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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.31 バブルと呼ばれた時代、若者たちの存在感はこうだった 児玉房子 『千年後には・東京』(現代書館、1992年) 鳥原学

1990年頃の東京といえば、バブル景気の余韻も色濃く、派手なファッションと繰り返される空騒ぎがいまも象徴的に語られている。その後の「失われた〇〇年」のことを思えば、なにか空虚で軽率な印象である。とはいえ、それがすべてではない。児玉房子の写真には、あの頃に青春期を送った人々の言葉にならない実感が表れているのである。

 

オンリー・イエスタデイ

「バブル」の時代といえば、1986年から1990年代の初頭までのおよそ5年間を指すのが一般的である。この史上空前の好景気を振り返る人々の口調は苦く、ときに自嘲的ですらある。 ウォーターフロント、リゾート開発、地上げ、財テク、巨大ディスコ、ボディコン・クイーン、トレンディドラマ……。こうしたキーワードを虚栄の時代の証拠として挙げつつ、話の軸足はその崩壊と負の結果、つまり「失われた10年」や「20年」などと呼ばれる時代へと続いていくのが常のようである。

だが、ただそれだけの時代だったと断言されてしまうと反発も覚える。こうした意見は、当時20代前半だった筆者の実感とはいささか違っているからだ。だが、実感というものを説明するとき、主観的な言葉を並べ立てるだけではもどかしさが残ってしまう。

そんなとき筆者は、1992年に児玉房子が出版した『千年後には・東京』(現代書館)を書棚から取り出してみる。アンデルセンの童話『千年後には』からタイトルを引用した本書には、都心や湾岸などに誕生した新しいスポットに集う若者たちが、モノクロフィルムでスナップされている。もちろん、そのような写真集がほかにもある。では、なぜ本書なのかといえば、新しい世代に対する無理解な批判も過剰な期待も込められておらず、ゆえに「これが私だった」と素直に言えるからだ。

いつの時代でも、新しい世代は、まず異物としてのレッテルを貼られる。当時の私たちも例外ではなく、「新人類」などと呼ばれていた。人当たりは良いが功利的、ファッショナブルだが軽薄、政治的な意識は極端に低く、社会的な上下関係などの秩序を無視しがちな個人主義者……。そう評された世代に対して、児玉は予断なく、 ほどよい距離を保ちつつ肯定的に見ているのである。

児玉が歩いたのは渋谷、新宿、青山、湾岸エリア、東京各地に誕生したばかりの無国籍的な空間で、そこを回遊する若者たちを見つめている。写真に写された彼らの表情の明るさには、嫌味がない。なかでも女性たちのまっすぐな眼差しが、とても開放的な印象を与えている。そういえば当時は、いよいよ女性の社会進出が進むだろうと、盛んに喧伝されていたのだった。好景気による人手不足を背景に、1985年に男女雇用機会均等法が成立し、翌年施行されたこともあって、女性たちが社会でより活躍することへの期待が高まった。

だが、そんな明るさの中に漂う、先行きへの漠とした不安も、児玉は確実にすくい取っている。たとえば写真集にある、水上バスで視線を何気なく海に向けている女性の横顔。その表情には、時代の波に流されてゆくことへの静かな戸惑いが重ねられているように思えた。また本書に収録されている三つのエッセイも興味深い。そのうち新人類世代のクリエイター、当時31歳の手塚眞が寄せた「解体する東京」は、あのころの若者たちの夢を、はっきりと述べている。今読んでも、児玉の写真に含まれる、世代論的な側面を理解する助けにもなるのではないかと思う。

「都市は解体している。それは新しい国の、人間の、未来に向けての再生に向かって歩み始めた一歩なのかもしれない。若者たちによってもたらされたこの無秩序は、新たなる時の息吹なのだ。もう少し、我慢をして見守ってほしい。必ずや都市は再生する。その肉体を失っても、精神体として復活するに違いない。若者の心の中に、僅かながら新しい東京が芽生えている」

 

曇りのない目

「世代差など関係なく若者の世界に溶け込めて、取材の苦労はちっとも」

本書が出版された折、毎日新聞の短いインタビューに児玉房子はこう答えている。もちろんいくら「若者の世界に溶け込め」るとはいえども、それは批評的な視点をきちんと持ったうえでの話である。「まちと私」というエッセイでは、次のように述べている。

「どんどん膨張しつづける薄っぺらな急ごしらえの都市なんて、という思いや、こんな金にものを言わせて借り物の文化なんてという思いもあった」

ただし、そんな気分を持って現場に行ったとしても、現場に立てば街の雰囲気に高揚した。 当時の児玉は40代の半ば。けれど20歳以上も若い人たちの振る舞いに、戸惑わない柔らかさを持っていた。いや、ずっと持ち続けてきたということは、その後の仕事を見ればよくわかるはずである。そのべースにあるのは「性善説」な性格、とは児玉の自身についての理解だ。もちろん、それを大きく育んだのは周囲の環境である。児玉は、敗戦の年、和歌山市に生まれている。話を聞くと、ずいぶんリベラルな家庭環境だったようだ。

父は国鉄の労働運動や医療生協活動に従事した人で、母は女性も職業を持つべきだと言い、後々まで物心両面で児玉を後押ししてくれた。通った学校も生徒との話し合いを大切にする教育方針をとっていたというから、戦後民主主義教育の明るい側面を素直に浴びた人といえる。こうした環境は、社会への関心を育てるのにまさにうってつけだった。

やがて高校のころに勉強は投げてしまったという児玉は、一生続けられる仕事を身につけようと、上京して桑沢デサイン研究所に入学すする。当初はブックデザイナーを目指していたというが、早々にグラフィックデザインには向いていないことを自覚したのだった。

そこに光を与えたのが、2年のときに出会った写真である。造形表現を習得する授業で、カメラを持って街に出たときに、「弾けるような開放感を感じた」。そのときの担当講師が石元泰博だったということも大きかった。シカゴバウハウスで培われた抜群の造形センスとさまざまな対象を曇りのない目で等価に見つめる石元という写真家の眼差しは、児玉の個性とよく合っていたに違いないのである。

児玉はさらに写真を学ぶため研究科に進み、一年間、大辻清司の教えを受けている。桑沢デザインの場合、写真の専門教室は研究科にしかなく、それを受け持っていたのが大辻であった。この教室からは牛腸茂雄や新倉孝雄などの写真家が登場したことはよく知られている。

その大辻は学生の写真を前にしても、けして決めつけたもの言いをしない。いい部分を見つけ出し、それを気づかせるように丁寧に話をする。児玉はその授業に、もっぱら街のスナップを持っていった。七五三を撮った写真を見せたときも、大辻は独特のニュアンスでこう語ったという。

「上手になりましたね……今までの写真にはヘソがある、と思っていましたがだんだんアヤがでてきました。あなたが表現しようとしているものが見えてきましたよ」

「へソ」から「アヤ」へ、まるで謎かけ言葉のようだ。中心的なテーマだけを追いかけていたが、より複雑な関係性を見つめられるようになった、ということだろうか。こうした言葉に込められた写真の奧深さを理解したのは、写真家としての経験を積みながらだったと児玉は振り返っている。

 

20年目の希望

卒業後、児玉房子は写真雑誌の編集部に勤務するが、勤務時間が長くて写真が撮れないので、 一年ほどで退社している。その後しばらく、和歌山の実家と東京とを行き来しながら、大阪の街を熱心に撮り歩く時期があった。それは大阪万博の開催の前年にあたる1969年のことだ。

翌年、児玉は富士ゼロックスのPR誌『グラフィケーション』を編集していたプロダクション、ル・マルスの編集助手として採用された。その際、編集部の勧めで大阪の写真を平凡社の『世界写真年鑑 70』に応募し、‶若い眼″に選出されている。

ここで発表した「大阪‘69」と題された6点組みの写真を見ると、都市機能の改造を進める都市の中に、ふと出来た隙間のような空間に目を向けていることが分かる。大辻の言葉を借りれば、一面的には語り得ない都市の「アヤ」を表現しようとしているようでもある。

この掲載を機に児玉は『グラフィケーション』で写真を担当することになり、編集企画に沿いつつも、毎号かなり自由に撮ることができた。そのテーマの多くは、社会環境と人間の関わりだった。また同誌と関係する多彩な人々との交流から教えられ、啓発されることも多く良い刺激を受けたと語っている。

さらに他誌で活躍する機会も増えていくと、特に小学校などの教育をテーマにした撮影が目立つ。ちょうど管理教育が強化された時期だったが、ここでも予断なく現代っ子たちと向き合っている。

こうして積み重ねられた児玉の仕事は、1990年に出版した初の写真集『クライテリア』によって広く認められた。「クライテリア」とは、判定基準やものごとの尺度、という意味だ。児玉は現代という時代が基準とする新しい尺度を、科学技術の社会環境への浸透に見出している。

たとえば心臓手術で使われるペースメーカー、無菌の野菜工場、ハイテク化されたオフィス、 大規模なテーマパークや博覧会、そして原子力発電所などが、明るくボップな色彩で切り取られている。すでに日本人の社会生活に欠かせなくなった、最新のテクノロジーに対する素直な驚きと期待感であり、違和感の表明または未来への暗示である。なかでも今、写真集を見ると、数多くある福島第二原子力発電所の写真には、極めて複雑な気分を抱かずにはいられない。

そして2年後の『千年後には・東京』では、こうしたテクノロジーの著しい進歩と経済成長がもたらした、高度消費社会に適応して育った世代に目を向けたということになる。それはかつて小学校で取材した現代っ子たちの成長した姿、と言えるかもしれない。彼らの存在について児玉は、功利主義と個人主義に還元せず、未熟なりにもっと別の可能性を探す者たちとして描き出したのである。

2024年の現在は、本書の出版からすでに31年目にあたっている。この期間のうちに、私たちは当時の誰もが予測もしえなかった地点へと辿りついてしまった。

この間にいくつかの震災やテロがあり、2度目の東京オリンピックがあり、社会で活躍する女性はずいぶん増えた。ほとんどの国民がスマートフォンを持ち、印刷メディアがインターネット上のソーシャルメディアにとって代わられ、AIが生成するイメージが活用され始めている。

そんな社会と政治的環境の大きな転換はまだ続いている。そんな変化の中で、60代前後、初老になった新人類世代の多くは、それぞれの立場で「新しい国の、人間の、未来に向けての再生」にまだ取り組んでいる。

本書は、バブルと呼ばれた時代に若者たちが描いていた希望が「あながち捨てたものではない」のだという、あの言葉を思い出させてくれる。そして、こうしたものの見方をしていた写真家がいたことが、この時代の大きな財産だったということも。

 

児玉房子(こだま・ふさこ)

1945年和歌山県生まれ。桑沢デザイン研究所写真科卒業。編集助手として玄光社やル・マルスに勤務した後、30歳でフリーのカメラマンに。『グラフィケーション』を中心に新聞や週刊誌等の連載で、各地で撮った人物スナップを発表。写真集に1990年『クライテリア』、1992年『千年後には・東京』がある。

参考文献

『世界写真年鑑 1970』(平凡社 1970年) 児玉房子「大阪‘69」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社) 1978年1月号 児玉房子、大辻清司「写真界交遊録抄 へソからアヤへ」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社) 1999年5月~7月号 柳本尚規「Series フォト・グラフィティ[写真家はいかにして生まれたか] 児玉房子」
『新都市』(都市計画協会) 1996年12月号 児玉房子「まちと私」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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