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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.48 海の王者シャチの家族をめぐって 水口博也『オルカアゲイン』 鳥原学

巨大な海洋生物を目の当たりにしてみたい。そんな少年時代の夢を、水口博也は写真家として叶えた。しかもそこには新たな表現への模索があった。科学的な知識と観察をもとに“海のギャング”として恐れられたシャチの家族の物語を、鮮やかに描き出したのである。

 

シャチが教えてくれたこと

人間の自然観は時代の変化に応じて更新されてきたし、またそうあるべきものだ。その変化を促すのは、常に科学的な観察の結果を、人の心に訴える物語に昇華できる表現者であった。写真家であり科学ジャーナリストでもある水口博也の著作を目にすると、その思いを強くする。

ことにライフワークであるクジラやシャチをテーマとした仕事は、彼らのイメージを大きく変えてきた。かつてクジラは戦後の日本人の食生活を支えた「食料資源」であり、シャチといえば肉食の凶暴な「海のギャング」と見なされてきた。水口はその存在をよりフレンドリーな存在として私たちの身近に引き寄せたのである。

ことにシャチに関しての仕事は印象的だ。最初の成果は、1988年に出版されたノンフィクション『オルカ海の王シャチと風の物語』だった。本書はカナダ西岸、バンクーバー島北部のジョンストン海峡に棲息するシャチの群れを、1982年から5年間にわたって観察した日々が綴られている。 60歳を超えるメスの 「ニコラ」とその家族の暮らしを軸に、シャチが地域の人々の生活や宗教文化に与えてきた影響にまで、記述は及んでいる。最も深い印象を与えるのは、巨体との直接的な触れ合いについての描写である。その感動的な場面の中で、 人類が辿らなかった、別の進化の可能性さえ水口は見ているからである。

3年後に出版された『オルカアゲイン』は、前著の出版から2年を経て撮影された、後日談に位置する写真集である。ここで水口は彼らの美しいフォルムと、驚くべき知性を私たちの視覚に見せつけている。緑深い森林をバックに、盛大に潮を噴き上げ、その巨体で海面高くジャンプするダイナミックさ。あるいは「ウインド・サーフィンと戯れるように」寄り添ったりするときの微笑ましさ。自然科学者としての正確な観察眼の中に、対象への愛おしさが溢れているのである。

ところがその一方で、本書には前著にはなかった暗い影が落ちている。2年の間に、多くのホエールウォッチャーたちがこの海峡に押し寄せ、シャチの生活が妨げられようとしていたのだ。時代が足早に変わったことを悟った水口は、自身を含めて「観察者の自制」が必要だと感じた。 その深刻さを明確にするため、あとがきに「(本書は) 9年間親しんできたシャチたちへの留別(りゅうべつ)の書になってしまった」と書いた。留別とは旅立つ者が、そこに残る人々に別れを告げることである。

実際、その後の事態は懸念どおりになった。あの当時、すでに水口は理性的に現状をつかみ、 自然環境に果たすべき人間の役割を見通していたのだ。その先見性は、どのような経験で培われたのだろうか。

 

自然観察に明け暮れた日々

水口は、2011年5月28日付の自身のプログに「写真を撮ること、撮らないこと」と題した記事をアップしている。そこで過去を振り返り、自分がクジラを撮影し始めたころはその生態写真が少なく、それゆえ「出版物に使うことで啓蒙あるいは教育的な意味をもたらしうる」と考えていたと明かしている。だが、いまや写真は溢れており、よほど新しい認識や表現でなければ写真を撮ることにもはや意味はないとし、これからは「明確な意図をもって撮影しない限り、ただの道楽でしかなくなってしまいます」と警鐘を鳴らした。

確かに、1953年生まれである水口の少年期には、クジラやシャチだけでなく、水中写真そのものがまだ珍しかった。そんな時代に、海の生物に関心を持ったのは、環境によるところが大きい。生まれ育ったのは大阪市内だが、両親の実家は太平洋に面した漁師町、いまも古い町並みが保存されている徳島県の日和佐町(現在は美波町日和佐地区)だった。毎夏、母の実家で夏を過ごすうちに海の生物に興味を持ったのだ。ことに早朝の大浜海岸で見たアカウミガメの産卵は、忘れられない記憶になっている。

理科の教師だった父の影響もある。書棚にあった科学百科でクジラへの興味が芽生えたのだ。ことに史上最大の哺乳動物、体長30メートルに達するシロナガスクジラの項目は強いインパクトを与えた。だが当時としてシロナガスクジラといえば、日本人が目にできたのは、捕鯨船上で撮られた自重でひしやげた姿ばかりである。水口は、あの巨体が海中をいきいきと泳ぐ様子を見たいと思った。

図鑑を眺める一方、父の顕微鏡での観察にも夢中になった。家の庭にあった小さな池の水をすくい、プランクトンやミジンコなど、小さな生命の活動に目を凝らした。それがあまりに楽しく、ついに幼稚園に行くのを止めてしまったほどだったという。

小学校に上がり、水中メガネでの観察を覚えると、長く水中に留まる方法を試した。息を止めるだけでなく、長いホースをくわえたり、空気で膨らませたビニールを抱えて潜ったりした。当然のように失敗したが、それらは命に関わる危険な行為だと知ったのはその後のことだった。

この当時、水口の自然観察の対象は、もっぱら干潮時に現れる潮だまりの小さな生物たちだった。写真を始めたのも、それを記録するためであった。最初は父が持っていた簡素なカメラを使っていたが、中学のときにミランダの一眼レフを手に入れた。

初の本格的なカメラだったが、接写用のマクロレンズなどはまだ一般的には手に入らない時代である。海中の小さな生物を写すには、かなりの工夫が必要だった。幸い、カメラマニアの叔父がカメラやレンズの原理、それに撮り方を理論的に教えてくれた。その助言をもとにボール紙で長い鏡筒を作って接写を可能にしたり、さらにハウジングなども自作したりして撮影に成功している。その楽しさも、さらに写真に取り組む力になったのに違いない。

テレビでアクアラングの開発者であり、水中撮影の第一人者、フランスのジャック=イヴ・クストーのドキュメンタリー番組を見たのはそんな時であった。 映像制作に熱心だったクストーは、1956年の『沈黙の世界』でアメリカのアカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門を受賞したことでも知られている。彼の映画は世界的な人気を獲得し、水中の世界に多くの若者を誘ったのである。

水口もその一人であった。ダイバーの脇を通り抜け、深みに消えていく巨大なクジラ。その優雅な動きを捉えた映像は、幼いころからの夢が実現可能だという事実を、はっきいと示していたのである。

 

研究と編集職を経て

やがて水口は京都大学の理学部動物学科に入り、海洋生物学を専攻した。ただし、一般教養を履修する1、2年生のころはひたすら読書をしたという。なかでもその1冊、イギリスのチャールズ・エルトン『動物の生態学』からは強い影響を受けたと語る。

エルトンは、種の分類が中心だった博物学から、動物同士の捕食関係や環境との関連性を視野に入れる生態学へと進めた学者である。彼は、生態研究には幅広い能力と知識、そして自発的な工夫が必要だと説いていた。その文章に触れた水口は、子どものころから自分が挑んできた工夫に必然的な意味があったことを初めて理解したのだった。

やがて3年になり専攻課程に進むと、多くの時間を和歌山にある瀬戸臨海研究所で過ごすようになった。それはこれから研究者を目指す学生にとっては、まさに理想的な時間だったという。しかし水口は、その道を逸れてしまう。その年次が終わった1975年から、2年間の休学を申請したのは、帆船で世界を回る海洋冒険行を仲間と計画していたからだった。ところがこれは、準備不足であえなく潰れてしまった。その後には、2年という長い空白の時間だけが残された。

水口はそこを埋めるように、アメリカから返還されて間もない沖縄に向かうことに決めた。とくに明確なテーマはなかったが、サンゴ礁に棲む生物を見たいと思ったのである。そこで八重山列島の黒島に開設された八重山海中公園研究所(現・黒島研究所) の許可を得ると、1年半ほどを現地で過ごすことになった。

後に水口は、このモラトリアム期間を「最大の通過儀礼」だったと振り返っている。黒島の研究員たちと交わす雑談も楽しく、初めて自分の写真が雑誌に掲載されて喜んだりもした。だがあり余る時間の中では、「ただ考え、想像力を働かせてすごすだけの時間」のほうが遥かに長い。内省を促すこの時間こそが精神を研ぎ、大人へと成長させたのである。

そんな時間の中で、進むべき道も見えてきた。この年7月には沖縄国際海洋博覧会が開催され、海外の研究者やジャーナリストが島々を訪れており、なかには『ナショナルジオグラフィック』の編集者などもいたのである。彼らに触れた水口は、自然科学のジャーナリズムという世界に可能性を感じたのだった。

やがて2年遅れで卒業した水口は、講談社に入社する。希望していたのは科学新書「プルーバックス」の編集部だったが、幅広いジャンルを扱う「講談社現代新書」に配属されたのは幸いなことだった。ここで編集者として働いた6年半で、得意な科学だけではなく、なじみの薄かった社会科学や芸術、あるいは思想ものまでを担当したことで視野は飛躍的に広がったのである。そして、自分の関心が、動物そのものより、動物の生態を通じて自分自身を知ろうとする人間への好奇心だったことに気付くのである。

クジラとの関わりを深めたのもこの間だった。きっかけは編集者になった年の年末年始、 ハワイで初めてホエール・ウォッチングを体験したことである。沖縄ではフェリーからわずかに見かけたことはあったが、ここでは100メートルほど先で潮を噴き上げる姿があった。その姿が、少年時代に見た夢を蘇らせたのである。

以降、水口はできるだけ休暇をとり、北米でのクジラの撮影を始めた。海外の研究者の調査に参加するほか、単独でも観察を重ねた。1982年には早くもアラスカのジョンストン海峡を訪れている。ここでは、すでにシャチの観察が進み、個体の識別も完全に行なわれていた。そしてこの地で見出したのが、孫たちの面倒をよく見るニコラとその家族であり、それは「海のギャング」というイメージを変える物語の主人公にふさわしいと思えたのである。

そして1984年、水口は写真家として独立すると、観察と撮影に本腰を入れ、『オルカ』と『オルカアゲイン』を相次いで出版したのである。野生のシャチの家族物語は、狙い通り、広く共感を集めたのだった。

あれから数十年が経ち、21世紀も四半世紀以上が過ぎている。水口が見通したように、いまや自然環境も人間の生活環境も大きく変動した。デジタル化された撮影機材は高画素かつ超高感度であり、すぐれたコンピュータ・ヴィジョンを備えている。すべてが可視化されるこの時代のなかで、あの頃の水口のような新鋭写真家たちはどのような自然の物語を描き、人間とは何かを問うのだろうか。新たな自然の見方の登場を、私たちは待っている。

 

水口博也(みなくち・ひろや)

1953年大阪府生まれ。京都大学理学部動物学科卒業。講談社にて新書の編集に従事しながら、クジラやイルカなど海棲哺乳類の調査・撮影を行なう。1984年にフリーに。世界各地の海をフィールドに撮影を続けている。1991年『オルカ アゲイン』で講談社出版文化賞を受賞。主な写真集・著書に『Whale Odyssey巨鯨伝説』『ビッグブルー』『クジラ・イルカ大百科』『シャチ生態 ビジュアル百科』などがある。

参考文献

水口博也・文、しろ・絵『クジラと海とぼく』(アリス館 2010年)
水口博也『ぼくが写真家になった理由』(シータス 2011年)
『新・学生時代に何を学ぶべきか』(講談社 1998年)

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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