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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.4 “不都合な真実”の行方 樋口健二『原発』(オリジン出版センター、1979年)鳥原学

「原発」に隠された真実。丁寧な取材と迫力の写真で、報道写真家の樋口健二は40年以上前からそれを訴え続けてきた。彼の活動は2011年3月11日の福島第一原発事故以降、改めて国際的な注目を浴びた。

原発という「怪物」

写真に対する見方や感じ方は、何かのきっかけで大きく変わるものだ。私たちは撮影に至る複雑な背景を知ったり、ある出来事を経験した後、画面の中に暗示されていたものに気付くことがあったりする。そんな経験をした後に見えたものこそが、ことの真相なのかもしれない。

以下に揚げた写真は、福島原発の事故の後、多くの人が真相だと思うようになった1枚だ。

撮影されたのは1977年7月14日、場所は定期点検中の敦賀原発の内部である。薄闇に浮かび上がるのは、分厚いオレンジ色の作業服に防毒マスクを付け、通路で配管の溶接作業をする労働者だ。見開かれた瞳にフラッシュが反射し、一瞬の緊張が伝わってくる。撮影者は樋口健二で、このとき炉心部を背景に、その近辺で数人の労働者たちが作業する様子も捉えている。

今、これらの写真ははとてつもなく重要な証言となっている。なぜなら稼働後の原子炉内部がジャーナリストによって撮影されたのは、後にも先にもこのときだけだからだ。このスクープ写真は『アサヒグラフ』11月4日号の特集「安全神話をゆさぶる原発被曝の不安」で発表され、2年後には、樋口にとって2冊目の写真集『原発』の冒頭に掲載された。

この写真集、冒頭以外はモノクロ写真による4部構成となっている。原発内での労働で放射線に体を蝕まれた8名の「原発被曝者」、身の危険を感じながら働き続けている「原発下請け労働者」、建設阻止を訴える立地予定地の住民たちの「反原発のたたかい」、そして建設後の風景を見つめた「崩されゆく風土」である。迫力に満ちたこれらの写真群は、冒頭のカラー写真の即物的な感触とはきわめて対照的だ。だが、それが互いに響きあって、非常な現実に抗う人間の葛藤が立体的に印象づけられる。

「樋口健二さんの写真を見ていると、改めて、原発という怪物の底知れぬ不気味さ、管理された『原発社会』の住み心地の悪さがひしひしと伝わってくる」

解説文にそう書いたのは、後に地震と津波とによる巨大事故をほぼ正確に警告した、反原発を貫いた科学者、高木仁三郎である。当時、この言葉をどれほどの人が真摯に受け止めただろう。

不都合な現実に気付いても、人は差し迫るまでそれを見ないものだ。樋口は、彼自身が自称するように「売れない写真家」であり続けた理由は、その無関心さによるのではないか。産業公害、労働問題、自然破壊、戦争の痕跡などに取り組んできたが、それらを写真集にまとめても大きく売れたことはなかったのだ。あの2011年3月11日、福島第一原発の事故が起こるまでは。

そのとき、やっと私たちも樋口が表現してきた「怪物」の正体を知った。いや怪物が解き放たれたことで、彼の写真の価値が初めて理解されたというべきなのだ。

 

暗闇の青春

樋口健二は1937年に、長野県諏訪郡富士見町の貧しい自作農の長男として生まれた。長男ながら「健二」なのは、映画好きの父が、溝口健二監督にあやかったからだ。その父は保守的で、子どものころから反りが合わなかった。

また6歳の時に母を赤痢で亡くしたことも、心に傷を残した。戦争で物資が不足するなか満足な治療も受けられず、病院で隔離されたその晩に世を去ったのだった。翌年、父は再婚するのだが、当然のごとく継母との折り合いも悪かった。

家庭内での救いは祖母だけだった。毎晩添い寝をしながら「人のためになる仕事をしなさい。人に親切にしなさい」と諭してくれた。その言葉がなければ道を踏み外していたかもしれないと、樋口はしみじみに振り返る。

戦後も貧困は続いた。しかも父は体が弱かったので、少年だった樋口が中心的な働き手となった。米、ジャガイモ、キャベツなどを作っていたが、大した収入にはならなかった。かつては実入りの良かった養蚕も、化学繊維が普及して稼ぎが減った。食生活に野菜サラダが普及し、レタス栽培がブームになっていたからそれにも挑戦したが、肥料や農薬で赤字が嵩むばかり。大都市から遠隔地の小規模農家は、構造的にやっていけなくなっていた。

そこで19歳の冬からは人の紹介で出稼ぎも始めた。場所は日本橋の海苔問屋で、毎日18時間に及ぶ労働を3年間続けたが、給料も条件も劣悪だった。そんな生活を抜け出すヒントをくれたのは取引先にいた大卒の社員で、彼は樋口にこう言った。「これからは地方から大勢の若者が上京して大学に通う時代になる、大学生相手の下宿屋をやればきっと当たるはずだ。」

そこで、休日に中央線沿線を歩いてみると、確かに大学が点在していた。戦後の経済復興につれて進学者が増え、広いキャンパスを求めて東京郊外に移転する例が増えていたのだ。彼は腹を決めた。反目しあっていた父にしても、とうに農業には倦(う)んで意欲をなくしていたから話はスムーズに決まった。土地と家を売った金で国分寺駅近くの土地を買い、18部屋の下宿を建てた。周囲の学校に営業をしてみると、思わぬ縁があって部屋はすぐ埋まった。長男としての義務は果たしたという安堵を覚えた樋口は、ようやく自身の将来を模索し始める。

そしていくつものアルバイトを経て、新聞の求人欄で見つけた日本鋼管川崎製鉄所の本工に採用された。仕事は荷揚げクレーンの運転で、24時間勤務の参考体制だった。国分寺から通うのは大変なので近くに部屋を借りたのだが、ひとつ問題があった。

夜中を過ぎると、ふすま1枚隔てた向こうの部屋で、家の老人が喘息の発作を起こすため、満足に眠れないのだ。そこで病気の理由を聞いてみると、工業地帯の煙のためにこうなったのだと言う。

樋口は老人の言葉にぞっとした。だとすると自分はこの人たちの加害者ではないか。いやそんな環境で働くことで被害者にもなっているのだ。社会の矛盾を実感して得たこの疑問こそが「売れない写真家」の出発点に置かれたものである。当時、日米安保条約の改定を巡って大きく揺れ動いていた。これからの日本にとって豊かさと平和とは何か、多くの人々がこの問題に対して必死で答えようとしていた。

 

「売れない写真家」誕生

カメラ好きの同僚にしつこく勧められ、銀座松屋デパートで開かれている「ロバート・キャパ戦争写真展」に行ったのは1961年9月のことだった。写真を見るだけなのに入場料を取られることにまず驚いたが、その不満はあっという間に消え、会場を出るときにはもう写真家になると決めていた。

そして翌年3月に会社を辞めると、樋口は新しい時代のドキュメンタリー写真家を養成していた東京綜合写真専門学校に入学した。目標は社会を支えながら、その社会によって虐げられている人々を代弁する写真家である。それができるのは自分だという自負もあった。なぜなら「(虐げられたひとたちの)本当の声の表現は、そういうものを体験してきた、もっといえば彼らとちっとも変わらない、俺自身でやらなきゃいかん」からだ。

卒業後、樋口が最初に取り組んだのは三重県四日市の公害問題である。1966年7月に新聞で公害病患者の自殺を目にすると、それが川崎の下宿で出会った老人の記憶と重なった。

樋口は翌月から取材に取り掛かったものの、現地でいくら意図を話しても「取材拒否のオンパレード」に遭う。当事者たちにとっては、自らの苦しむ姿を晒すことは辛いに違いないのだ。だが、樋口にしてもここれ諦めれば「人生はおしまい」だと思い詰めていた。だからようやく協力してくれる人物が現れたときには、心からありがたいと思った。

とはいえ取材には時間も費用もかかる。次の年、樋口は結婚したこともあり、安定した生活基盤を求めて友人と医療写真の商売を始めることにした。ライフワークに取り組む為にしっかり稼ぐのだ。だが、往々にして目的と手段は逆転してしまうらしい。この仕事が望外に繁盛し、忙殺されてしまったのだ。

当然、肝心の取材は疎かになり、ストレスだけが溜まった。それは悪い飲酒に現れ、ついに入院に至る。病院のベッドで平凡社から出ていたグラビア雑誌『太陽』を開くと、学校の後輩である本橋成一が写真家への登竜門といわれた「炭鉱〈ヤマ〉」で1968年の太陽賞を受賞したのを知る。寂れゆく筑豊炭鉱を、時間をかけて取材した厚みのあるフォトルポルタージュ作品だ。ショックを受けて、自らの不甲斐なさを嘆く彼の背中を押したのは、妻の「辞め時じゃない?」のひと言だった。この理解がなければ、稀代の「売れない写真家」は生まれなかったに違いない。

四日市取材の成果は、翌1969年の初個展「白い霧とのたたかい」で発表され、『アサヒカメラ』11月号8ページにわたって掲載された。さらに1972年に公害裁判が結審すると、初の写真集『四日市』を出版。新聞各紙も樋口の活動を取り上げた。

その次に取り組んだのが原発である。国も電力会社もバラ色の未来を謳う裏には何か隠された事実があるという直感があった。それに、このテーマに挑んだ写真家はまだいなかった。

やがて1974年4月、原発の下請け労働者だった岩佐嘉寿幸が、敦賀原発での被曝によって放射線障害を起こしたとして、日本原電と国を提訴した。樋口はこれを聞いて、岩佐をはじめ全国の被曝労働者に精力的な取材を始めた。やがて必然的に、閉ざされた原発内部を撮影する必要を痛感するようになったのである。

もちろん電力会社は取材の申し出を取り合わない。そこで定期点検中の敦賀原発まで直接押しかけ、一週間粘ってみると、なんと許可が下りたのである。監視付の取材が条件だったが、樋口はそれを無視し、あの決定的な2枚を撮影する。もちろん激怒されたが、その場は平謝りでフィルムを守ると、すぐ『アサヒグラフ』に持ち込んだのだった。発売されたその号が大きな反響をもたらしたのは言うまでもない。

その後も樋口は原発取材を続け、自身も被曝によって健康を害したというが、それでもなお精力的に取材を続けている。取材をすればするほど、彼の前に立ってくれた名もなき人たちの無声慟哭、言葉にならぬ声を歴史に刻まなければならないとの思いが強まる。樋口が重ねてきた記録は、福島後の世界を生きるうえで、私たちが立ち戻るべき地点を指し示しているようにさえ受け取れる。

 

樋口健二(ひぐち・けんじ)

1937年長野県生まれ。東京綜合写真専門学校卒業。主な写真集に『四日市』『毒ガス島 樋口健二写真集 大久野島毒ガス 棄民の戦後』『原発1973年~1955年』『樋口健二報道写真集成ー日本列島’66-’05』『原発崩壊』などがある。核廃絶NGOワールド・ウラニウム・ヒアリングの「核のない未来賞」教育部門賞、第17回平和・協同ジャーナリスト基金賞大賞などを受賞。

 

参考文献

樋口健二『売れない写真家になるには』(八月書館 1983年)
樋口健二『闇に消される原発被曝者』増補新版(八月書館 2011年)
樋口健二『樋口健二報道写真集成ー日本列島’66-’05』(こぶし書房 2005年)
樋口健二『報道写真家・樋口健二 自伝 無声慟哭(Museidoukoku)・泣くのはバカですか?』(GourdPublishing・瓢箪出版・kindle版 2015年)
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1969年11月号 樋口健二「特別寄稿:白い霧とのたたかい・四日市公害」
「朝日新聞」2012年1月6日夕刊「連載(原発とメディア:62)容認の内実:22「原発内部を撮らせて下さい」」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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