【写真学校教師のひとりごと】vol.32 牛垣嶺について

わたし菊池東太は写真家であると同時に、写真学校の教員でもあった。

そのわたしの目の前を通り過ぎていった若手写真家のタマゴやヒナたちをとりあげて、ここで紹介してみたい。その人たちはわたしの担当するゼミの所属であったり、別のゼミであったり、また学校も別の学校であったりとさまざまである。

これを読んでいる写真を学ぶ学生も作品制作に励んでいるだろうが、時代は違えど彼らの作品や制作に向かう姿が少しでも参考になれば幸いだ。


黙々と写真を撮る。学生時代のイメージだ。
今も、ひたすらこつこつと積み重ねているようだ。
相変わらず口数は多くはない。
牛垣はフイルム現像の仕方を知りたい、と思って写真学校に入ったという。

森山大道に魅了され、モノクロ写真の世界に入りこんでいく。
卒業2年後に、仲間と4人でお茶の水に自主ギャラリーを開き、「ロッカールーム」と名づけた。
そして現在までに20回近く個展を重ねている。
順調な写真家人生のようにみえるが、ただ大半がその自前の自主ギャラリーだ。
審査員もいて広く一般公募をしているメーカー系ギャラリーとの併用を、考えた方がよいのではないだろうか。
かれの写真に対する、直向きな一生懸命さはよく理解できる。

卒業後しばらくは東京で建築写真を撮って生活をしていた。
子供ができ、東京で子育ては今ひとつ気が向かなかったので、お祖父さんが住んでいた父親の出身地、鹿児島に移った。
現在はそこでタンカーなどの船の修理会社に勤めている。

好きな写真が撮れるなら、飯を食うのは写真に捉われる必要はない、という考えなのだろう。
これも一つの生き方だ。
牛垣は子供のために、東京から鹿児島へ移住し、写真を職業とするのをやめ、船の修理会社に勤めることにした。
なかなかの決断力を要したことだろう。

話は違うが、自前のギャラリーは競争相手もいないので思うようにできるのが利点だ。



だが、かつてはあったカメラ雑誌も現在はないので、自分にプラスになるようなアドバイスを耳にすることが実に難しい時代だ。

ではどうしたらいいのか。

メーカー系ギャラリーはところによって、激しいときには競争率が10倍20倍になることがある。
だが一部のメーカー系ギャラリーならば、審査員から有効な意見をきくことが可能だ。
選考から外れたときにその理由を訊ねるのだ。
それによって、必要なアドバイス、自分の欠けているところを聞くことができるだろう。
欠けている部分を見つけだし、それを自力でクリアーするというのは実に難しいことだ。
かなり以前の話だが、あるカメラ雑誌の編集部を訪ねたときのことだ。

非常に高名な写真家が編集長の向かいで、背筋をまっすぐにのばして数多くのモノクロ・プリントをはさんで、正対しているのを遠くから目撃したことがある。
こんな大家でも自分の作品を見せるときには身を正すということをこの目で見たのは、若輩者のわたしにとって新鮮で強烈な驚きだった。

つまり、的確な意見やアドバイスを言える人物に自分の作品を見てもらい、ときには耳の痛いことを言ってもらうということだ。
牛垣の写真はその一点一点には、ほとんど問題はないと思う。なかなかの感性すら感じとれる。

あとは自分の言いたいことを表すには、どのように構成するか、だ。
そこに一考の余地があると思えるのだが。

菊池東太

1943年生まれ。出版社勤務の後、フリー。

著作
ヤタヘェ~ナバホインディアン保留地から(佼成出版社)
ジェロニモ追跡(草思社)
大地とともに(小峰書店)
パウワウ アメリカインディアンの世界(新潮社)
二千日回峰行(佼成出版社)
ほか

個展
1981年 砂漠の人びと (ミノルタフォトスペース)
1987年 二千日回峰行 (そごうデパート)
1994年 木造モルタル二階建て (コニカプラザ)
1995年 アメリカンウエスト~ミシシッピの西 (コニカプラザ)
1997年 ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年 (コニカプラザ)
2004年 足尾 (ニコンサロン)
2004年 DESERTSCAPE (コニカミノルタ)
2006年 WATERSCAPE (コニカミノルタ)
2009年 白亜紀の海 (ニコンサロン)
2013年 DESERTSCAPE-2 (コニカミノルタ)
2013年 白亜紀の海2 (ニコンサロン)
2015年 日系アメリカ人強制収容所 (ニコンサロン)
ほか

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