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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.1 風景写真の革新者 竹内敏信の『天地聲聞』(講談社、1995年)鳥原学

雷光や波しぶきといった大きな風景から、滴に濡れる綿毛などの小さな風景まで、竹内敏信の写真は、日本の自然がどれほどフォトジェニックかを世間に強く知らしめた。35ミリ判カメラとズームレンズを使うという画期的な手法とともに、風景写真の流行が始まる。

新しい風景写真

ひとりの写真家によって、写真をめぐる状況が大きく変わることが稀にある。竹内敏信の登場はその例といえる。竹内の1985年の写真集『天地聲聞』は、以降の風景写真ブームの起爆剤となったのだ。『天地聲聞』というタイトルは「自然を師とし、天地の摂理を悟る」という仏教用語からとられている。表紙に記された「日本人の原風景」という言葉は、日本人の歴史的な自然観を現在の風景を通してここに示す、というマニフェストである。竹内は百年前の日本人を想定し、この本を作ったと述べている。

本編は、3つのパートから構成される。最初の「天と地」はドラマティックだ。飛行機の窓から捉えた輝く雲海から始まり、視点は大地に降下してゆく。続く「四季」では、移りゆく季節が厳しくかつ丹念に描写されている。ここまでは男性的な表現だが、最後の「光・水・風」のトーンは一転して穏やかで、全体として読後に味わい深い余韻を残す。写真家の身体的反応のよさと、映像的なボキャブラリーの豊富さが印象に残る。

このメッセージを持った大胆な風景表現が、日本の写真シーンを一変させていったのである。

この点をあまり強調すると現在の読者は違和感を持つだろうか。だが実際に、風景写真というジャンルは戦後の写真表現でさほど重視されてこなかった。風景写真といえば民族史的な視点から土地柄を表現するか、もしくは自然の中から抽象的な造形性をつかみ出すことが主流となっていた。自然美を真正面からテーマに据えた作品というのは、マイナーな存在だったのだ。

たとえば1976年出版の、写真評論家・田中雅夫による『現代カメラ新書 No.25 風景写真研究』を読むと、自然をテーマにした風景写真そのものがすでに古びているという指摘がある。田中は日本社会が複雑になったため「風景写真という言葉自体がそうした今日の状況に合わなくなってきた」とさえ述べ、評価されるべきは、カメラによって単なる自然美ではないものを創り出そうとする写真家だとしている。

この状況は、1980年代になってようやく変化し始めた。まず前田真三の、優れて日本画的と評される、端正で明るい色彩感覚にあふれた風景写真が人気を集めた。しかし、大型や中判カメラを駆使する前田の写真は美しくとも、写真雑誌のおもな読者であるアマチュアからは遠いところにあった。それをぐっと近づけたのが竹内の方法論だった。

『天地聲聞』が革新的だったのは、動感にあふれた写真が、すべて35ミリ一眼レフによって撮られているという点にある。それまで35ミリは、描写力に劣るという点から風景写真に不向きだと言われていた。竹内自身もそれはよく認識しており、『写真リアリズム』誌(228号)におけるインタビューで、「僕が本当に風景を始めた頃は、35ミリで風景を撮るというのは非常に非常識なことでした」と語っている。非常識と知りつつ取り組むには、独自のセオリーとよほどの確信が必要だ。風景写真に至る以前の活動の中で、竹内はそれを積み上げていたのだった。

 

炭鉱や公害問題を撮る

言うまでもなく、35ミリ一眼レフの最大の利点は機動性にある。一見して静かに見える自然の表情も、時間とともに刻々と変化し、それを観賞する人の心もまた揺れる。この2つがシンクロするとき、絶好のシャッターチャンスが訪れると竹内は言う。そして、この決定的瞬間を逃さないために一眼レフを使い、しかもシャッタースピード優先で撮影する。これは身についたドキュメンタリー写真的な作法の応用だったのである。

風景写真の相対的な位置について、もう少し話しておきたい。戦後の写真表現を主導したのは、1950年代の土門拳のリアリズム写真運動に代表されるドキュメンタリーだった。一方で風景写真は、戦前の裕福なアマチュア写真家たちによる社会の現実を見ない芸術写真の風潮をひきずるものとして、批判の対象でさえあった。1943年生まれの竹内の場合、年齢からいっても、まずドキュメンタリーの洗礼を浴びるのは必然だった。

竹内の出身地は愛知県の宮崎村(現在の岡崎市)。中学時代から写真を始め、高校・大学を通じて写真部に在籍し、コンテストや写真雑誌の月例で活躍した。名城大学4年の1965年には、春日井市の亜炭鉱を取材した作品で、ドキュメンタリー写真家への登竜門だった太陽賞んい応募。ベスト8に残るほどの実力を示している。

大学卒業後、竹内は愛知県庁に就職するものの、写真への情熱はさらに高まり、並行して『毎日グラフ』や『婦人公論』などへ積極的に寄稿する。『毎日グラフ』に掲載された写真のタイトル、たとえば「がんばる一号線」、「消えた赤字線」、「鉄の町」などを見るだけで、当時の志向を読み取ることができる。

1972年に銀座ニコンサロンで発表した「汚染海域ー伊勢湾からの報告ー」はその成果だった。2年にわたって伊勢湾一帯の公害問題を撮影したこの作品で個展を開催し、さらに総合誌『世界』のグラビアでも発表。そして同年のうちに県庁を退職し、社会派の写真家としての道を歩き始めた。

竹内は公害による環境破壊というテーマに取り組む一方で、日本の民族祭事にもその眼差しを向けていた。奥三河地方の各地で11月下旬から正月の間に行われる「花祭り」に、1970年から13年にわたって取り組んでいるのだ。夜を徹して神楽を舞い明かすこの神事の熱狂は、1983年の写真集『花祭』に余すことなく収められている。

この年にはもう一冊、『日本の野生馬』も出版している。北海道の根釧台地から沖縄の離島まで、日本各地に点在する在来種の馬の群れを追った作品である。自然と一体になった躍動する馬の姿は、かつて古代人も見ていた風景の表現である。これは後に竹内が語る「日本の原風景」と、ほぼ同じコンセプトが含まれている。

また、この時期に各写真雑誌に発表された作品に目を通すと、後の風景写真への展開を予感させるものが少なくない。竹内の歩みは、環境問題に対する使命感から始まり、民俗祭事への興味、さらにその基底にある、日本の自然美の発見につながっていったのだ。

 

「向こうから風景がやってくる」

1982年、40歳を前にした竹内は東京に拠点を移す。翌年に2冊の写真集を出版したのもひとつの区切りとなって、いよいよ本格的な風景写真への取り組みが始まる。ドキュメンタリー写真家としての限界ということも、考えていたのかもしれない。学研から刊行された『風景写真術』(1993年)ではこうも語っている。

「もともと僕は人物が苦手だと思っていたし、撮っていてもおもしろくないんですよ。苦手なことをやっていても一人前にはなれないし、苦手なことはやめてしまおうと結局考えたんですね」

風景写真を撮り始めた時点では、竹内はまず“常識”的なアプローチをとり、大型カメラで撮影した。だが違和感があって撮影に集中できなかったという。そこで35ミリ一眼レフへと回帰するのだが、そこには技術的な面からの判断もあった。

この1980年代前半、35ミリ一眼レフカメラのメカニズムはほぼ完成の域に達していた。電子化が進んでAE(自動露出)への信頼性が高まり、ズームレンズやマクロレンズなどの交換レンズ群が出揃い、撮影の応用範囲が広がっていった。同時に印刷に適したリバーサルフィルムの発色性や粒状性も飛躍的に向上している。風景写真に使える可能性が開けていたのだ。もちろんプリントで見せるとすれば、画質では大判カメラに及ばない。だが写真集などの印刷メディアでの表現であれば、その差は問題ではないという読みもあった。竹内は、非常識な可能性をこうした面から探り当てていった。

可能性は、1984年にキヤノンのカレンダーに作品が使われたことで示された。竹内が風景に取り組んでいたことを知る者は少なかったが、『天地聲聞』と題されたカレンダーは多くの人目に触れて話題を呼び、翌年の写真集の出版へと繋がった。ふたつの『天地聲聞』の評判は極めて大きく、竹内のもとには風景写真の依頼が集中し始めた。

当時、学研の写真雑誌『CAPA』の編集長だった阿部庄之助も竹内に注目したひとりである。阿部は、竹内に特写(撮り下ろし)を依頼するのだが、相当の神経をつかったと振り返る。天候に左右される風景写真の特写は、写真雑誌で例がなかった。また当時の読者は10代から20代が中心で、彼らに風景写真が受け入れられるかどうかと気を揉んだ。

しかし懸念は杞憂に終わった。竹内はどんな天気でも非凡な写真を撮った。撮影に同行した編集者が、感心しながらコツを聞くと「向こうから風景がやってくるんだ」と答えたという。読者からの反響も非常に大きなものがあった。ことに1980年代末から90年代を通して、竹内を支持する読者は全体の半数を超えていたと阿部は振り返る。

その後、竹内は相次いで作品を発表していく。三原山の噴火から始まる『天地光響』(1988年)、さくらブームに火をつけた『櫻』(1992年)、再び大型カメラに取り組んだ『天地風韻』(1998年)、そして集大成としての『天地』(2003年)などである。この間、竹内は過重な仕事ゆえ、病に倒れることも幾度かあったが、「日本人の原風景」を撮り続けている。そのメッセージと方法論は、日本の写真表現の潮流に大きく根を張ったのだった。

 

竹内敏信(たけうちとしのぶ)

1943年愛知県生まれ。名城大学工学部卒業。愛知県庁を経て、フリーのカメラマンに。35ミリ判カメラの機動性をいかした風景写真が一世を風靡。カメラ誌はもちろん、旅行雑誌やカレンダーなど幅広く活躍し、写真展や著書も多い。主な写真集に『櫻暦』『天地』『山河照抄』などがある。『天地聲聞』は1995年に竹書房より復刻新版も。日本写真芸術専門学校校長。

 

参考文献

竹内敏信『日本の野生馬』(新峰社 1983年)
『Gakken Camera Mook CAPA カメラシリーズ1 竹内敏信の風景写真術』(学研 1993年)
『竹内敏信集 完全版』(シンク 1997年)
『名作写真館3 竹内敏信』(小学館 2006年)

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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