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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.10 革新的な視点と手法の動物写真 宮崎学『けもの道』 鳥原学

1970年代なかば、人々が自然や環境に関心を寄せはじめ、動物の生態写真が隆盛を見せるようになった時代。長野県伊那市の山中で、一人の若者が手作りの装置を駆使して野生動物を撮影、動物雑誌『アニマ』で発表し始めた。宮崎学の克明な観察記録は、新鮮な驚きと、「動物を見る」ことへの新しい示唆に富み、日本人の自然観に一撃を与えたのだった。

 

人と自然の境界を探して

「百聞は一見にしかず」という言葉がある。確かに自分の目で確かめることが理解への早道であり、正確な観察は意外な事実をも浮かび上がらせるものだ。動物写真家の宮崎学は、確信をもってこう言う。

「自然は決して滅びるものではない。人間のほうが先に滅びると思う」

言葉の背景には、40年以上積み上げてきた徹底したフィールドワークがあり、それゆえに生物の絶滅を前提にした自然保護運動にもきわめて批判的だ。宮崎に言わせれば、彼らは実情を見ていない、ということになる。

なぜなら、短期間で世代交代をする動物たちは人間が思うよりも早く人工環境に適応して、その個体数を増やしてきたからだ。折にふれてその被害が報道されるツキノワグマ、シカ、イノシシなどだけでなく、絶滅が危惧されるクマタカやオオタカにしても、「数万羽はいるはず」と宮崎は指摘する。彼自身の写真こそが、その証拠なのである。

たとえば2012年に出版された『写真ルポ イマドキの野生動物―人間なんて怖くない』(農山漁村文化協会)では、高速道路の人工照明を利用してエサを探すクマや、道路の融雪剤に含まれるミネラル分を求めて集まるシカの群れの写真を発表している。

それは野生動物の生態というイメージとはほど遠く、逆に、利便性を求めてきた日本人の生活環境を照らし出している。宮崎は自然と人間の境界線に立ち、両者の相関関係を徹底したリアリズムで描写する。

こうした視点の出発点となったのが1978年の個展で発表され、翌年に写真集となった『けもの道』(平凡社)である。宮崎は本作で独自のスタイルを確立するとともに、自然を対象にした写真表現の可能性を大きく広げた。

タイトルの「けもの道」とは、野山で野生動物が往来する道筋のこと。一般的には動物自身がつけた道が想像されるが、本作では中央アルプスの中腹にある登山道が舞台だ。撮影を思いついたきっかけは、この道でテンやイタチの糞をかなりの頻度で見つけたことだった。人がつけた道を、動物たちはどう利用しているのか。この疑問を解くために採った手法が画期的だった。

宮崎は特定種に狙いを定めるのではなく、登山道に赤外線を使った自動撮影装置を仕掛け、通る動物の姿を網羅的に写した。その結果は見事というほかはない。ニホンカモシカ、タヌキ、ノウサギ、テン、リスなどの動物から、ガガンボやカマドウマなどの昆虫まで克明に描写されている。それも、舞台でスポットライトを浴びる役者のように、ドラマチックに写されているのだ。

また登山靴を履いた人間の写真も作品の列に加えたことで、紡ぎ出される自然観を飛躍的に広げた。人間を含めた生物間の繋がりが、日本のネイチャ-フォト史上初めて俯瞰的に視覚化されたのだった。

 

動物生態写真の革命

宮崎は生まれ育った信州南部の伊那谷周辺を撮影のベースにしてきた。東は南アルプス、西は中央アルプスに囲まれた、標高850メートルほどの一帯に腰を据え、今も自然と人間の関係を見続けている。

そんな宮崎が写真家を目指すのは中学を卒業し、地元でカメラメーカーの下請け企業に勤務していた10代半ばのことだった。一眼レフの交換レンズを組み立てるうちに、カメラに興味を持ち、さらに5歳年長の兄が東京の写真学校に入ったことで、写真家への可能性が身近に感じられた。

宮崎は月賦で一眼レフを購入すると、動物の撮影にのめり込んだ。まずリスやムササビという身近な小動物から始まり、やがて“幻”と形容され、保護が叫ばれていたニホンカモシカの生態を追うようになった。宮崎はこの難敵を撮るために登山技術を習得し、徹底した行動観察を重ね、撮影に成功する。

とはいえ、これで写真家になれたわけではない。10代の終わりの数年間は内臓疾患で入退院を繰り返し、焦りを募らせた。いっそ東京へ出ようと思ったことも何度かあったが、すでに兄が上京しており、自分までが家を捨てるわけにはいかない。宮崎が地元をフィールドにし続けたのは、そんな責任感もあったからだった。

それでも21歳のとき、会社を辞めて写真に賭けることを決めた。当時の心境について、宮崎は「手負いのフリー宣言」と表現している。

やがて、伊那谷で一人格闘する宮崎の評判は少しずつ広がり、写真家や出版関係者の信頼を得ていった。1972年にはデビュー作の写真絵本『山にいきる にほんかもしか』(ポプラ社)を出版する。

さらに、宮崎の意識を大きく変えたのが、10歳年上の栗林慧との出会いだった。“昆虫の眼で見た世界を表現する”ことを目指した栗林の写真は、生態写真に新しいムーブメントを起こしていた。しかも作品のほとんどを栗林自らが開発した機材で撮影していたのだ。その作品の革新性は、現在でいえばVR映像にも匹敵するはずである。

たとえば実質的なデビュー作である1969年発表のアリの生態写真には、市販の小型ストロボとベローズを組み合わせ、撮影倍率を自由に選べるようにした“昆虫スナップカメラ”が使われている。この機材によって昆虫の活動が初めて深い被写界深度で捉えられ、臨場感あふれる表現が可能となった。

これ以降も栗林は“オリジナル高速電磁シャッター”や“ストロボクリーク撮影”などのシステムを完成させ、新しい視覚を開いた。

マクロレンズのラインナップも少なく、カラーフィルムの感度も低い当時、写真家自身の工夫から生み出された作品は、自然を志す若手写真家から絶大な支持を集めた。もちろん宮崎も栗林の写真に憧れた一人だった。

宮崎が栗林を初めて訪ねたのはフリー宣言の翌年で、自宅の工作室に通され、整然と並ぶ工具類を目にしたとき、驚きとともに「大いなる希望」を感じたと述べている。そして栗林との交流からは次のことを学んだという。

「写真家たるもの、すべて一人で完成できないようでは、一人前にはとてもなれない」

その後の宮崎学は、この思いを形にすることで独自の世界を確立していくのである。

 

生命の素顔

1973年、宮崎にいよいよチャンスが巡ってきた。この年の4月に、平凡社から動物ヴィジュアル誌『アニマ』が創刊されたのである。

同誌創刊の背景には、世界的な環境問題に対する意識の高まりと動物学の著しい進歩があった。日本では今西錦司を中心とする京都大学霊長類研究グループの活動が注目を集め、創刊年には動物行動学の権威であるニコ・ティンバーゲンとコンラート・ローレンツがノーベル賞を受賞している。世界的に動物行動学のブームが起きていたのである。

『アニマ』の創刊準備はこれら研究者の助力を受け、一年をかけて行われた。その過程で編集部を悩ませたのが、雑誌の主役である写真を集めることだった。もちろん当時も動物を専門に撮る写真家はいたが、野生動物に密着してそのライフサイクルを総合的に追っている者は稀であったのだ。

編集者たちは全国を探し歩き、まだ無名だが実力を持った人材を見出した。たとえば北海道でキタキツネを撮る獣医の竹田津実、埼玉の清流でカワセミを追っていた嶋田忠、そして伊那谷の宮崎学である。

彼らの作品は、最初から大きく扱われた。創刊号では竹田津のキタキツネが全面的に掲載され、2号では表紙と特集の一部を宮崎が撮ったアオバズクが飾っている。新しい写真家たちの登場は写真界の注目を浴びた。さらに宮崎が翌年1月号で「ニホンカモシカ その冬の生活誌」を発表すると評価はさらに高まった。

こうして『アニマ』によって自信と収入とを得た宮崎は、二つの大作に取り掛かる。日本に棲息する全16種のワシ・タカ類を追った『鷲と鷹』と『けもの道』である。

この二作は、手法も表現意図も大きく異なる。前者は絶滅が危惧されていた猛禽類を写真に収めること自体に大きな意味があった。長年培ってきたフィールドワークの技術が試されるテーマである。対して後者の目的は生物間の見えざる繋がりを確かめることであり、知られざる動物の素顔を捉えることも意図されていた。

宮崎は、動物は人間の「殺気」を敏感に察知し、見られていることも理解していると語る。それは『鷲と鷹』でも同じで、そこには鳥と宮崎の対決という趣すら漂っている。だが動物の素顔を見ようとすれば、写真家そのものを現場から排除しなければならない。

そこで宮崎は栗林の仕事をヒントに、自動撮影装置の開発に取り組む。赤外線を使った感知装置の開発に始まり、ストロボを長時間作動させるための電源の確保、風雪や気温の変化に耐えられる機材カバーの試作などを繰り返した。完成までに3年が費やされた。

そして1976年の春、宮崎はこの装置を登山道に設置。1年半にわたり継続的に作動させ、1000カット近い写真を撮影した。その結果は前述したとおりである。これ以降、宮崎の装置はさらに進化し、現在ではデジタルカメラを駆使してより克明に動物の素顔を描き出している。

1990年の写真集『フクロウ』ではフクロウの生態記録をまとめ、土門拳賞を受賞する。「夜行性のフクロウは目撃するだけでも難しく、営巣時期に巣の周辺で撮影したものしか見せてもらえない写真が多い。夜間の見えないその生態を暴くために、メカトロニクス技術の結集で年間を通してフクロウの生活史をまとめた」と宮崎は言う。

さらに1994年の写真集『死』は壮絶である。動物の死骸が腐敗し解体していく様を、自動装置によって時系列で撮影しているのだ。あとがきの「自然の死によって生命は終息するものではなく、連続するものである」という一文も印象深い。

宮崎は、日本の自然界は、今もって全くわからないことだらけだと語る。その疑問を解くために、現在も数か所に仕掛けた自動撮影装置が記録する画像を見つめている。動物の行動の変化から自然の因果律を読み取ることを怠っていないのだ。宮崎が写真によって描き出すこの因果律は、現代の人間のあり方を測る、重要な計測器として機能するはずだ。

宮崎学(みやざき・まなぶ)

1949年長野県生まれ。中央アルプス山麗をフィールドに、動物・自然・人間社会をテーマに独自な視点・方法で作品を発表し続けている。1982年『鷲と鷹』で日本写真協会新人賞、1990年『フクロウ』で土門拳賞、1995年『アニマル黙示録』と『死』で講談社出版文化賞を受賞。近著に『イマドキの野生動物』(農文協)がある。公式サイト(www.owlet.net/)で地元の動物たちの様子を日々伝えている。

参考文献

『僕は動物カメラマン』(どうぶつ社 1983年)
『アニマ』(平凡社) 1978年12月号「宮崎学 けもの道」
『アエラ』(朝日新聞社)1999年9月13日号「現代の肖像 宮崎学」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)2000年5月号~8月号
柳本尚規『Seriesフォト・グラフィティ[写真家はいかにして生まれたか]宮崎学』

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

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