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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.44 ‶普通″の若者とは何かを問う 橋口譲二『十七歳の地図』1988年、文藝春秋 鳥原学

『十七歳の地図』は、撮る者と撮られる者が真正面から向き合うポートレート写真集である。シンプルでありながら驚くほど雄弁に、1980年代の若者たちの多様な個性と、その時代の気配を描き出していた。イメージはあくまで静謐だが、「平均的な日本の若者像」という固定観念を覆し、同世代の読者に希望と確信をもたらしたのである。

 

眼差しの交換

橋口譲二の仕事を見ていると、人間関係を一番深いところで支えているのは、人間同士の眼差しの交換であることに気づかされる。特に1988年の写真集『十七歳の地図』から始まり、『Father』、『Couple』、『夢』、『職1991~1995』、『17歳 2001―2006』に至る、約20年に及ぶポートレートの連作はそれを強く実感させる。

高齢者を撮った『夢』を別にすれば、それぞれのテーマはすべてその書名から読み取れるだろう。たとえば『Father』なら父親たち、『Couple』なら恋愛関係にある二人が登場する。いずれの写真も、典型的なタイポロジーの手法で撮影されている。

やや引いた一定の距離を保ち、彼らが暮らしている地域や職場、ときに自室など、被写体が過ごしている普段の環境が見えるように撮影されている。突き放すことも、感情を過度に寄せることもなく、向き合うその姿勢はまるで一種の観察のようにも思われる。だがカメラを見返す眼差しの強さに、一方的ではない、写真家と被写体の繋がりが感じられるのである。

こうした表現を貫くために、橋口はストイックなまでに同じ手順を踏んできた。出会いを求めて日本全国をくまなく巡り、撮影対象を見つけるところからすでに制作は始まっている。対象から承諾が得られると、どの相手にもいくつか共通の質問をし、じっくりと話を聞き取る。そのため、シャッターを切るまでかなりの時間がかかることもあるという。そして、このように写された写真は、区別せずみな写真集に収録するのである。

写真はもちろんだが、このシリーズに深みを与えているのは、隣に掲載される質問に対する回答や対話である。これによって漠然とした人物像ではなく、社会的なディテールを伴って、その人物の典型性と個性とがともに浮かび上がってくるのである。そしてこの多様さが1冊に集められるとき、その時代の風景は立体的に見え始めるのである。

20年以上もこのスタイルで続けられたシリーズの中でも、最初の『十七歳の地図』が与えたインパクトは、とても大きかった。本書には、北は礼文島から南は与那国島まで、日本全国の17歳の若者102名の肖像が収められている。なかには、すでに明確な将来の目標に向かって歩き出している者も登場するが、どこにでもいそうな普通の高校生の方が多い。美しくも醜くもない、等身大の17歳たち。しかし、写された彼らの存在感の強さは衝撃的でさえあった。

演劇評論家の長谷部浩は、本書を初めて目にしたとき「私の分身があたかも列島のすみずみにばらまかれている錯覚に陥った」と振り返っている。これは筆者の印象とまったく同じだ。 いや、当時の、多くの若い読者たちが同様の感想を持っていたはずだと、確信を持って言える。

何より、それが衝撃と形容され得るのは、すでに評価を持った38歳の写真家とごく普通の17歳の若者たちが、対等な存在として向き合ったという事実による。自分たちの個性にそのように眼差しを向けられる価値があることを、彼らも長谷部も私も、橋口の写真によって初めて気づかされたからだ。

 

『視線』

橋ロ譲二は1949年に鹿児島市の外れの村で生まれている。現在はすっかりべッドタウンとなっているが、当時は半農半漁で生活を営む素朴な地域だった。鹿児島はもともと上下関係には厳しい土地柄として知られ鵜が、そのぶん周囲の年長者たちの面倒見もよかった。 橋口は小学校6年で父を亡くしているが、その家族を近隣の人々がよく気にかけてくれた。その親密な関係は、その後も長く続いている。

やがて中学や高校時代になると、橋口はビートルズを聴きながら、テニスに明け暮れた。だが1968年に大学に入ると、そんな毎日への疑問が芽生えたという。ちょうど反戦運動や学園紛争が盛り上がりを見せていた年であった。同世代が社会に対して異議申立てをしている状況を遠くで見ながら、「時代に取り残されてしまう」ことへの焦燥や「何年か後の自分が見えてしまう」 ことの恐怖を強く感じた。橋口は一人でひどく悩むようになり、結局、入学から数か月で大学を辞め、東京へ行こうと決めた。「今、自分の時代を自分の手で触り、手垢をつけたいと僕は強く思った」と、そのときの決意を著書『まゆみさん物語』で振り返っている。

翌春、橋口は上京して写真学校へ入る。といっても、はっきりと写真に関心があったわけではなく、写真は、周囲を安心させるための名目でしかなかった。目標などまだ定かではなく、だから20代前半の数年間はもっぱら旅に費やされた。当時はヒッピーたちのネットワークが機能しており、 日本各地に受け入れ先があった。少ない費用で長く旅を続けることができたという。

写真に本気で取り組むきっかけも、そんな旅で得ている。南西諸島に属するトカラ列島のヒッピー・コミューンに滞在していたとき、取材に来ていた写真家の渡辺眸を知り、刺激を受けたのだ。東大闘争を学生側から撮ったこの写真家と接し、橋口ははじめて写真で社会を見つめる糸口をつかんだ。進むべき道を見出してからの行動は早く、東京に戻ると、すぐに総合誌の編集部に自分を売り込んでまわった。もちろん取材の実績などなかったが、幸運にも『文藝春秋』から旅のルポを任された。かつて訪れた知床の漁村を取材。初のフォトルポ「知床相泊の冬」が掲載されたのは1980年7月号で、ここから写真家としてのキャリアが始まった。

そして翌年、橋口は若手ドキュメンタリー写真家の登竜門と言われた太陽賞を「視線」で受賞し、注目された。新宿や原宿にたむろするツッパリたち、あるいは右翼団体に加わった若者たちを率直に見つめたポートレートである。どこかあどけなさも残る顔つきの彼らだが、カメラを見返す眼差しは一様に硬くて鋭い。橋口は写真に次のような文を添えている。

「自分達が、彼らを見ている様に、彼らもまた自分達を、見続けてきているにちがいない。 何かをうったえ、叫び続けている様でもある。今まで、だれもが、その狂気を、受けとめようとしなかった気がする」

それは切実な問題提起ではあったが、審査員のひとり、作家の五木寛之はこの文について「みずからが写しとったものが何であるかを本当はわかっていないことを示している」と手厳しく指摘した。写真家は対象を十分に意識化できておらず、そゆえ彼らを「受け止め」られてもいないのだと。最近この五木の言葉を読み返し、やっとその意味がわかるようになった。取材時に、橋口はそう語っている。

 

個人と社会

荒れる若者たちに関心を持ったのは、橋口自身が、ドロップアウトした経験を持っていたからだ。ただ、そんな状態でも、当時は不安に思わなかったとも語っている。そこには温かく見守ってくれる周囲の存在があったからだ。上京を決めるまでの懊悩を見守ってくれた母や、折に触れて郷里から米を届けてくれる同郷の仲間もいた。どこか遠くから静かに見てくれている存在は、それだけでひとつのセーフティーネットになる。

しかし1970年代後半から、そっと若者を見守るようなゆとりが地域や社会全体から急速に失われ始めたと、橋口は感じていた。新宿などの繁華街に、若いツッパリたちの姿が目立つようになったのもその頃だった。橋口の10代とは、何かが大きく変わっているように思えたのである。

当時を振り返ると、学生運動の反動もあって、全国の公立校では規律を重視する管理教育と偏差値による生徒の階層化が進んでいた。生活指導に従わない生徒に、体罰が加えられることも少なくなかった。当然この管理体制に適応できず、家にも学校にも居場所を見つけられない子どもたちがいる。彼らは荒れ、なかには校内暴力で教師に反抗し、暴走族に加わり、家庭内暴力をふるう者もいた。こうした問題は表面化し、メディアでもクローズアップされている。だが、その取り上げ方が興味本位なことも多く、マスメディアが暴力的な衝突に拍車をかけていた部分もあった。

豊かになった日本の社会もそこに暮らす個人も、どこに向かおうとしているのか。橋口にとってそれを記録し、社会に間い直す第一歩が太陽賞受賞作「視線」だったのである。1981年の『世界』7月号には、それまで気づかずにいたことの自戒も込めて次のように書いている。

「今迄、気がつかなかったのか、それとも自分達(社会)が急ぎすぎて、時の流れの中に彼らを忘れてきたのだろうか。今度は、彼らといっしょにのる前に、彼らを正視する事から、自分の仕事は始まった」

以降の数年間、橋口は荒れる若者たちをひたすら追った。1981年にはNHKと海外テレビ局との共同制作番組『十代の反乱』に参加したのを機に、ロンドン、ニューヨーク、西ベルリンの少年たちを取材。翌年にはその写真まとめ、写真集『俺たち、どこにもいられない 荒れる世界の十代』(草思社)を出版して反響を呼んだ。ことにベルリン取材は彼にとって衝撃的で、東西ドイツの統一を経て現在まで続き、近現代史の証言としての厚みを持つまでになっている。

なによりこの体験が、17歳に出会う旅に繋がっている。なぜなら東西冷戦の真空地帯のような都市で出会った若者たちは、圧倒的に自由だったが、その自由の中で方向性を見失い溺れていく者も少なくなかったのだ。この異文化体験が、橋口に再び日本人としての自分を問い直す必要を感じさせたのである。

17歳あるいは十代後半とは、大人でも子どもでもないが、生き方を左右する最初の判断を求められる微妙な年齢である。迷いや間違いを含めて、それぞれの等身大の個性を見ることで、日本社会の現状と行く末が浮かび上がるのではないか。多くの少年と出会ってきた中で得たこの直感に従い橋口は進んだ。

やがて写真集をまとめるにあたり、アメリカの小説家ボブ・グリーンの『十七歳 1964春』が同じ出版社から刊行されることが決まっていたため、それに関連して書名は『十七歳』とする予定だったが、最終的には『十七歳の地図』に決まった。これは1983年にヒットした尾崎豊の楽曲のタイトルと同じである。もちろん尾崎本人に連絡を取り、その同意を得ている。橋口はデビュー以前から尾崎に注目しており、17歳の揺れる心情を表現し切ったこの歌には普遍的な思春期の心情を感じていたのだった。

こうして『十七歳の地図』が刊行され、若者たちから強い支持を得た後も、橋口は本書にこだわってきた。2000年には、本書で出会った人を再び訪ねた『17歳の軌跡』を出版。2007年には、プリントのトーンも見直し、タイトルも当初予定していた『17歳』に戻した新装版を刊行した。

これらの写真集を見ていると、印刷の精度も含めてさらに洗練され、完成度は大きく高められていることが分かる。だがそれでも、 筆者は1988年に刊行された初版に惹かれてやまない。それはあの衝撃が蘇るからだ。名作とはそうした初見の感情とともに、個々の人の記憶に留められた作品を指すのかもしれない。

 

橋口譲二(はしぐち・じょうじ)

1949年鹿児島県生まれ。1981年、路上に集まる若者をとらえた「視線」でデビュー。同作で太陽賞を受賞。『十七歳の地図』『Father』『Couple』『職1991~1995』『夢』『子供たちの時間』など、ポートレートと短いインタビューを組み合わせて多くの作品を発表。日本写真協会賞年度賞、東川賞国内作家賞を受賞。2016年には『ひとりの記憶 海の向こうの戦争と、生き抜いた人たち』を上梓している。

参考文献

橋口譲二『俺たち、どこにもいられない 荒れる世界の十代』(草思社 1982年)
『まゆみさん物語:自由と個人とぼくらの責任』(情報センター出版局 1987年)
『太陽』(平凡社)1981年7月号 「第18回太陽賞発表 橋口譲二 視線」
『世界』(岩波書店)1981年7月号 橋口譲二「乾いた視線の向こうに―十代を撮リ続けて」
『婦人公論』(中央公論社)1992年5月号 橋口譲二「17歳 親からいちばん遠い時」
『世界』(岩波書店)橋口譲二「「尾崎豊の時代」の憂鬱」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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