Lines of Sight ーそれぞれのアジアへの視線ー vol.19
学校法人呉学園 日本写真芸術専門学校には、180日間でアジアを巡る海外フィールドワークを実施する、世界で唯一のカリキュラムを持つ「フォトフィールドワークゼミ」があります。
「少数民族」「貧困」「近代都市」「ポートレート」「アジアの子供たち」「壮大な自然」、、
《Lines of Sight ーそれぞれのアジアへの視線ー》では、多様な文化があふれるアジアの国々で、それぞれのテーマを持って旅をしてきた卒業生に、思い出に残るエピソードを伺い、紹介していきます。
日本語世代の老人達
PFWゼミ2期生 君島 佳弘
「キョウハテンノウノクニカラキャクジンガキタ!ダカラ、ホンジツハニホンバレ!」
「オオ、メデタイメデタイ!」
2007年3月、台湾山中でのことである。
フィールドワークの旅の最初の目的地、台湾南部の山間地に佇む霧台郷、大武(ラヴァン)。台湾の先住民族であるルカイ族の人たちが暮らす小さな集落。その日、日本語世代の老人たちの集会に呼ばれた私は、あまりにも大げさすぎる歓迎の言葉に呆気にとられていた。
訪問前は、さもすると老人達には会話さえも拒まれ、罵声を浴びせられるかとも思っていた。
何十年も前のこととはいえ、日本は第二次世界大戦中には台湾を植民地支配していたのだ。植民地時代は台湾全土に日本の役所や警察、学校までもが配備され、老人達も子供時代には日本語を強要させられていた。
しかしながら、その不安は全くの無意味であった。
村の小学校の会場に大きく円座する老人たちの中で、私は集落の首長だというリーダー格の老人の隣に座らされた。70代から80代に見えるその老人は、日本語の名を頼寿郎と云った。
「ライシュウライ。リンジュロウダ、ハッハッ。」
老人はそう言って笑った。
そして、集会がいよいよ始まった後も、老人たちは代わる代わる私のもとへやって来て声をかけてくれた。
「ランドセル、センセイ、フデバコ。トーキョー、オオサカ、アンタオオサカカラキタ?」
「ソウダソウダ、ムカシオオサカカラキタ、ユリコセンセイ。ユリコセンセイハ、ホントウニヤサシカッタ。ゲンキカナァ。」
何十年も生きた頭のどこにそんな記憶があったのかと思うほど、老人たちは植民地時代の子供のころの話を懐かしそうに詳しく聞かせてくれた。私の頭の中には、賑やかな子どもたちと山の小学校の絵が浮かんだ。
集会の食事には、日本でいう仕出し弁当のようなものが振舞われ、私もそれを一ついただいた。
中身は、白米のご飯と、八角の香りの効いた甘い豚肉の煮付け(イノシシ肉だと言っていた)とチンゲン菜の和え物。そして、砂糖の入ったペットボトルの緑茶と南国のフルーツ。
食べながら、頼寿郎は私にルカイの名前を与えると言い、「ティウブ」という名を授けてくれた。日本語で「水」という意味だった。
その後、幾人かの老人による挨拶がマイクを通して行われると、大きなラジカセのスイッチが入り、ルカイ族の民謡のような音楽が流れはじめて老人達による踊りがはじまった。
日本の盆踊りのような光景であった。
「アイラナロア ナイア ナイアア オオ ハイア イイ アオ ハイア」
頼寿郎に許可を得て、僕は何枚も写真を撮った。歌い、笑いながら、踊りを踊る老人たち。
渡してくれた楽譜には、ルカイ語の歌がカタカナで書かれた歌詞が書いてあった。
写真はモノクロフィルムなのであったが、老人たちの踊りに合わせてシャカシャカと揺れる赤々とした衣装や、黄ばんだ歯、しわ、メロディを、私は鮮明に記憶している。
会場にはツバメが飛び交い、色鮮やかな青い羽の蝶が舞っていた。
その時である。
気が付くと、踊り終えた頼寿郎と数人の老人たちがパイプ椅子に座り泣いていた。
そして老人たちは私を呼んで言った。
「センソウハイケナイ。ワタシタチブゾクモナンニンモコロシタ。タケヤリデサシタ。トウサン、カアサン、カナシイ、ツラカッタ。」
頼寿郎はじっと私を見つめ、ウンウンと頷いた。頼寿郎の目にも涙があった。
陽射しはまだ高く、私の口の中には甘酸っぱい味付けの豚肉の香りが残っていた。
そうして集会は終わり、私は老人達に別れを告げて山を後にした。
*
その後、月日が経ち、フィールドワークの旅から8年が過ぎた2015年の秋。
社会人になっていた私は霧台郷を再訪した。学生時代の旅の記憶が忘れられず、どうしてもまた老人たちに会いたくなったのだ。
久しぶりに訪れる霧台郷の中心部は様変わりしていた。
台湾南部の大都市である高雄からの直通のバスができ、村には産地化を目指すコーヒーやアワ酒を観光客に振舞う店ができていた。そして、予想はしていたが、通りで見かける老人たちの姿は少なくなっていた。学生時代にお世話になった民宿の高齢のお婆さんもぼけて、ほとんど会話ができなくなっていた。私は挨拶程度しか台湾語ができなかったので、日本語を話さない村の若い世代とはコミュニケーションが上手くいかなかった。
そして、霧台到着の翌朝、すがる思いで8年前の集会の会場であった山奥の大武集落へいくと、村は半ば廃村の様になっていた。
建物はまだ新しいのに、人の気配が無い。
歩き回ってようやく見つけた一人の老人に話しかけると、
「オオアンタニホンカラキタ?ロウジンタチ、ホトンドヤマヲオリタ。ドコカワカラナイ」
と言った。
聞くと、数年前に台湾を襲った強烈な台風で村も壊滅状態になり、ほとんどの住人は高雄や台中などに暮らす親戚を頼り都市部に移住したとのことだった。
途方に暮れた私が村の墓地(集会の会場となった小学校のすぐ側にあった)に行くと、そこにはひと際大きな墓石に「頼寿郎」と書かれていた。
集会の日と同じ強い陽ざしの晴れた日の朝、静かな墓地で、私は泣くことしかできなかった。
エピローグ
フィールドワークの旅では、台湾の村以外にも沢山のアジア各地の村を訪ねた。
タイ北部の密林の村や、インド西部の砂漠や、中国のチベット文化圏の村々。しかしながら、真っ先に思い出すのは台湾の霧台郷大武集落であり、老人達との出会いである。
また、もし私がカメラを持っていなかったら、私はそこまで老人達を深く知ろうとはしなかったであろうとも思う。写真を撮るために老人達の話に深く耳を傾けたからこそ、私は老人達を本当に好きになったのだと思う。カメラは、他人の人生を知ろうと思うとき、最高のツールの一つになるのだろう。
私は今でも世界中で一番台湾の霧台郷の山奥の村が好きである。
今度また、幼い息子も連れて墓参りに行きたいと思っている。