【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.2 パーソナル・ドキュメントの幕開け 奈良原一高『王国』(講談社、1995年)鳥原学
土門拳や木村伊兵衛たちが推し進めたフォトジャーナリズムの時代が転換期を迎えつつあることを告げるように、写真界に新風を吹き込んだのが奈良原一高だった。彼が見出した主観的な切り口と鮮やかな映像美は、世界や人間を見つめる新たな方法として議論を呼び、次世代の到来を見せつけた。
事実は観念をとびこえる!
2014年11月18日から翌年の3月1日まで、東京国立近代美術館で奈良原一高「王国」展が開催された。東京での大規模展示は55年ぶりである。
「王国」は1958年の『中央公論』誌9月号に一部が掲載され、同月の富士フィルムフォトサロンで192点が展示された。さらに1970年代には2度に渡って写真集が編まれている。日本写真史における最重要作品の一つであるゆえ、断片的にオリジナルプリントを見る機会はこれまでに何度もあった。しかしこの時私は、改めて特異な衝撃を受けた。
その特異さは対極的な2つの対象、北海道のトラピスト修道院と和歌山の女子刑務所の写真による構成という点から来る。心静かな祈りを求めて人が集う信仰生活には「沈黙の園」、受刑者を閉じ込めた施設には「壁の中」という副題が冠されているのだ。
真逆の性格を持ったこの両者に、奈良原はある共通点を見ている。それは一般社会から隔絶されたうえ、日々の生活を無言で貫くという秩序を持っていることだ。内面に深く向き合うことを課した、あるいは課せられた人々はどんな精神状態で日々を過ごすのか。その一点から両者を見つめることで、人間という存在の普遍性が見えるのではないか。本作を貫くのはそんな問いである。
それは当時の奈良原自身の孤独や疎外感から生まれたテーマだった。1978年写真集「王国」のあとがきで、彼はこう述べる。
「壁は日常の心の中にとらえがたい疎外の感覚となって介在していて、当時の僕はそのような自分の内部にある不安と空しさを『王国』の場をみつめることによって超えようとしていた。事実は観念をとびこえる肉体をもっている」
『王国』には息苦しいほどの静謐さと閉塞感が満ちている。しかし見進めていくとその内向さが反転し、一種の解放感さえ浮かび上がってくるのだ。それこそが撮影を通じて得た、奈良原の肉体的な実感なのだろう。写真展の1年後、彼は『フォトアート』誌のインタビューにこう答えている。「『王国』を撮っているときになにか風通しがよくなってきたような気がするし、これからはのびのびと仕事したいと思います」
この言葉には写真家であることへの自覚と決意が込められている。しかしなぜ、それほどの閉塞感を彼は感じていたのだろう。それは写真家になった動機と経緯とが、ほかに例のないものだったからではないだろうか。
個展を巡って
奈良原が写真家として世に知られたのは1956年5月。24歳で開催した初の個展「人間の土地」が異例なほどの反響を呼んだ。展示は2年後の「王国」と同じ二部構成で、一部の「火の山の麓」は火山灰に覆われた鹿児島の黒神村が、二部の「緑なき島」は通称「軍艦島」で知られている海上炭鉱の端島が撮られている。自然に侵食される山村と自然を搾取する人口島の共通点は、過酷な環境にもかかわらず、そこに人々の暮らしが強く根差していることだった。その現実をシェルリアリスティックな感覚で描出した奈良原の展示は、当時主流だった客観的なフォトルポタージュにはない主観性と映像的なインパクトがあり、すぐに写真界の話題となった。
もちろん賛辞ばかりではない。ことに年長者たちからは批判的な意見が出された。たとえば『フォトアート』8月号での座談会では、戦前から報道写真を牽引してきた名取洋之助が「お芸術的にレイアウト」しているから「なんとなく有難くなっちゃう」が、あの構成は「いけないと思う」と語る。するとベテランの評論家である渡辺勉は「悪くいえばハッタリ」で「意識過剰があるだけ」と応じる。
翌月の『サンケイカメラ』の座談会では木村伊兵衛が「神経質すぎる」と評し、土門拳は日本の状況が抜けて「人間疎外」だけが際立つと述べた。ただし木村は奈良原が優れて知性的であると認め、土門はその斬新さを早く広い場所で展開すべきとも発言している。
一方、若い世代は彼らが求めていたものを見出していた。当時29歳の写真評論家、福島辰夫は展示会場で衝撃を受け、初対面の奈良原と深夜に及ぶまで話し込んだ。「これからの写真へと向かう同じ時代者としての共感」を強く感じた。
福島の友人である写真家の細江英公も同様の感触を得ていた。そこで福島は、翌年、奈良原と細江のほか、石元泰博、川田喜久治、川原舜、佐藤明、丹野章、東松照明、常盤とよ子、中村正也という写真界の「第三の新人」などと呼ばれていた若い写真家に声をかけ、グループ展「10人の眼」を開催する。そしてこれを機に、写真家の自立を目指した集団「VIVO」が細江、奈良原、川田、東松、佐藤、丹野の6人によって1959年に結成されるのである。
つまり「人間の土地」は世代間の断絶を浮き彫りにし、時代の変化を加速させたのだ。先行世代が目指してきたのはヒューマニズムをベースにしたフォトジャーナリズムの確立だった。ただ、その到達点は「人間の土地」展の2か月前から日本巡回展が始まったニューヨーク近代美術館の企画による史上の写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)」で示されてしまった。アメリカの価値観を見せつけた、この記念碑的なビックイベントをどう超えるか、それが日本の写真界の新たな課題となったのである。
一方で敏感な若い世代は、それ以前から新しい方法論を模索していた。端的にいえば、写真家個人と世界との関係を描き出す主観的な表現である。のちに奈良原自身が「パーソナルドキュメント」と呼んだ「人間の土地」は、まさにその典型を先駆者に実現していたからこそ、総世代に大きな反響を呼び起こしたのだった。
とはいえ「人間の土地」時点の奈良原には、写真家になる意思など毛頭なかった。当時の彼は大学院で美術史を学ぶ院生であり、その主眼は美術評論にあった。しかしたった一度だけ、自分の世界観を写真によって象徴化することに賭けたその純粋性が、時代を突き抜けてしまったのである。
青年期の終わりに
奈良原は1954年に九州を旅行した際、黒神村と端島を訪れ、過酷な土地に根差した生活に心を揺さぶられた。最初はだれかがその風景を作品化してくれればと期待したが、やがて自分がやるべきだと思い至り「人間の土地」の撮影に取りかかった。先の『フォトアート』のインタビューでは「自分が“生きる”という確証、それを前向きかたちでつかみたかった」からだと語っている。写真は「自分の中のカオス(混乱)を定着し有形化する、つまり欲求を現実化する手段」であり「写真をとらなくちゃ自分がどうなってしまうか」わからない心情だったとも。それは世界のどこにも自身の居場所を実感できないアウトサイダーの心情である。
こうした自意識の形成には、生い立ちが影響しているのだろう。奈良原は1931年に福岡で生まれたが、判事だった父の仕事の都合で幼いころから全国を転々とした。同じ学校に短くて1学期、長くても2年ほどしか通えない環境は「流離の感覚」を育てた。戦争にまつわる記憶も重要である。大戦末期、当時中学2年の奈良原は愛知県一宮市の工場に動員されていて、7月28日の大空襲に遭遇した。辛くも難を逃れたとき、目にした光景に吸い込まれた。大火に包まれる街の周囲には穏やかな田園が広がり、その上空の満月からは静かな光が放たれている。地獄と楽園が合わさったその風景は、不可解なほど美しく、一つの世界に生と死の対極的な次元が共存することを彼に示していた。
それから間もなく訪れた敗戦の日、空襲のない静かな空を「まるで生きる目的を失ったような気持ち」で見上げたという。そのエアポケットのような地点から始まった戦後は、今まで与えられた価値観がすべて否定された時代となった。少年は、生きていく基準と可能性とを自らの体験から見出さねばならない。
奈良原が道を見出すのは、父の勧めで中央大学の法科に入ってからだ。当時、家族は奈良に越していたので、休日には古寺古仏を巡り歩いた。それがきっかけで美術に目覚め、大学院では美術史を専攻することにした。しかし、アカデミックな研究は肌に合わなかったようだ。刺激を与えてくれたのは池田満寿夫、靉嘔、河原温といった同世代の美術家たちであり、奈良原も彼らのグループに参加した。それまでたしなむ程度であったカメラを「人間の土地」のために改めて手に取ると決意したのも、実作者たちを間近に見ていたからだろう。
以降、奈良原は写真家として活動しはじめるのだが、そこには不安がつきまとっていた。「その頃、僕は写真家として歩みだした自分を社会のアウトサイダーだと思っていた」のだ。
それゆえ次回作では前作の問題意識を引き継ぎつつ、それを外部からではなく内省的に深めていく必要があった。
確かに「王国」を経て奈良原の意識はより自由になり、写真家としての評価も定まった。そしてこの後には、日本だけにとどまらず「流離の感覚」によってヨーロッパ、アメリカを巡り、次々と意欲的な作品を発表していくのである。
しかし二部構成をとった作品はもう見当たらない。光惚と不安に二分された青年期の魂は、「王国」の中に、永遠に封印されたのだ。
奈良原 一高(ならはら いっこう)
1931年、福岡県生まれ。中央大学法学部卒業、早稲田大学大学院美術史専攻修士課程修了。1959年、VIVO結成。1962年よりパリで、1970年よりニューヨークで暮らした後、1974年に帰国。主な作品集に『ヨーロッパ・静止した時間』『人間の土地』『消滅した時間』『ポケット東京』など。芸術選奨文部大臣賞、日本写真協会年度賞など受賞多数。紫綬褒賞、旭日小綬賞受賞。
参考文献
『フォトアート』(研光社)1959年2月号「第三の新人2・奈良原一高」
奈良原一高『無国籍地 Stateless Land – 1954』
福島辰夫『福島辰夫写真評論集〈第2巻〉「10人の眼」・VIVOの時代』(窓社 2011年)
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より