【写真学校教師のひとりごと】vol.25 田村俊介について

わたし菊池東太は写真家であると同時に、写真学校の教員でもあった。
そのわたしの目の前を通り過ぎていった若手写真家のタマゴやヒナたちをとりあげて、ここで紹介してみたい。
その人たちはわたしの担当するゼミの所属であったり、別のゼミであったり、また学校も別の学校であったりとさまざまである。

これを読んでいる写真を学ぶ学生も作品制作に励んでいるだろうが、時代は違えど彼らの作品や制作に向かう姿が少しでも参考になれば幸いだ。

▼前回【写真学校教師のひとりごと】
【写真学校教師のひとりごと】vol.24 久保木英紀について⑤

3年生コースが始まって、まだ間がないころだ。
田村は3年生の10月に、コニカのフォト・プレミオでデビューした。
当時コニカは若者にとって選考を通すのが最も難しいギャラリーの一つだった。

ライバルのニコンのユーナは2年前に始まったばかりだ。

卒業する前にメジャーな会場で展示をした学生は、いままでに何人かいるが、彼はそのうちの一人である。
田村はその後もニコンのほかガーディアン・ガーデンなどで展示を重ねていく。

生き物の死体とそのレプリカ、つまり本物と偽物だ。
だが物体としての存在は同価値である。

また、同居する定年を迎えた父親との日々の記録は自分にとってはとても重要なものであり、今後も撮り続けようと思う。
など、一癖ある田村らしいコメントと共に発表された。


この記事のために久しぶりに彼に会った。
すると、このごろは発表のための写真を撮っていない、という。
自分の想いと写真を見ての他者の感想が大きく食い違うことが多く、想いがすんなり伝わらないので、他人に向けて発表する意味合いが感じられなくなった。と、その理由を述べた。

わたしも写真展は何回かやっているが、わたしの写真はドキュメンタリー写真と言われるもので、実際の記録にもとづいたものだ。
だから田村の写真のように自分個人の想いをぶつけるものとはかなり異なっているので、そのようなギクシャクした感情や想いをいだいたことは、わたしはない。
だがこういった考えは田村らしくってなかなか面白いのだが。

ただ、人間というものは一人一人異なった考えを持っているものだ。完全に同じ考えというものはないだろう。
だから自分の考えを発表して、完全に同意されなくてもしょうがないとわたしは思っている。
田村は同意ではなく、自分の主張していることがちゃんと正確に伝わらないのが気に入らないと言っている。
「同じことを述べても意味が異なって伝わることがある。」それを田村はイヤがっているのだ。
それなら、わざわざ物事を述べても意味がないのではないか、とかれは考えるのである。

だがここでも同じことを言うしかない。
人によって同じものごとでも受け取り方は千差万別である。
人それぞれ異なった環境で生まれ育ち、さまざまな環境で生きてきたのだ。
同じようなできごとでも受け取りかたや感じかたはいろいろある。

そこに10人いたら10通りの受け取り方がある。似たようなことでも微妙に違うのだ。
それが機械ではない人間の面白さだとわたしは思うのだが。

でもそんなことは分かっているのだろう。
とにかく、自分の想いを第三者に理解してもらうのは至難の業である。

同じようなことを手をかえ品をかえ、考えつく限りの方法で自分の想いを主張しなければならないのだ。
そうしないと自分の想いが他人に届くことはないのではないだろうか。
そう考えたら、写真を撮って発表することをやめることはないんじゃない。もったいないよ。

手をかえ品をかえ撮って発表しようよ・・・・・。

菊池東太

1943年生まれ。出版社勤務の後、フリー。

著作
ヤタヘェ~ナバホインディアン保留地から(佼成出版社)
ジェロニモ追跡(草思社)
大地とともに(小峰書店)
パウワウ アメリカインディアンの世界(新潮社)
二千日回峰行(佼成出版社)
ほか

個展
1981年 砂漠の人びと (ミノルタフォトスペース)
1987年 二千日回峰行 (そごうデパート)
1994年 木造モルタル二階建て (コニカプラザ)
1995年 アメリカンウエスト~ミシシッピの西 (コニカプラザ)
1997年 ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年 (コニカプラザ)
2004年 足尾 (ニコンサロン)
2004年 DESERTSCAPE (コニカミノルタ)
2006年 WATERSCAPE (コニカミノルタ)
2009年 白亜紀の海 (ニコンサロン)
2013年 DESERTSCAPE-2 (コニカミノルタ)
2013年 白亜紀の海2 (ニコンサロン)
2015年 日系アメリカ人強制収容所 (ニコンサロン)
ほか

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