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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.20 化学と民俗学から生まれる実験的映像 内藤正敏『婆 東北の民間信仰』(ソノラマ写真選書 1979年) 鳥原学

内藤正敏は、写真と民俗学、2つの分野で多くの功績をのこした希な表現者である。
古文書などの文献や資料を読み解くだけではなく、自ら修験者として、身体を使ったフィールドワークを重ねて新しい映像を貪欲に求めた。日本文化の巨大な水脈に横たわる古層や知られざる側面を鮮やかに浮かび上がらせたのだった。

 

呪術としての写真

写真には呪術性があることを、多くの人はどこかで信じているはずだ。かつては「写されると魂が吸い取られる」といった類の話があったり、心霊写真が流行ったりしたのもその表れのひとつだろう。それらを迷信として片づけるのは簡単でも、 奇妙な予感、見えない世界が写ってしまうことへの期待と恐れはどこかに残るものだ。

内藤正敏は、そんな見えない世界への扉を開けてしまった写真家だと思える。その作品は、見えている現実を支配している、見えない力の顕現(あらわれ)をとらえている。それは「SF写真」と呼ばれる初期のシリーズから始まり、日本のミイラ、東北地方の民間信仰、 江戸期から続く怪しい見世物、 東京の闇、そして曼荼羅としての富士山の風景写真まで一貫していた。

彼の作品群を読み込んで驚くべきは、その瞬間をつかむ写真的な反射神経と、コンセプトを裏付ける労力だろう。内藤は膨大な文献を精査するほか、山岳信仰の修験道を実践するなど、自らの身体を酷使し、徹底したフィールドワークを重ねてきたのだった。それは近代になって失われた、見えないものを見るための、呪術的能力を再び獲得するための修練であった。その結果が写真家としても民俗学者としても第一級の仕事を果たし、写真集をはじめ多数の著作となっている。

ここにとり上げる、1979年に出版された『婆 東北の民間信仰』(ソノラマ写真選書)はそうして生まれた代表作のひとつだ。本書を開けば、闇の中に浮かんだ高齢女性の強烈な表情が飛び込んでくる。恐恐山のイタコをはじめ、盆踊りに興じたり、地蔵会でお堂に泊まり込んだりするおもに東北の女性たちだ。その強烈なポートレイトが即身仏、地獄図、動物絵馬、遺影、墓石に刻まれた肖像など、死の世界を表した奇怪とも言える表象物とともに構成されている。先祖の霊に呼びか対話する女性たちの、闇の中に響きわたる祈りの声や哄笑が聞こえてくるようでもある。本書自体が強烈な呪術性を帯びていると言って良い。あとがきで民俗学者の宮田登は「これが家の主婦をつとめる女の役割だったのだろう」と述べ、まさに内藤は東北地方に根差す女の宗教体系を見事に浮き彫りにしたと評している。

この浮き彫りという一言葉は、必ずしも比喩ではない。ストロボ光によって対象を強烈に浮かび上がらせているからだ。フラッシュライトをクローズアップで使ったこの撮影手法は今やよく知られているが、意図的な表現として使い始めたのが内藤である。彼はこれによって撮影時点に気づかないことが画面に現れてくることに衝撃を受け、その偶然性にこそ、写真本来の面白さを見出したのだった。「当時の私には、ストロボが人間の想像力をぶち壊してくれるようなところに非常な魅力を感じていた」と内藤自身は語っている。

こうして生まれた写真は、東北人の信仰と死の世界との近さを示している。歴史的に見れば東北は常に畿内や関東の政権側から厳しい支配と監視とを受けてきた地であり、敗者であり続けてきた。その人々の信仰を表現することは、勝者が作ってきた、日本の正史とされる物語(ナラティブ)を問い直すことに他ならなかった。

内藤は「異貌の東北」と題した手記に、「東北が敗者の歴史であるからこそ、もっとも人間の奧深いところから、“もう一つの日本”が見えてくるのだと思います」と書いている。内藤の写真は無念に倒れた人々の視線となって、いまも私たちの認識を照らし出している。それは修練のなかで獲得した呪術的な力でつかみ出した、勝者と敗者の関係が反転したリアルなビジョンなのである。

 

実験的表現への挑戦

内藤は1938年に東京の蒲田で生まれ、太平洋戦争の敗色が濃くなった5歳のときに愛知県の富田町に越している。この片田舎で2年生の2学期までを過ごすが、敗戦前後の混乱のなか、ずいぶん辛くひもじい思いをしたという。その後、東京に戻ると彼の一家は麻生に住むのだが、当時は焼け野原が眼前に広がっていた。そのすべてが失われた通りを派手な衣装のパンパンガールが闊歩する姿に、なんだかたくましさを感じた。

写真を始めたのは中学時代で、雑誌『少年クラブ』付録のカメラがよく写ったことで興味を惹かれたからだった。 やがて小遣いを貯めて簡単な二眼レフカメラを求め、撮影に熱中した。早稲田高等学院に進むと写真雑誌への投稿も始め、『カメラ』誌の月例コンテストで高校の部の年度賞を獲得している。一方でカフカの不条理小説に影響を受けたり、昆虫の観察にも熱中したりしている。シュールな世界観への憧憬と生命についての興味、そして写真表現。内藤の心を捉えたこの3つの要素はやがて強く結びつき、表現者としての基盤となる。

やがて高校を出るころには、生命の発生をより科学的に捉えたいと考えるようになり、早稲田大学の応用化学科に進む。むろん写真部にも入って熱心に活動を続けた。当時の内藤について、写真部の月例に招かれた写真評論家の渡辺勉は、社会問題をテーマとしたリアリズム写真が多い学生たちのなかで「珍しく表現主義的な手法による主観的ドキュメント」を撮る饒舌な学生だと、その印象を書いている。内藤の饒舌さは生涯変わらなかった

異才は学外でも発揮された。1959年には『カメラ芸術』誌の月例に「現代」「黒い太陽」「銅像と鳩」といったシュルレアリスティックな写真を応募して年度賞を獲得。翌年、翌々年とそれらを東京国立近代美術館の「現代写真展」に出品している。

大学卒業後は倉敷レイヨンの中央研究所に入り、ポリビニルアルコールの研究に携わっているが、当時内藤が影響を受けていたのはソ連の生化学者オパーリンが説く新しい生命の起源だった。それは次のようなから理論だと内藤はやはり饒舌に解説してくれた。それはまさに専門家の言葉だった。

「私たちの住む地球は、約45億年前に太陽系第三惑星として誕生したが、その原始地球の大気は、メタン、アンモニア、水素などに覆われていました。この原始地球の大気に雷が発生したことを想定して放電すると、実験容器の水(原始地球の海)にアミノ酸が合成されました。これはシカゴ大学のスタンレー・ミラーの実験として知られています。

オパーリンは、無機物的に合成されたアミノ酸などの有機物が海の中でコアセルべート(液滴)を作って集まり、凝縮、反応して高分子化合物に成長し、アミノ酸はタンパク質へ。やがて原始的な地球生命になると考えたのです」

内藤はこの生命のドラマに創作のイマジネーションをかき立てられ、1963年に初の個展「Z・A・Z」を開催。これは宇宙の終わりから始まりへ、また終わりへという宇宙と生命の壮大なる写真叙事詩だった。この年、「白色矮星」でカメラ芸術新人賞、「デッドシティ」 で二科賞を受賞。翌年に「新宿幻景・キメラ」を発表した。いずれも宇宙や生命をテーマとする、 新しい実験的な作品だった。

 

大きな発見

これらの賞金を得て、翌年、内藤は初めて東北に旅をしている。目的は山岳信仰の拠点、山形県の出羽三山にある湯殿山でミイラを見ることだった。このころの内藤は、生命と宇宙について深く考え仏教思想を研究していた。ことに56億7千万年後に衆生を救うという弥勒菩薩とその信仰に興味を持ち、その弥勒信仰が日本のミイラ、自ら食を断ち生きながら土の中で入定を果たした「即身仏」と関係することに強い興味を覚えていた。

現地で初めて見るミイラに内藤は強い衝撃を受けたという。「死者の即身仏が生きている私を見つめていると感じられたと振り返る」が、確かにそれは生者と死者の視線が逆転している場であった。内藤は写真も撮らず、その不思議な存在と対峙するため何度も湯殿山に通い、やがて修験道の修行にも入った。その結果、通説と違う点に気づいていくことになる。たとえば多くの即身仏の入定の時期が藩の圧政や大飢饉の時期と重なること、断食の過程で食するものが飢饉時の救荒食だったこと、そして入定するのが時を経るごとに武士に反抗した人物になっていくことなどだ。つまり自らが即身仏になることもそれを信仰の対象として拝むことも、虐げられた人々の抵抗であり「隠された一揆」ではなかったのかという仮説にたどり着いたのだった。

この認識を得た背景には、ベトナム戦争の影響も色濃くあった。当時、南ベトナムでは体制に抗議する僧侶たちが、読経をしながらガソリンを被り、焼身自殺する姿が相次いで報道されていた。そのイメージに、日本の即身仏と通じるものを見たのだ。内藤はこうした発見と体験を重ねてようやく即身仏の撮影に取り掛かる事がでた。その成果は、1966年に個展「日本のミイラ」として発表され、語られてこなかった、もうひとつの日本の歴史を問うたのだった。

そしてこの直後、内藤は日本写真史上における大発見をしている。1968年6月に開催された日本写真家協会が企画した「写真100年日本人による写真表現の歴史展」に編纂委員として参加したさいに、現在では「北海道開拓写真」として知られている、明治初期の北海道開拓のもようを記録した写真資料を再発見したのだった。

彼が驚いたのは、田本研造など忘れられていた写真師たちの写真には作家意識を超えた生々しい強度があったからだった。「北海道開拓写真」は写真における記録と表現の関係を見直させるもので、その後の写真表現に極めて大きな影響を与えることとなった。内藤自身も『世界』誌に寄せた一文に「我々はその延長線上で仕事をしていかなければならない」とその決意を記している。

そして翌年、内藤は『フォトアート』誌で「東北の民間信仰」を連載する。強烈な光で闇の中の対象を浮かび上がらせた作品は好評を博し、翌々年には、このシリーズをまとめた個展「婆バクハツ!」を開催。大きなプリントをピン留めで三段掛けにした展示は観衆を圧倒した。また同年には「見世物看板大写真展」を見世物小屋の巡業の先々で開催した。

以降、写真表現と民俗学的理解の両者が、高いレベルで相互に作用する。民俗学の起点となった岩手県遠野での取材は1983年の写真集 『遠野物語』に結実し、独自の「金属民俗学」 の始まりともなった。さらにその目は東京の「ムラを捨てた流れ者が逃げ込む絶望的な闇」 に転じて、1985年には写真集『東京——都市の闇を幻視する』を出版。江戸や東京の地霊的研究でも多くの成果を上げた。

こうした業績の集大成は法政大学出版局から刊行された全4巻の著作集『内藤正敏 民俗の発見』にまとめられている。収録された論考からはその重層的視点が窺えるが、それは内藤自身の次の言葉に要約されよう。

「私にとって写真が想像力を掻きたててくれる呪具であるとすれば、民俗学は視えない世界を視るための“もうひとつのカメラ”であるといってよい」

 

内藤正敏(ないとう・まさとし)

1938年東京都生まれ。早稲田大学応用化学科卒業。倉敷レイヨンに1年間勤務した後、フリーの写真家に。独自の表現手法を用いた写真家としても、民俗学者としても活躍。東北芸術工科大学大学院教授、東北文化研究センター研究員を務めた。主な写真集に『出羽三山』『遠野物語』『東京——都市の闇を幻視する』『岡本太郎 神秘』(共著)など。土門拳賞、日本写真協会年度賞、遠野文化賞などを受賞。

 

参考文献

『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1964年4月号 伊藤知巳「批評家の発言 新人「内藤正敏・キメラ」について」
『世界』(岩波書店) 1968年 内藤正敏「北海道開拓時代と記録写真(グラビア解説)」
『季刊 KEN No.2 第2号 怨念と狂気』(写研 1970年)「独白 見世物看板写真師/内藤正敏」
『美術手帖』(美術出版社) 1970年8月号
「機会とともに見る「沈黙」と「現在」の思想=森永純×内藤正敏×栗原達男×中平卓馬×刀根康尚」
鈴木志郎康『写真有心』(フロッグ 1991年)「内藤正敏 魂の闇を写し取る」
『遠野物語の原風景』(ちくま文庫 1994年)

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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