は以前来日した時に温泉に行き大好きになっていた。旅館に着くとすぐにお風呂に入った。セバスチャンは湯船につかりながら「オー」と気持ちよさそうな声を上げていた。私も彼を横目で見ながら温泉を楽しんでいた。
セバスチャンはしばらくすると湯船から上がり、床にタオルを敷いていきなり横になり目をつぶって寝始めた。私は湯船から出たり入ったりを繰り返し、彼は寝たり入ったりを繰り返していた。風呂場から部屋に戻りしばらく横になり休息、そして夕食のための別室に行った。
テーブルにはすごい量の料理が並んでいた。サルガド夫妻もその量に驚いていた。ワークショップの話や最近の日本社会の話など様々なことを話しながら食事を楽しんだ。食事も終わり部屋に戻るときに彼が「クニ、今日の試合は何時から放送するのか」と尋ねてきたので、夜中の 1 時ぐらいだと思うよと答えると、彼らは「OK」と言って部屋にもどっていった。
夜中に隣の部屋から「ウォー」という大声が聞こえてきた。この日はドイツで、サッカーのブラジル vs 日本の公式戦が行われていた。当然ブラジル人の彼らはサッカーが大好きだ。私たちにとってもそれは大注目の試合だった。隣の部屋の大声が聞こえた瞬間に私も大声を上げていた。なんと、日本チームが先取点をとった瞬間だった。
その後試合は一進一退を繰り返し、結局引き分けで終わった。日本チームにとっては大善戦だった。
翌日の朝食のときに彼はにこにこしながら昨日の試合の話を始めた。
「日本は良い試合をした、ブラジルチームが負けるんじゃないかと一瞬不安になったよ、日本はすごく良いチームになったじゃないか」とほめていた。そして、「ブラジルはもっと強くならなければだめだ」と話をつづけた。
ブラジルがもっと強くなるためにはどうしたら良いと思うかと彼に聞いてみた。すると彼は真剣な顔で「それはなかなか難しい質問だね、クニ。当然私はサッカーの専門家じゃないから細かいことはわからないし、説明もできない。ただ素人の私でも今言えることがひとつだけある、ブラジルチームの監督にしたい人を日本チームがとっちゃったから彼を奪い返すことだね」。「えっ、ジーコを(この時の日本代表監督はジーコだった)」と私が反射的に答えると、彼はニヤニヤしながらうなずいていた。この時は、さすがのサルガドもサッカー大好きなブラジルのおじさんの顔をしていた。
彼が亡くなった今、私の中で彼らと一緒に過ごした時間がとめどもなく思い出される。取り留めのないことを書いてしまったが、私にとってセバスチャン・サルガドとは、偉大な写真家であると同時に気さくで陽気なサッカーと音楽が大好きなブラジルのおじさんという印象だ。
「写真とは世界を良くするために、多くの人たちに様々な物事を考えてもらうきっかけのようなものだ」と生前、彼は語っていた。
自分の世界観と価値観にゆるぎない自信とこだわりを持ち、写真を通して私たちに彼の思想、哲学を伝えてくれた。彼は写真家というより思想家だった。
私の中では、私が運転する車の後部座席に夫婦で座り、車内に響くカルトゥーラ(ブラジルで有名なサンバ歌手)の歌声に合わせながら楽しそうにサンバを歌うふたりの姿が思い浮かんでいる。
鈴木邦弘
1985年日本写真芸術専門学校2部報道科に入学し写真を学ぶ。卒業後はフリーカメラマンとして雑誌などの仕事に従事する。コンゴ共和国の熱帯雨林に暮らす狩猟採集民ピグミーの撮影や、旧ユーゴスラビアを内戦の停戦6か月後に訪れ、各地の難民キャンプで難民の撮影と内戦の跡を撮影して回るなど、世界の様々な国々、地域、様々な人々を撮影している。