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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.3 現代美術としての表現 今道子『EAT』(講談社、1995年)鳥原学

食べ物を使ってオブジェをつくり、それをモノクロ写真に定着させた今道子の作品は、発表と同時に大きな話題となった。イメージそのものが即層的であっただけでなく、写真が美術と交わる新しい時代の幕開けを示していたのだ。

オブジェと写真

写されているのが「生もの」だから生理的に受け付けない、という理由で今道子の作品を敬遠する人がいる。それはどうにも惜しい。
なるべくなら、食わず嫌いは直した方がいい。最初は苦手に感じても、いったん慣れれば世界が広がるし、ときには病みつきになることもある。そんな嗜好の目覚めは、食べ物だけとは限らない。

1991年に今が写真集「EAT:Recent Works」(フォト・ギャラリー・インターナショナル)で木村伊兵衛写真賞を受賞したとき、審査に当たった石元泰博がそうで、初見では特異な素材に「生理的嫌悪感」を感じたと選評に書いている。だが二度目には「とてもまともな写真らしい写真」だとわかり「すっかりその不思議な魅力に引き付けられてしまった」のである。

確かに今の作品はグロテスクだ。何しろ撮影対象が光ものの魚や野菜、あるいは鶏肉などの食材に加え、昆虫や生花などを用いたさまざまな自作のオブジェである。それも衣服や帽子など、日常生活と結びついたものが多い。下着に張り付いたいくつもの鰯の目玉がこちらを見ている図など、考えるだけでも鳥肌が立つ。そもそも食材を使うこと自体が背徳的な感覚を呼び起こす。しかし、その異様な装飾性を持ったオブジェが写真という平面に置き換えられたとき、生臭さが抜け、不思議な官能が立ち現れてくる。

最初からそこに惹かれていたのが同じ審査員の長野重一だった。長野は玉虫の羽で作られた法隆寺の秘宝「玉虫厨子(たまむしのずし)」に通じる日本的な感受性を見出していた。しかも生き物の命の輝きを永遠にとどめるという「写真だけの成し得る美の表現」があると指摘している。

洋服に張り付けられた鰯の目も、パンストに押し込められたキャベツも、鶏の足を持った魚も、写真の中で新しい命を得ている。その命にはグロテクスさと美しさが同居し、笑いさえ誘うユーモアもある。

今はこの奇妙なオブジェと一人で作り、撮影している。朝から素材を市場に買い出しに行き、そしてさばく。魚の頭を切り取り、皮を剥ぎ、あらかじめ用紙した小物と組み合わせる。時間をかければオブジェの完成度は上がるが、素材の鮮度は落ちる。そのあたりに気を遣いながら、夕暮れまで、部屋に差し込む光によって撮影するのだ。

だから、一つの画を得るのに丸一日を費やしている。素材の触感を得ながらの作業は、今にとって「肉体とは何だろうかと感じる時間」だと語っている。その内省的であり呪術的でもある行為を通じて、写真の中で新しい命が産声をあげる。

 

奇想の源泉

今道子の撮影現場を取材した篠山紀信は、その様子を以下のように綴っている。「それはどことなく他人から隔離された場所で孤独に行う黒ミサの秘技の感もあったが、どこか純真で滑稽な少女の怖い児戯にも似ていた」(『NH趣味百科 近未来写真術』(NHK出版))

篠山が「黒ミサ」のように感じた理由は、今の真剣さとともに、撮影場所から得た印象が大きい。そこは独特な雰囲気を持った広い洋館だった。
その洋館は、今がいまも作品を制作しつつ暮らす鎌倉の自宅である。設計したのは彼女の父で、大戦中に上海で暮らしていた家がモデルになっている。

西洋骨董が好きだった父は、コレクションを部屋に配置して楽しみ、ときに娘を骨董市に連れて行くような趣味人だった。しかも、その父が亡くなった後、コレクションを撮影した写真が数多く見つかっている。どうも今の美意識やモノに対する執着のあり方は、この父から譲り受けたものらしい。その収集された骨董は今の初期作品にも写り込んで、いい味を醸している。

そんな今にとって、少女時代の学校生活が苦痛だったというのは、なんとなく納得できる。幼稚園から高校まで、ミッション系の学校に通ったが、特に小学校以降の時期を「懲役12年の刑に服しているような気分」で過ごした。それゆえ、学校をよく休みもした。

一方で、学校で触れたキリスト教が与えてくれたものは大きく、高校ではカソリック研究会に籍を置いていた。そこには教義への信心よりも、聖書の物語としての幻視的な面白さや、原罪や処女性などを象徴するイメージへの興味があった。天使、マリア、白百合、羊、そして十字架や磔刑にされたキリストといった図像に関係する小物や絵を集めていた。それらに、今は自分のあこがれや不安を投影していたのだろう。当時は、「美しいものや、怖いもの、肉体には欲望とともに死が眠っていること」などに思いを巡らせていたと振り返っている。そのような感覚や疑問は、いまも作品の深い部分に流れ続けている。

やがて高校の卒業にあたり、今は美大で油絵を学ぼうと決めた。後に大学受験を2度失敗したため、創形美術学校の版画家に進んだ。この学校では安斎重男が写真の授業を持っていた。1970年代から現代美術の現場やアーティストを撮影してきた写真家である。

その安斎は、写真を使って作品集を制作するという課題を生徒に与えたことがある。このとき今は何気なく辞書をめくる中で、「艶」という字に目をとめ、そのイメージを写真を使ったコラージュから版画にしようとした。だが、画像を切り貼りして版画に置き換えるより実際に物を作り上げて撮影した方が面白いと考え、実行した。それら作品の中に、いくつものキャベツをパンストに詰めたオブジェの写真があった。

たまたま駅の近くのスーパーマーケットで見つけた大ぶりな結球を剥くうち、今にはなんだか人間の服や臓器に見えてきたという。それは、彼女の身体の中に詰め込んでいたイマジネーションの蓋が開いた瞬間だったのかもしれない。

 

『EAT』出版の意味

写真に可能性を感じた今は、その道を進んでいく。創形美術学校を終えた後、美術スクールを経て、1年だけ東京写真専門学校(現・東京ビジュアルアーツ)にも通っている。「写真家の人が見ても納得できるような技術」を求めてのことだった。

以降、今は20代を通じて、アルバイトをしながら制作を重ねていくのだが、そのペースは決して早くない。発表活動もいくつかのグループ展や公募展に参加する程度にとどまっている。個展開催を目標にはしていたが、きわめて意欲的だったとは言い難い。

といって本人に焦りはなかった。自宅で制作しながら、夜ごと地元の居酒屋で作家、編集者、画家といった多彩な友人たちと過ごす毎日。そんな時間の流れを楽しんでいたようである。だが、そんなマイペースな彼女の背中を友人たちが押した。

1985年、今は30歳で初個展「静物」を開催するのだが、そこには「やるなら30歳までに」とのアドバイスがあった。さらに小学館に写真を持ち込んだのも、よく顔を合わせる先輩の一人、同社の編集者だった北林仁の勧めである。北林は今を、後輩で写真の目利きである島本脩二に引き合わせた。後に数々の写真集をヒットさせる島本にして、今の作品を見たときは「椅子から転げそうなほど驚いた」と筆者に語ってくれた。こうした種類の写真は、マン・レイなどシュルレアリスム作家のものを知っているだけだったからである。

まさにシュルレアリスム美術の特徴が、今の作品には見られる。まず極めて具象的なものの描写、思わぬところに思わぬものを置くという文脈の混乱による異化作用(デペイズマン)、さらに見慣れたものの姿が大胆に変容(メタモルフォーゼ)することなどだ。実際、今はその影響を受けていて、独自のスタイルとして大胆に昇華しているのである。

問題はそのような美術的クオリティを持っていたとして、無名作家の作品を大手の出版社が写真集にするメリットがあるかどうか。島本は率直に小学館で写真集を作るのは無理としたうえで、自腹でも出版するべきだと言った。さらに本が完成したら、それを持ってニューヨークのギャラリーに売り込むべきだと伝えたという。

1980年代に入り、写真をめぐる環境は変わり始めていた。それまで日本の写真は写真集などの印刷メディアを主な舞台とし、ドキュメンタリー的表現を軸に展開してきた。それに対して、このころからオリジナル・プリントを額装してギャラリーで展示して販売するという表現と流通の経路が生まれてた。

美術作品として写真を扱うこと、それはまだ日本では小さな試みだったが、欧米ではすでにスタンダードになっていた。島本が自費出版を勧めたのは、そのようなシーンでこそ今の作品は評価されるべき、と思ったからだ。

今は返事をしばらく保留した後、出版を決めた。そして1987年2月に初の写真集『EAT』は世に出た。本書の反響は大きかった。たとえば『日本カメラ』では桑原甲子雄が「異常な才能の迸りというべき」との賛辞を寄せている。

その異常な才能は、時代のドアを開ける役割を果たしたようだった。ちょうど『EAT』の出版あたりから、写真表現の潮流が変わり始めたのだ。今をはじめ森村泰昌、佐藤時啓、柴田敏雄など美術と写真の両方の素養を持ち、構成的な作品を発表する作家に注目が集まっていく。さらにいえば今の登場は、女性の写真家たちの活躍が始まることを予感させもした。

とはいえ本人は、時流の変化や評価を意識したことはない。ただ自分の欲望と想像力をその求めに従い、史枝実に印画紙の中に展開させてきた。だからこそ発表の度に表現は深さを増し、私たちの五感を刺激して、病みつきにさせてきたのである。

 

今 道子(こん みちこ)

1955年神奈川県生まれ。創形美術学校版画科卒業、東京写真専門学校中退。1985年「静物」(新宿ニコンサロン)で初個展。以降国内外で多くの個展を開催、グループ展にも多数参加。2021年には日本美術館での初個展「フィリア―今 道子」を神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催。写真集に『EAT』、『Michiko Kon: Still Lifes』(アパチャー)、『フィリア 今道子』(国書刊行会)など。東川国際写真フェスティバル新人作家賞、木村伊兵衛写真賞など受賞。

 

参考文献

『カメラ毎日』(毎日新聞社)1980年5月号 今道子「サバとキャベツ」
『NHK趣味百貨「近未来写真術」』(日本放送協会1990年)
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1991年5月号「第16回木村伊兵衛写真賞受賞者発表 今道子」
『コンテンポラリー・アーティスツ・レビュー』(スカイドア)1992年冬号「Contemporary Artists:今道子」
『main』(main編集室)4号 1997年3月「main guest room この20年-今道子-」

 

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

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