本つくりにこだわるブックデザインの世界 ~ものすごくすてきで、ありえないほど複雑な本~ 後編
ものすごくすてきで、ありえないほど複雑な本
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活字の色や活字の組み方の違い以上にもっとすごいことを考える人がいる。前編に書いたように、原作を読んで、映画化されたものを観てがっかりすることはある。逆に、映像を観た後で、原作を読んだらどう思うのか?そんなことを試してみたことがある。トム・ハンクス、サンドラ・ブロック主演で2012年に上映された『Extremely Loud & Incredibly Close』、日本名はいまだに覚えられない『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』という映画。9.11アメリカ同時多発テロ事件で愛する父親をなくした主人公の少年が、父の遺品のなかにあった鍵とメモの真相を解くために、ニューヨークの街を奔走するというおはなし。映画を観た後で、原作を読んでみたらやはり、ジョナサン・サフラン・フォアの原作のほうが数段面白かった。「ビジュアル・ライティング」と評される手法を用いたこの小説は、謎を解く鍵になる写真やカラフルな手描きの文字、赤ペンで校正された文章、暗号のような数字の羅列、失語症の老人の脳の中身をあらわす黒く塗りつぶされていく文字などの視覚的にみせる要素と文章が密接に絡まって物語は展開する。原著と日本語訳の両方を見比べるとさらに面白い。右開きと左開きのちがいがあるので、左右逆になる写真をどうレイアウトし直しているのかとか、塗りつぶされていく横組みの欧文を縦組みの日本語でどう表現するのかとか。
さらにロンドンの出版社、Visual Edition 社から2010年に刊行した『Tree of Codes』。
《「ヴィジュアル・エディション」からは、ある日突然メールをもらったんだ。“新しい出版社でお金はないんです” “だからあなたへのギャラもほとんど払えません”……って、そこには“できない”ことのリストがずらりと並んでいて“でも、あなたの作りたい本を作ることはできます”って書かれていた。それならやってみよう、って「コヨーテ / SPECIAL ISSUE 2013 特集TOKYO LITERARY CITY ジョナサン・サフラン・フォア 制約とトラウマと小説 text by Akune Sawako」》。名もない小さな出版社からの申し出に興味をもったフォアは「それではダイカット(型抜き)の本がつくりたい」と返事した。ダイカットの本をつくる(オリジナルの文章から言葉を切り取って、違う文章をつくる)ことは、何年もの間、彼が考えていたことで、辞書や百科事典、電話帳、フィクションやノンフィクションのさまざまな作品、自分の小説で、その手法を試みたがいまひとつそこに意味を見出せないでいた。何かを消去することによって継続して新しい何かを生み出す? 1年かけてたどりついたのが、ポーランドの画家であり作家であるブルーノ・シュルツの『The Street of Crocodiles、日本語訳では、大鰐通り』だった。ただフォアはこの小説が好きすぎて、それを変えたり、削ったりすることになおも思い悩んだ。何度も何度も読み返し、フレーズを記憶したうえに掘り起こされたような詩のような文章(親の死を受け入れようとする少年の視点から語られる物語)をようやく生み出したのだ。本のタイトルは『Tree of Codes』。
ブルーノ・シュルツの『The Street of Crocodiles』の「The」の「T」、「Street」の「ree」、「of」の「of」、「Crocodiles」の「Codes」。本のタイトルも、文字を削り出してつけてある。『The Street of Crocodiles』は、それ以前では、1986年にアメリカのブラザーズ・クエイが実験的短編アニメーションとして使ったことでも有名だ(フォアの小説とはまったく内容は違うけれど)。
この本を日本の製本会社のマイスターの方に見せて、日本でもつくることはできるのか? と聞いたことがある。「無理だ」と彼は即答した。技術的にも難しいし、なによりまずコストが見合わないと。この本の中身のダイカットのページを担当したロンドンのデザイン事務所、Sara De Bond Design と出版社、Visual Edition もやはりいろいろな印刷製本会社に「無理だ」とことわられる。ようやく探したのがベルギーの印刷会社 die Keure。世界を代表するオランダのブックデザイナー、イルマ・ボームがデザインしたアムステルダムの The Rijksmuseum の複雑な折りの公式図録などを制作するところだ。この本の奥付をみるとおもしろいというか何か執念のようなものを感じる。印刷はベルギーの印刷会社 die Keure。すべてページの違うダイカットを担当するのは、オランダの Cacher。ダイカットしてヒラヒラになったページを手作業で丁寧に重ねていくのはベルギーの Beschutte Werkplaats Ryhove、それを最後に彫刻のオブジェのように本の形にするのはオランダの Hexspoor が担当している。ちなみにロンドンの出版社、Visual Edition は、グラフィックデザイン史を専門とするパリ生まれのアナ・ガーバーと、コペンハーゲン出身のブリット・イバーセンの二人が立ち上げた会社で、ダイカットの本文のデザインをしたサラ・デボンはベルギー生まれ。カバーのデザインはアメリカ人ジョナサン・サフラン・フォアと何度もコンビを組むイギリスの gray318 ことジョン・グレイ、多国籍軍なのだ。
ジョナサン・サフラン・フォアが新しいものを生み出したわけで彼に光が当たることは当然だが、忘れてはいけないのは、これらすべてのひとが最善をつくしているからこそ、この奇跡のような書籍が手元に届けられているということを。
制作課程をここで見ることができる
Tree of Codes by Jonathan Safran Foer: Making Of
https://vimeo.com/20869635
最後に2013年3月1日から3日に、早稲田大学をメイン会場にひらかれた「東京国際文芸フェスティバル」のなかのプログラム、「これからの本の話をしよう」について。批評家で編集者の市川真人がモデレーターになって、ジョナサン・サフラン・フォアとチップ・キッド(装丁家、村上春樹のアメリカでの翻訳本をすべてデザインしている)、円城塔(小説家、2018年に『文字渦 』という実験的な本を出版)の三人が「これからの本」の話しをするというので、聞きに行った。市川の最近の試み(文章をネット上にあげて、それをみた読者が続きを自由にかきかえていく)に対して、「それはもはや自分の創作ではない」とフォア、キッドのふたりが激していたのを円城がとりなすというか「自分は創作だと思う」と返す、丁々発止の鼎談だった。詳しくは「コヨーテ / SPECIAL ISSUE 2013 特集TOKYO LITERARY CITY これからの本の話をしよう text by Konishi Juri」に簡潔に編集されているので興味のあるかたはぜひ。
その記事のなかのジョナサン・サフラン・フォアの言葉を最後に引用する。《本を読む行為って、個人が本と向き合って没頭しないとできませんよね。映像表現と違うのは、言葉で木を描写すると紙の上の「Tree」という最小限の文字に、人はさまざまな個人的な思い出や過去の記憶をたぐり寄せて、一本の木を思い浮かべます。それは読者と書き手の協力関係から生まれるもの。本が好きな人は、紙という制約があるからこそ、親密かつ芸術的な実感を得られることに惹かれるんです》。
ジョナサン・サフラン・フォアの『Tree of Codes』はまさにそういう「ものすごくすてきで、ありえないほど複雑な本」だ。
参考文献
『EXTREMLY LOUD & INCREDIBLY CLOSE』Jonathan Safran Foer HOUGHTON MIFFFLIN
『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』ジョナサン・サフラン・フォア 近藤隆文訳 NHK出版
『TREE OF CODES』Jonathan Safran Foer Visual Editions
『Coyote 特集 TOKYO LITERARY CITY』SPECIAL ISSUE 2013 Switch Publishing
『シュルツ全小説』ブルーノ・シュルツ 工藤幸雄訳 平凡社
『クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム』公式図録兼書籍 求龍堂
『文字渦』円城塔 新潮社
文:守先正
装丁家。1962年兵庫県生まれ。筑波大学大学院芸術研究科卒業。
花王、鈴木成一デザイン室を経て、‘96 年モリサキデザイン設立。
大学の先輩でもある鈴木成一氏にならい小説から実用書まで幅広くデザインする。
エリック・カール『ありえない!』偕成社、斉藤隆介、滝平二郎、アーサー・ビナード『he Booyoo Tree モチモチの木』などの絵本のデザインも手掛ける。