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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.41 「瞬間と永遠」一人の作家に惚れ込んだ、写真家高橋昇の生涯 開高健 著 ;高橋曻 写真『オーパ!』(集英社 1978年) 鳥原学

生涯にわたって尊敬できる師を得られたなら、それは幸福な人である。
写真家・高橋曻が敬愛し続けた師は、博学多才の小説家にして釣り師の開高健である。
アマゾンに始まる二人の長い旅が終わったとき、写真家は自分自身を見つめるための新しい旅に出ることになった。

 

「オーパ!」の旅

1976年の厳冬、高橋曻は『月刊PLAYBOY・日本版』の副編集長に伴われ、銀座の小料理屋で初めて開高健に会った。文壇を代表する小説家と対面して緊張する高橋に、開高は早口の関西弁でたて続けに問いかけたという。

「きみは何でも食えるか?」「どこでも眠れるか?」「独身か?」「助平か?」

高橋はすべてに「はい」と答えたが、外国の魚釣りの写真集を見せられ「魚がルアーを咥えてジャンプした瞬間を撮れるか?」と聞かれると、間をおいて「約束はできませんが、やってみます」とだけ答えた。その正直なところが気に入ったのか、小説家はその場で高橋を新連載のパートナーに即決した。このとき高橋は26歳、篠山紀信の下から独立して1年ほどしか経っていない。まだ駆け出しの写真家にとって、望外の大抜擢だったのである。

何しろこの仕事はスケールがけた違いに大きい。世界最大のアマゾン川で世界最大の淡水魚ピラルクーをルアーで釣り上げることを目玉として、2か月間でおよそ1万6千㎞を旅するという計画なのだ。「紀行」というより、むしろ「探検」というに相応しかった。

初対面から準備に1年以上を費やし、開高・高橋を含む4人の取材班がアマゾンに入ったのは、翌年の8月であった。しかし、自然も人の営みも、何もかもが予想を遥かに超えていた。なにより連載の主役となる魚たちが、姿も生態も極めてユニークなのである。良く知られている肉食のピラーニャ(いわゆるピラニア)をはじめ、黄金に輝く巨大魚のドラド、そして最大で体長3mたっするピラルクーと役者が揃っていた。

釣り師たる作家はこれらの怪魚と格闘し、アマゾン川流域の自然と暮らしをその舌と身体そのもので堪能しつつ、やがて連載のタイトルを「オーパ!」と決める。ブラジルの公用語であるポルトガル語の感嘆詞「OPA」に由来するもので、開高は連載にあたってまず次の一文を置いた。

「何事であれ、プラジルでは驚いたり感嘆したりするとき、『オーパ!』という」

もちろん高橋にとってもこの旅は「オーパ!」の連続だったが、カメラマンが驚いてばかりはいられない。作家と約束したとおりに、魚がジャンプする瞬間と作家の表情をおさえる必要がある。加えて、目にしたあらゆる「オーパ!」記録しなければならないのである。

高橋は、修理が不可能な環境に備えて機材を大量に準備していた。計6台の一眼レフのボデイと十数本の交換レンズ、700本ものフィルムである。そんな過酷な状況で、高橋は冷静さを保つのと同時に、‶アマゾンを撮り尽くしてやる。″という情熱を燃やしながらファインダーを数か月も覗き続けたのである。

 

開高健とニ人の写真家

「オーパ!」は1978年の『月刊PLAYBOY・日本版』2月から9月号まで連載され、読者の圧倒的な人気を集めた。翌年発売された単行本は、なんと10万部を超えるベストセラーとなった。

この成功が、若い写真家にどれほどの社会的評価と自信を与えたことか。高橋曻は第4回の木村伊兵衛写真賞の最終選考まで残り、かつてそのもとで修業した篠山から「これからはライバルだ」と言われたという。

しかし、どんな賞や栄誉よりも、開高健という人間を知ったことに勝るものはなかった。旅を共にする中で、高橋はまず作家の博覧強記ぶりに驚き、好奇心の強さに圧倒された。歴史、文学、恋愛、戦争、美食、そして釣り。さまざまな分野に深く通じ、それを絶妙なユーモアにくるんで吐き出される言葉は、そのまま文章に起こせるほど筋が通り、きわめて魅力的だった。ただ、この饒舌さの背後には何か癒しがたい鬱屈が感じられた。その鬱屈を埋めるように激しく行動する作家に、高橋は本物の“男”を感じ、心底から開高に惚れた。それは崇拝というレベルにまで及んだようである。

そんな高橋にとって、嫉妬に近い感情を抱いた写真家が、ただ一人だけいた。開高が敬意を込めて「秋元キャパ」と呼ぶ、朝日新聞社の出版写真部に所属した名カメラマンの秋元啓一だった。開高と高橋の関係性は「師弟」だが、開高と秋元は生死をともにした「同志」だったのである

開高と秋元の絆が生まれたのは『週刊朝日』の特派員として、訪れたベトナム戦の取材においてであった。初めてコンビを組んだ二人は息が合い、前線取材にも出かけた。とくに1965年2月14日の戦闘では、まさに生死をともにしている。同行したアメリカ軍の大隊が敵に包囲され、200人中17人しか生き残らないという激戦に遭遇、なんとか命からがら逃げ切ることができた。その姿は、互いの撮り合った写真に残されている。木に持たれて放心しきった開高の表情が、ことの次第を全て物語っている。

さらに、それから4年を経て、このコンビは『週刊朝日』で「フィッシュ・オン」の連載を開始している。 ルアー釣りの楽しみを覚えたばかりの開高が秋元と二人で世界各地を回り、ときに戦場を取材し、ときに釣りを試みるという企画である。文中、開高は秋元を「閣下」と、秋元は開高を「殿下」と呼び、楽しいかけ合いが続く。何より開高の素の表情を捉えた秋元の写真がその関係をよく物語っている。

秋元が「オーパ!」に参加することを望んだ開高だが、事情で参加できないと知ると、抜擢した高橋を出発前に秋元に引き合わせることにした。作家をどう撮ればいいのかと尋ねる後輩に、秋元は「自然流が一番」と答えたが、秋元と高橋とでは関係性が違っている。高橋が「オーパ!」にかけた情熱の裏には、彼なりの方法で秋元の仕事を超えてやるという強い動機もあったのだった。

 

旅の終わりにモンゴルで

「オーパ!」の成功によって、開高と高橋による師弟の旅は、断続的に続けられた。1982年から1988年までは続編として「オーパ、オーパ!!」が連載され、旅先は遥かに広がる。アラスカ、カリフォルニア、コスタリカ、カナダ、スリランカ、中国、モスクワ、パリ、ニューヨーク、モンゴルと、計11か国に及んだ。

この間、開高は50代半ばになり、高橋も40歳に手が届く歳になっている。頭から毛がさっぱりと消えた高橋を、開高は親しみを込めて「海坊主(シーボウズ)」と呼んでからかいながら、全幅の信頼と愛情とを注いだ。あるときなど、こういって高橋を「ぶっ飛ぶ」ほど感激させたりもしている。

「中国語には同甘同苦(どうかんどうく)という言葉がある。『辛いときも楽しい日を過ごすのは君とだけ』っていう意味や。君ともそういきたいもんやな。たよりにしてまっせ」

一方の高橋の開高に対する敬意、それは写真を見ればよく理解できるはずである。かつて秋元は「自然流が一番」と言ったが、開高に心酔する高橋は、人生を楽しむ達人として作家の風貌を捉えているのである。それは愛情表現でもあるが、作家も自らすすんで演じているものでもあったはずだ。撮る者と撮られる者との呼吸が、絶妙の域に達しているのである。今も知られる開高健の、時代を超えたビジュアルイメージは、この二人の関係性から生まれたといえるはずである。

ところが、ただ一点だけそれらと質の違う写真がある。それはアラスカで何日も嵐が続いき、釣りに出られなかったある日々に撮られた写真である。ふと高橋が開高の部屋を尋ねると作家は窓越しに蒼黒いベーリング海をただ見つめていた。高橋はそこに得体の知れない孤独を感じ、一瞬迷った後、シャッターを切った。「撮ったな!」気づいた開高は振り向きざまに一喝したが、その顔にはいつもの明るさがなかった。

高橋が開高との旅で撮った写真はフィルム5,500本分、カット数にして12万にも及んでいる。このうち作家の素の表情を捉えているのは、窓からの逆光で表情がシルエットとなったこの一枚のみでだという。しかも、それが高橋にとって最も大切な一枚となった。

二人の旅はモンゴルで幕を下ろすことになる。最初に同地を訪ねたのは、開高と出会って丸10年が経った1986年。テレビのドキュメンタリー番組のロケで、幻の魚といわれるイトウを釣り上げることが目的だった。やがてこの地で作家は、チンギス・ハーンの墳墓を探すというロマンに目覚め、その後も渡航を重ねることになる。もちろんそのつど高橋も同行した。高橋は、この空と草原以外に何もない広大なモンゴル高原こそ、どの土地よりも最も開高に似合うと思った。

それは橋自身にも言えることだったが、茫漠とした風景と極めてシンプルな遊牧民の生活に高橋が見たのは、歴史のロマンではなく自らの原風景である。満州から引き揚げてきた北海道のごく貧しい農家に生まれた高橋は、少年時代に育った大地の「何もない素晴らしさ」を思い出した。

開高との長い旅は、彼に極上の体験をもたらしてくれた。ただ気づいてみると、ふと、自分は何者なのかと考えるようになっていた。高橋はそれを写真家としてしつかりと確かめようと思ったのだった。

 

「一瞬がすべて、すべてが一瞬」

1989年12月9日に開高健が58歳でこの世を去った。悲しみにくれ、廃人のように過ごす高橋に、ある知人が「ほんとうの独り立ちの時期がきたんだ」と語りかけた。この言葉に気づくところがあった高橋は、開高の思い出を抱きながら、今度は自らのテーマに全力を注ぎ始めた。それはモンゴルで感じた自らのアイデンティティーを確かめることであり、その根底にある、日本の伝統文化や民族性をテーマとすることだった。

じつは高橋は、20代半ばから十数年間、建設会社日本国土開発が発行する冊子『明日への遺産シリーズ』 の仕事で日本の伝統建築を撮っていた。1986年にはそれらを写真集『人海 日本の普請』 ‎ (阪急コミュニケーションズ)にまとめている。描写力に優れた大型カメラを使って陰影を美しく描き、対象の持つ歴史的な奧深さを表現した写真集である。高橋の写真家としての本領は、 魚の動きをねじ伏せた「オーパ!」シリーズだけでなく、こうした仕事のうちにも見出されよう。

高橋はこのシリーズを発展させようと日本中を旅した。遺跡や神社などを巡る「聖域」、各地の伝統職人など和の文化を訪ねる「不思議の国『にっぽん』」などを月刊誌『潮』(潮出版)に連載。能や歌舞伎などの舞台撮影にも取り組むようになった。さらに50代半ばを過ぎるころから、こうした仕事の集大成として『古事記』の作品化を構想するようになっている。

ところが、開高健の享年と同じ58歳になった2007年の6月、高橋は体の不調を訴えた。診察の結果、悪性腫瘍だと判明すると、病状の進行は驚くほど速かった。3か月後の9月3日にこの世を去ってしまうのである。遺族によれば、この日、かねてよりの望みだった撮影を控えていた高橋は、最後の気力を振り絞って一旦は現場に赴くという執念を見せたという。写真家としての使命感を、最後まで燃やし尽くしたのだった。

敬愛した作家と同じ墓所に建てられた高橋の墓には、彼が好んだ言葉が刻まれている。

「一瞬がすべて、すべてが一瞬」

デビューと同時に生涯の師と巡り会い、なすべき仕事をなして駆け足のように去った写真家。その充実した人生を凝縮した、見事に鮮やかな一文ではないか。

 

高橋曻(たかはし・のぼる)

1949年北海道生まれ。日本写真専門学校を卒業後、六本木スタジオに勤務。1975年に篠山紀信のアシスタントを経て独立。1977年より開高健の取材に同行し、共著『オーパ!』『オーパ、オーパ!!』出版。主な写真集・著書に『人海 日本の普請』『男、が、いた。開高健』『開高健夢駆ける草原』などがある。2007年死去。

参考文献

開高健・高橋曻(撮影)『開高健の旅、神とともに行け。』(集英社 1990年)
高橋曻『男、が、いた。開高健』(小学館 2004年)
『しゃりばり』(北海道開発問題研究調査会)1998年200号~2007年306号 高橋曻「一瞬がすべて すべてが一瞬」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)2007年12月号 椎名誠「シーナの写真日記177 写真家、高橋曻の追悼」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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