いまカルチャーは音楽と路上で 何にざわついているのか – クリエイティブ圏外漢のクリエイティビティを感じる何か…〈vol.50〉
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
今年もCOACHELLA(コーチェラ)が開催されましたが、現地に行ったというツワモノの方もいるのでしょうか?COACHELLAはYouTubeで視聴派が多いと思うのですが、毎年観ていてもこれが無料で観れるってすごい事ですよね。
※COACHELLA……アメリカ・カリフォルニア州インディオで毎年4月に開催される世界最大級の野外音楽フェスティバル。ロック・ポップ・ヒップホップ・EDMなど多ジャンルが集まり、世界中から数十万人が来場する。公式YouTubeチャンネルでライブ映像を無料配信することでも知られる。
YouTubeでフェスを視聴したり、SNSに上がっている現場の動画もあわせたりと、音楽の楽しみ方は作品とライブを「視聴」するだけでない独特の体験になっている気がする。
いまの音楽を含めたカルチャーは、作品そのものだけでは完結しない。誰がそこに立っていたのか。どんな過去を背負っていたのか。どんな文脈のなかで受け止められたのか。そして、それがSNSでどう増幅されたのか。
2026年春を見渡すと、話題になっているのは単なる新作やライブではなく、”作品の周辺にある空気”そのものだと分かる。
今回はそんな ”空気” を感じるあれこれをご紹介。
Yeの公演でローリン・ヒルが現れたことの複雑さ
2026年春、Ye(イェ)ことカニエ・ウェストの公演が大きな話題になった。
※本名カニエ・ウェスト(Kanye West)。アメリカのラッパー・音楽プロデューサー。2000年代から世界的なヒップホップ・アーティストとして活躍し、音楽面での評価は非常に高い。一方で近年は反ユダヤ的発言や問題行動が相次ぎ、多くのブランドや企業との契約解除・社会的な批判を受けてきた。2021年に改名し、現在の名義は「Ye」。
理由は単純だ。久しぶりの大規模なステージだったこと。そしてそこに、ローリン・ヒル※Lauryn Hill。アメリカのR&B・ヒップホップ・ソウル歌手。1998年のソロアルバム『ミスエデュケーション・オブ・ローリン・ヒル』が全米500万枚超のヒットとなり、グラミー賞を5部門で受賞。ヒップホップ史に残る名盤として今も語り継がれる。その後は活動が散発的で、ライブへの出演も気まぐれなことで知られ、登場するだけでニュースになる存在が現れたこと。
Kanye West Brings Out Lauryn Hill at Packed L.A. Show
Yeのライブがニュースになるとき、それはたいてい音楽的な出来事である以上に、文化的・社会的な出来事でもある。ここ数年の彼は、作品の評価と、本人の言動をめぐる強い批判がどうしても切り離せない存在だった。
だから今回のステージも、単なる”カムバック公演”としては見られなかった。そこにローリン・ヒルが登場したことで、空気はさらに複雑になる。
もちろん、音楽的な意味で言えば、この共演は十分に事件だった。ローリン・ヒルは、ヒップホップとソウルの歴史において特別な位置を持つ存在であり、彼女がいまどこに立つのかはそれ自体が強いメッセージになる。
しかも彼女は、単に “伝説の人” として神棚に置かれるタイプのアーティストではない。現在進行形で影響力を持ち、出るか出ないか、立つか立たないかの選択そのものがカルチャー的な意味を帯びる人物だ。
だからSNSでは、この登場を「歴史的な瞬間」として熱狂的に受け止める声がある一方で、「誰が誰を正当化してしまうのか」という違和感も同時に広がった。
この二重性が、とても2026年的だと思う。いまのポップ・カルチャーは、感動したからそれでいい、では終わらない。名演だったことと、その人物を再び文化の中心に迎え入れるべきかは、別の問題として切り分けられる。
それでも人は、美しい瞬間に反応してしまう。強い声、強い存在、過去の記憶を呼び戻す一節。そういうものに、身体のほうが先に反応してしまう。
Yeの公演が可視化したのは、まさにそのねじれだった。
観客は、音楽そのものに揺さぶられながら、同時にその感動をまっすぐ受け取っていいのか迷っている。SNSはその迷いをそのままタイムライン上に並べてしまう。
祝福と拒否。感動と警戒。ノスタルジーと倫理。
その全部が、ひとつの公演のもとに同時に存在してしまう。
いまのカルチャーは、その複雑さごと受け止めるしかない場所にいる。Yeのライブは、そのことを極端なかたちで示した出来事だった。
[4К] YE LIVE AT SOFI NIGHT 2 FULL CONCERT 04.03.26
Fleaの『Honora』とNetflixのRHCPドキュメンタリーが同時に鳴らしたもの
この春、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ周辺ではふたつの動きが並行して話題になった。
※Red Hot Chili Peppers、通称RHCP。1983年結成のロサンゼルス出身のロックバンド。ファンク・ロックとヒップホップを融合させたスタイルで世界的な人気を誇る。『Under the Bridge』『Californication』『By the Way』などの代表曲を持ち、ロックの殿堂入りも果たしている。
ひとつは、Flea(フリー)の初ソロ・アルバム『Honora』。
※本名マイケル・バルザリー(Michael Balzary)。レッド・ホット・チリ・ペッパーズのベーシスト。跳び跳ねながら弾くアグレッシブなスラップ・ベースで知られ、ロック史上最高のベーシストの一人として広く認められている。もともとトランペットを学んでいた音楽的素地も持つ。
Flea feat. Thom Yorke – Traffic Lights (Official Visualizer)
もうひとつは、Netflixで配信されたレッド・ホット・チリ・ペッパーズ初期をめぐるドキュメンタリー作品『ライズ・オブ・レッド・ホット・チリ・ペッパーズ: 俺たちのヒレル』だ。
このふたつは性質がまったく違う。片方は現在進行形の新作で、もう片方はバンドの起源を振り返る映像だ。それでも同時に受け取ると、不思議なことが起きる。
どちらも結局、「RHCPの核とは何だったのか」という問いに触れているからだ。
『Honora』で印象的なのは、Fleaがロック・スターとしての自分を前面に押し出していないことだ。
多くの人にとってFleaは、跳ねるようなベースライン、むき出しの身体性、バンドの推進力そのものとして記憶されている。けれどこの作品で聴こえてくるのは、そうしたイメージよりもっと静かで、もっと個人的で、もっと古い音楽的な根っこに近い部分だ。
トランペット奏者としての出自。ジャズや室内楽のような余白。大声ではなく、息づかいで聴かせるような時間。
つまりこれは、”あのFleaがソロを出した” というニュースである以上に、”Fleaという人のなかにRHCPとは別の時間が流れていた” という発見として受け止められた。
SNSで目立ったのも、派手な驚きというより意外な静けさへの反応だった。「あのFleaがこんな音を書くのか」という感想は、軽い意外性の言葉でありながら、実際にはかなり深い意味を持っている。
人は長く知られたアーティストに対して、どうしても固定された像を持ってしまう。けれど『Honora』は、その像の裏側を静かに開いた。
一方、Netflixのドキュメンタリーは、バンド初期、とりわけ故ヒレル・スロヴァクの存在に光を当てる内容として受け止められた。
※Hillel Slovak(1962〜1988)。レッド・ホット・チリ・ペッパーズの創設メンバーであり初代ギタリスト。バンドのサウンドの原型を作った人物のひとりだが、1988年にヘロインの過剰摂取により26歳で死去。彼の死はバンドに大きな打撃を与えたと同時に、残されたメンバーが薬物と向き合うきっかけにもなった。
レッド・ホット・チリ・ペッパーズの歴史は、現在の巨大な存在感から逆算して語られがちだ。けれど初期の彼らは、まだ神話ではなく、生身の友人関係と、若さと、危うさのなかにいた。
ヒレル・スロヴァクという存在は、その原点を語るうえでどうしても欠かせない。だからこのドキュメンタリーが響いたのは、単に知られざる裏話があったからではない。あのバンドの熱や衝動が、どこから生まれていたのかをあらためて感じさせたからだ。
興味深いのは、こうした”起源を語る作品”がいまの配信プラットフォーム上で新たな命を持つことだろう。
昔なら、バンドの歴史は本人たちの発言や雑誌インタビューや伝説的な逸話によって編まれていった。でもいまは、プラットフォームそのものが神話の再編集者になる。
Netflixで観るRHCPの起源は、それだけで新しい視聴体験になっている。知っていた話であっても、どの順番で、どのトーンで、どんな映像とともに見せられるかによって意味は変わる。
そして、そのタイミングでFleaのソロ・アルバムがある。
これがとても面白い。
過去を振り返る映像と、現在進行形の個人的な作品が同時にあることで、RHCPは”完成したレジェンド”ではなく、いまなお編集中の物語として見えてくる。
過去が固まっていない。現在も固定されていない。だからこそ、彼らはまだ生きた文脈として響いている。
レッド・ホット・チリ・ペッパーズというバンドは、巨大な存在になりすぎたせいで、ときに記号のように扱われる。だがこの春起きたふたつの動きは、その記号の内側に、まだ人間的な揺れや、未整理な感情や、個人的な音楽の時間が残っていることを示していた。
GEZANの武道館は”到達”ではなく”持ち込み”だった
GEZAN(ゲザン)の日本武道館公演は、よくある意味での”バンドの到達点”とは少し違って見えた。
※2009年結成、大阪出身のロックバンド。マヒトゥ・ザ・ピーポーを中心に、既存の音楽業界の枠組みに縛られない活動スタイルで知られる。楽曲の無料配布や自主レーベル運営、反戦・反差別を訴えるメッセージなど、音楽と社会実践を一体化させた活動が評価されている。インディー・シーンを代表する存在でありながら、近年は大型フェスへの出演も増えている。
武道館という場所は、日本の音楽シーンにおいていまだに象徴的だ。そこに立つことは、成功の証として語られやすい。大きくなった、認められた、ここまで来た。そういう物語に自然と接続される。
けれどGEZANの場合、今回の武道館は”そこに辿り着いた”というより、”そこへ自分たちの空気を持ち込んだ”と表現したほうがしっくりくる。
彼らはもともと、単なるロック・バンドとして存在してきたわけではない。ライブハウス、自主企画、仲間たちとの接続、反戦や反差別を含む実践、そして音楽を社会の空気と切り離さない態度。
GEZANの活動はずっと、音楽そのものと、音楽を取り巻く共同体のあり方がほぼ一体のものとして進んできた。
だから武道館に立ったことも、既存の権威に回収される話ではなかった。むしろ逆に、武道館という巨大で制度的な場所を、一晩だけでも自分たちの文脈で染めることのほうに意味があったように見える。
ここで重要なのは、”反体制の人たちが大舞台に行った”という単純な話ではないことだ。
本当に面白いのは、GEZANが大舞台に合わせて自分たちを調整するのではなく、自分たちの空気のほうをそのまま持って行ったことだ。
つまり、会場の大きさが文脈を変えたのではなく、文脈の強さが会場の意味を変えた。
その感触はSNSにもよく表れていた。祝福の声は多かったが、いわゆる”出世したね”という言い方より、「あの感じを武道館で成立させたのがすごい」という驚きのほうが強かった。
これはかなり大きな違いだと思う。
成功の物語は、ふつう規模の拡大として語られる。でもGEZANの場合、規模が大きくなったことそのものより、大きな場所を使っても自分たちの温度や姿勢が薄まらなかったことのほうが価値として共有された。
そこには、「インディー」という言葉のいちばん美しい意味が残っている。
それは単にメジャーではない、ということではない。誰かのフォーマットに自分を合わせるのではなく、自分たちのやり方で場所の意味そのものを変えてしまうこと。
GEZANの武道館は、まさにそういう夜だった。
音楽は世界を一気に変えない。けれど、別の空気を先に体感させることはできる。別の共同体の感じ方を、数時間だけ現実化することはできる。その意味でライブは、政治ではないけれど、社会的な想像力の装置にはなりうる。
GEZANが武道館でやったのは、たぶんそういうことだった。
あの夜は、大きな会場で爆音を鳴らしただけではない。別の社会の空気を、ほんの少しだけ先に鳴らしてみせた。
動画は武道館ライブではないですが、最近の100時間リレーというまたざわついたライブです。
GEZAN『100時間リレー』ライブ&ドキュメンタリー
反トランプ・デモと日本の反政府デモの違いは”顔”の出方にある
2026年のカルチャーを語るうえで、路上の出来事を外すことはできない。
とりわけアメリカでの反トランプ抗議行動は、政治ニュースであると同時に、カルチャーのニュースでもあった。
No Kings III: National Day of Action – March 28, 2026
※「No Kings(王様はいらない)」は2026年に全米各地で展開された反トランプ抗議運動のスローガン。大統領権限の集中や民主主義の後退への懸念を示す言葉として広がった。
全米各地で”反トランプ”デモ ブルース・スプリングスティーンも参加 米史上最多800万人が参加(2026年03月29日)
※ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen)は「ザ・ボス」の愛称で知られるアメリカのロック・レジェンド。労働者階級の視点から社会を歌い続けてきた存在で、政治的な発言・行動でも知られる。
なぜか。そこに有名人がいたからだ。
アメリカのデモはしばしば、政治と文化の境界がかなり近い。俳優、ミュージシャン、作家や著名人が現場に立つことが、珍しいことではない。しかもそれは、単なる賛同表明以上の意味を持つ。
誰がそこにいたかが、そのまま運動の可視性になるからだ。
SNS時代において、抗議行動は現場の人数だけで広がるわけではない。どんな写真が残るか。どんな動画が拡散するか。誰の言葉が引用されるか。そこまで含めて運動の届き方が決まる。
アメリカでは、セレブリティの参加がその拡張装置として機能している。路上の抗議と、カルチャーのスター性がかなり自然に接続される。
そこには良し悪しがある。有名人がいることでメディアは取り上げやすくなるし、普段関心の薄い人にも届く。一方で、本来は無数の参加者の運動であるものが、”誰が来たか”に回収されてしまう危うさもある。
それでも現実には、可視化の力は強い。アメリカの抗議行動は、そのことをよく理解したうえで文化の形式を使っているように見える。
対して日本の反政府デモは、かなり異なる顔つきをしている。
もちろん日本にも、政治や社会問題に声を上げる著名人はいる。だが全体として見ると、アメリカのように有名人が運動の象徴として前に立つ形は主流ではない。
日本のデモは、もっと匿名的で、もっと身体的だ。
プラカード。コール。ドラムやサウンドシステム。歩くこと。立ち続けること。同じ場所に何度も集まること。
そうした反復そのものが、運動の骨格になっている。
これは可視性の面では不利でもある。スターがいないぶん、ニュースとして切り出しにくい。SNSで急激に広がる速度も、どうしても限定される。
けれど同時に、そこには別の強さがある。誰かの人気や発言力に依存せず、現場そのものの粘りで続いていく強さだ。
日本の路上には、派手な顔は少ない。でも、そのぶん現場の持続力が前に出る。
さらに興味深いのは、近年その場に音楽やDJカルチャー、サウンドシステム※もともとジャマイカ発祥の、大型スピーカーを使った音楽文化・音響システムの総称。レゲエやダンスホールの現場で発展し、その後ヒップホップやクラブ文化にも影響を与えた。デモの現場では、音楽やリズムで参加者の身体と気持ちをつなぎとめる役割を果たす。的な感覚が自然に混ざりつつあることだ。
これは運動の軽薄化ではない。むしろ逆で、怒りを持続させるための形式を探しているのだと思う。ただ叫ぶだけでは続かないものを、リズムや身体感覚が支える。
政治的な場であると同時に、文化的な形式が必要になる。そうしないと、人は長くそこにいられない。
アメリカでは、有名人がその可視化を担う。日本では、現場の匿名性と身体性がその持続を担う。
やり方は違う。けれどどちらも、政治とカルチャーが実は思っている以上に深く結びついていることを示している。
いま路上で起きていることは、政治の話だけではない。どうやって人が集まり、どうやって気持ちを共有し、どうやってその場の熱を持続させるかという、文化の話でもある。
そしてそれは、ライブや映画や配信作品と同じくらい、いまの時代の空気を映している。
いまカルチャーを追うとは、作品そのものより”周辺の空気”を読むことかもしれない
Yeの公演にローリン・ヒルが立ったこと。Fleaが静かなソロ作を出したこと。NetflixがRHCPの起源をもう一度編み直したこと。GEZANが武道館を自分たちの文脈で鳴らしたこと。そして路上で、デモが文化の形式を借りながら持続していること。
これらはジャンルも場所も違う。それでも、どれも作品単体のニュースでは終わらない。
そこには必ず、背景があり、歴史があり、社会の空気があり、SNSでの受け止められ方がある。
つまりいまのカルチャーは、作品だけで成立していない。作品が置かれた状況や、そこで誰がどう反応したかまで含めてひとつの出来事になっている。
タイムラインは騒がしい。話題はすぐ流れる。誰かの一言で意味が反転し、一枚の写真で空気が変わる。
でも、その騒がしさをただノイズとして退けてしまうと、たぶんいまの時代の輪郭は見えない。
カルチャーがどこで火を噴くのか。誰がそこに立つと意味が変わるのか。何が祝福され、何がためらわれるのか。
そういう細かな温度差のなかに、いまを生きる人たちの感情がある。
だから2026年春のカルチャーを追うことは、新譜やライブ情報を追うこと以上に、人々が何にざわつき、何を保留し、何に身体を反応させてしまうのかを読むことでもある。
作品はもう、作品だけではない。その周辺に立ち上がる空気ごと、私たちは受け取っている。