現代アニメ批評 #6『葬送のフリーレン』
「現代アニメ批評」では、幅広いアニメ作品の中から話題の(もしくはちょっとマニアックな)作品を取り上げ、アニメ鑑賞をより深く楽しむための批評を連載していきます。
「終わりから始まる」独創的な設定
『葬送のフリーレン』第一話を初めて観たとき、王道でありながら同時に風変わりでもある設定に大いに戸惑った。物語は、魔王を倒した勇者一行が王都に帰還するシーンで幕を開ける。一見、勇者・魔王モノのよくあるファンタジー作品だが、一点だけ既存の作品にはない独自の設定がある。それは物語開始時点ですでに魔王討伐の旅が終わってしまっているということだ。
それ以外の設定の多くは、ファンタジーの“あるある”をそのまま持ってきたものに過ぎない。もちろん、これが“あえて”であることは言うまでもないだろう。ベタな設定をそのまま使うことで、魔王討伐後の世界を描くというオリジナリティが逆説的に光る作品になっている。
第一話を観たときの衝撃はいまだに覚えている。第一話のAパートで魔王討伐の旅が終わる。これから語られる物語は、すでに終わった一度目の旅の記憶を辿る、二周目の旅なのだ。
すでに終わっている第一の旅の記憶を振り返ることで、その旅を観ていない視聴者を感動させる、という離れ業が演じられる。第一話の段階で、すでに2クールを費やした魔王討伐の物語を見た後であるかのような雰囲気を醸し出している。見てもいない第一の旅が素晴らしいものだったと視聴者を納得させるのは、むろん“物語”ではなく画や芝居、音楽といったアニメの力である。語られない物語に感動させるという、この離れ業を成立させるマッドハウスの手腕はさすがとしか言い様がない。原作はもう少し淡泊で軽快な印象だが、後に言及する魔法戦の描写も含め、アニメはよりドラマチックで重厚な印象を与える作品に仕上がっている。
千年以上生きるエルフの視点から描かれる、喪失の物語
千年以上も生きているエルフのフリーレンにとって、十年にわたる魔王討伐の旅はほんの一瞬の出来事でしかなかった。魔王討伐後は一人で魔法収集の旅をし、五十年後に半ば気まぐれのように王都に帰還する。一緒に旅したパーティの面々は皆年老いており、勇者ヒンメルはフリーレンとの再開後間もなく亡くなることになる。彼の死後、フリーレンは初めて深い後悔と喪失感を抱く。なぜ彼が生きているうちに彼のことをもっとよく知ろうとしなかったのか、と。
フリーレンはその後、紆余曲折を経て、かつての仲間だったハイターが引き取った戦災孤児のフェルン、同じくかつての旅の仲間アイゼンの弟子シュタルクとともに旅をすることになる。他者を知り、そのことによってかつての仲間たちのことを知るために。
後悔を残してしまった一度目の旅がある。すでに終わってしまったその旅を、ひいては無限とも感じられる長い長い年月の中で希釈されていく自らの生を、生き直すかのように二度目の旅を生きる。この発想が、まずはこの作品が数多の勇者・魔王モノの中で一際輝くオリジナリティを有するゆえんである。
そこかしこに香るが、描かれはしない「死」の気配
だがもちろん、前述のような作品構造の一発芸的な独創性だけがこの作品の特徴というわけではない。
世界は、魔王討伐後の平和の時代である。〈平和の時代における魔法戦〉という逆説的なテーマが作品の根底にある。
もちろん、魔王が討ち取られた後の平和な時代とはいえ、死の気配はそこかしこに感じられる。フリーレンと旅をするフェルンとシュタルクは、ともに戦災孤児であった。北部では魔王軍の残党が暴れており、血なまぐさい戦場はまだ至る所に存在するようだ。
だが、視聴者にとって重要なことは、感情移入するべき主要キャラが戦闘で死亡するシーンが想像できない、ということである。
死は、語られるが、直接見えはしない。モブキャラはたくさん死ぬが、主要キャラはほとんど死なない。死んでいる人間は描かれるが、生々しい死の瞬間の描写はベールに包まれる。フリーレンたちの旅路は、どんな困難に見舞われようと、その困難の突破もすでに予定調和的に予期されているような、死の緊迫感からはほど遠いものである。
フリーレンやフェルン、シュタルクといった主要キャラの死は、誰もイメージできない。
イメージできないことは実現できない。それこそが、この作品における「魔法」の根源的なルールでもあった。魔法は万能ではない。いかに強大な魔力を持った魔法使いでも、自身が完璧にイメージできることしか魔法では実現できない。
イメージできないことは実現できない。それは、魔法に限らず、この現実世界でも同じなのではないか。
生々しさを回避、 “エンタメ” に専心した戦闘シーン
この作品で描かれる魔法戦では、生々しい死が周到に回避され、エンタメとしての純度が極限まで高められている。平和な時代における魔法戦は、血なまぐさく泥臭い殺し合いよりも、魔法の技能と知恵を戦わせる “競技” に限りなく近づいてゆく。一級魔法使い試験の一次試験で、魔力切れになった老練の魔法使いデンケンが、全てのプライドをかなぐり捨てて素手の殴り合いを挑むシーンがまるまる飛ばされていることが象徴的だ。あのシーンは、“泥臭い男の闘い”を持ち味にするような作品であれば、視聴者が熱狂する見せ場になったはずだ。
逆に二次試験におけるダンジョン戦闘は、まさしく競技的に魔法戦闘の面白さを描く優れた仕掛けだった。ダンジョンに侵入した者の記憶を読み取り、実力や性格まで完全に再現した「複製体」を生み出す神話の時代の魔物、シュピーゲル。この魔物が生み出す受験者の複製体との戦いによって、主要キャラを一人も殺すことなく、卓越した魔法使い同士の殺し合いを描いてみせた。
ダンジョン内での魔法戦とあり、どの戦いも見せ場は多いが、白眉となるのはやはりフリーレン対複製体フリーレンの頂上対決だろう。「破滅の雷を放つ魔法」「地獄の業火を出す魔法」など、美しく神々しくさえある魔法が次々と放たれる、荘厳な魔法戦。そこでは魔法による殺し合いが、神々の演武にまで昇華されている。
平和の時代=スター無き “民主化” の時代を生きる、魔法使いの哀愁
上述の通り、この作品には魔法使い同士の力比べ・知恵比べを、“安全に”楽しむための数々の仕掛けがある。
だが、そのような表面的な仕掛けの背後にあるねじれたテーマには、『葬送のフリーレン』という作品そのものを脅かすような批評性も感じられる。言うまでもなくそれは、〈平和の時代の魔法使い〉という、この作品の独自性に関わるテーマに関してだ。
魔王が討伐された平和の時代においては、魔族はかつての力を失い、魔物も弱くなり、ほとんどのダンジョンが攻略され、それゆえに魔法使いにもかつてほどの力量を持つ者はほとんどいなくなった。平和な時代とは、実践で競い合って技術を磨く機会が奪われ、偉大な魔法使いが生まれない時代でもある。魔法を描くファンタジー作品にとって重い足枷になりかねないこの設定が、逆にこの作品に独特の深みをもたらしている。
このねじれを深みに変えるのは、詳細に作り込まれた魔法の設定である。
「人を殺す魔法」ことゾルトラークが発明されて以降、魔法戦においては強力な防御魔法にリソースを取られるようになり、攻撃魔法は自然物を利用するものが多くなった。無から物質を作り出すよりも、その場にある物質を操ったり変化させたりする方が魔力の消費が少ないからだ。かつては卓越した技術こそが魔法使いの優劣を計る物差しであったが、現代魔法戦において重要なのは、防御の上から素早く相手をねじ伏せられる物量と手数なのである。それはまさしく質から量への転換と言って良いだろう。
また、このような現代魔法の進歩は、人間による体系的な魔法の研究が基礎になっている。もともとは魔族の技術だった魔法を人類に広めるための礎を築いたのは、大魔法使いフランメである。
魔法は魔族の技術であるとして表立った研究が禁じられていた時代、フリーレンの師匠でもあるフランメは、大陸最大の国である統一帝国にはたらきかけ、皇帝に国を挙げた魔法研究の認可を下ろさせた。これによって、人類の誰もが自由に魔法を使える世界の礎を築いたのだ。
長大な人生を孤独な魔法の探究に捧げる魔族やエルフに対し、寿命の短い人間はいかに彼らに対抗できるのか。鍵になるのは、共同での魔法の研究と技術継承という、共同体としての新陳代謝である。
腐敗の堅牢クヴァールが開発した「人を殺す魔法」ことゾルトラークは、わずか十数年の間に研究・解析されて人類の魔法体系に組み込まれた。有効な防御術式も開発され、「人を殺せない魔法」となったゾルトラークは、現在「一般攻撃魔法」と呼ばれている。
長大な時間を生きる魔法使いが生み出す独創的な魔法も、わずか十数年の時間で完全に解析され、一般の魔法使いでも使える汎用的な技術に転用される。大魔法使いフランメの功績とはつまり、魔法の民主化と科学化であった。
かつて、魔法とは限られた一握りの人間しか使えないものだった。長い時を経て、魔法は多くの者が使い、研究するものに変わった。その大きな流れの中で、魔法戦において重視されることも、職人芸的な技能から、魔力の量に裏打ちされた攻撃の物量と手数へと変わってゆく。
魔法の民主化・科学化と、魔法戦における物量の重視。ここに描かれているのは、つまりは魔法の近代化という問題系である。
「平和への想像力」は次世代の魔法か
魔法が近代化された平和の時代。卓越した魔法使い同士の命がけの戦いを通して魔法の高みへと上り詰めることが不可能になった時代。それはまさに魔法使いにとっては受難の時代でもある。
しかし、そのことに対する葛藤は、フリーレンやその弟子であるフェルンからは全くと言って良いほど感じられない。彼女たちは時代の流れを受け入れ、肯定的に生きようとしている。
むしろ、平和な時代に衰退する魔法の困難や葛藤を一手に引き受けるゼーリエというキャラクターに、この作品の逆説が集約されているように思える。
ゼーリエは、魔法使いを束ねる組織「大陸魔法教会」の創始者であるエルフの魔法使いだ。大魔法使いフランメの師匠に当たる、「神話の時代の魔法使い」とも呼ばれる存在である。
魔法は特別なものであり、才ある者だけに授けられるべきものだと考えるゼーリエにとって、魔法を人類に広めようとしたフランメの行動は許しがたいものであった。
魔法使いとしての高みに至るには燃え滾るような野心が必要なのであり、その意味で、平和の時代とは、偉大な魔法使いを生み出さない時代でもある。ゼーリエは弟子のレルネンに対して、「魔王軍との戦火の時代に生まれていれば、名だたる英雄たちと共に歴史にその名を残したであろう」と言う。彼が戦火の時代に生まれていれば、さらなる高みへと上れたはずなのに、と。
ゼーリエは、大魔法使いと呼ばれるフランメのことさえも「失敗作」と断じている。フランメはあれほどの才を持ちながら、自分ほどの高みへとたどり着けなかった。彼女の最も好きな魔法が「花畑を出す魔法」であることを「くだらない」と切り捨てた。
フランメが初めてフリーレンを連れてきた際も、「やはりだめだこの子は。野心が足りん。燃え滾るような野心が。」と一蹴した。魔法を探究する喜びを生きる糧とするようなフリーレンの生き方は、やはりゼーリエの望むものではなかった。
だが、それほどの高みにいるゼーリエは、魔王を倒すことができない。フランメは言う。「戦いを追い求めるあなたには、魔王を殺せない」、「だってさ、師匠(せんせい)、平和な時代に生きる自分の姿が想像できないだろ」と。
〈平和の時代の魔法戦〉という逆説は、フリーレンという希有なキャラクターを輝かせる、エキセントリックな仕掛けだった。生まれ育った村を魔族に滅ぼされ、燃えさかる憎しみを心の内に宿しながらも、魔法への知的好奇心を行動原理とするようなキャラクターは、確かに戦いの主人公にふさわしくない。しかし、煮え滾るような憎しみに溺れず、常に飄々と修練や探究を積み重ねるフリーレンの強さを、ゼーリエは見誤っていたのではないか。フランメの予言は告げている。強さとは“力”ではなく“イメージ”なのだ、と。
最も強大な敵に打ち勝つことができるのは、平和をイメージできる者だ。平和な時代の自分をイメージできる者しか、世界に平和をもたらすことはできない。この想像力こそが、ゼーリエやフランメを凌ぐ、フリーレンの強さだった。
『葬送のフリーレン』という作品が抱える葛藤と逆説は、「力による平和」という考え方が世界を蹂躙しつつある現代社会に対して、鋭いアンチテーゼとして突き刺さっているのではないか。
#フリーレン アニメ2期OPテーマ
Mrs. GREEN APPLE 「lulu.」
×
『葬送のフリーレン』
SPECIAL MUSIC VIDEO 公開中🪄
▶https://t.co/fdLorfPjmr#frieren#MrsGREENAPPLE #lulu pic.twitter.com/ECTe0eUan9— 『葬送のフリーレン』アニメ公式 (@Anime_Frieren) March 23, 2026
文: 冨田涼介
批評家。1990年山形県上山市生まれ。2018年に「多様に異なる愚かさのために――「2.5次元」論」で第1回すばるクリティーク賞佳作。寄稿論文に「叫びと呻きの不協和音 『峰不二子という女』論」(『ユリイカ』総特集♪岡田麿里)、「まつろわぬ被差別民 『もののけ姫』は神殺しをいかに描いたか」(『対抗言論』3号)など。
関連記事
↓PicoN!アプリインストールはこちら