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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.8 “居室から描き出した国際化の風景” 瀬戸正人『部屋 Living Room, Tokyo』 鳥原学

ひとつの“部屋”は、その主の人柄と彼が暮らす社会とを写す鏡である。東京に外国人労働者の姿が目立つようになった1980年代後半。瀬戸正人は、彼らの部屋を大型カメラで精密に捉え、大々的に宣伝されていた日本の国際化の実像を視覚化した。

 

“うさぎ小屋”の異邦人

かつて西欧人から“うさぎ小屋”と形容された東京の住空間の貧弱さは、今なおあまり変わっていないかもしれない。都市の周辺に残る昭和期の古びた木造モルタルづくりのアパートを見かけるとなおさらそう思われる。そう言えばこの薄い壁で仕切られた簡素な部屋に、さまざまなアジア系の人々が暮らし始めたのが、1980年代後半のことだった。

1996年に出版された瀬戸正人の写真集『部屋 Living Room,Tokyo』を開くと、当時の日本社会の雰囲気がよくわかる。本書に掲載された写真は、バブル景気に日本が湧いていた1989年から、それが完全に破綻した1995年にかけて撮影されたものだ。この間、瀬戸は東京周辺の外国人を訪ね歩き、アパートやマンションでの暮らしのあり方を、巨大な8×10のカメラで精密に描写していった。

本書を開いて思わず見とれてしまうのは、それぞれの部屋のディテールである。たとえば、カーテンの柄、使っている化粧品、積み重ねられた本やカセットテープ、あるいは壁に貼られた家族の写真など。それらのモノは住人たちが背負っている母国の文化、日常生活のレベル、何よりも東京で暮らす目的を生々しく語っている。

部屋の主たちも、こうしたモノに囲まれて写っている。だがカメラを前にした彼らのポーズはどこか不自然で、表情もまるで蝋人形のように硬い。年齢や性別、職業などを推察できても、感情を読み取ることはできない。これはもちろん写真家の意図的な表現である。

本作の撮影にあたって瀬戸は露光時間を4秒ほどと、比較的長めに設定した。それは大判カメラを使うときの技術的な必然でもあり表現でもあった、なぜなら被写体は身体をこわばらせるしかなかったからだ。その結果、部屋の中の生々しいモノたちとは対照的に、人物は無機質をまとってしまうのだ。

瀬戸は、東京の今を撮るためには人物の性格などいらなかった、と語る。なぜそう考えたのか。撮り始めたばかりの頃の発言から、意図が読み解けるかもしれない。

「『この写真はいったいなんだろう、なにを撮ったんだろう』と思うような写真。そういう写真こそ、いまの東京の実態を表現できるんじゃないかな。もちろん一点や二点じゃだめだろうね。だけど、そんな写真が百点くらいバーっと並べばなにかが浮かんでくる」

また、瀬戸は、まさにこの言葉どおりの発表形態をとった。展示のために幅約1メートルのロール紙一本分にわたり、途切れることなくイメージをつないだ、いわば絵巻物的なプリントを制作したのである。写真集もひと続きのつづら折りになっている。瀬戸は、同じ時代のひとつの都市に多様な文化と生活が共存していることを、視覚的に示したのである。

瀬戸がこのシリーズを撮り始めたきっかけは、タイから来日した知人女性を訪ねた経験にある。このとき瀬戸を驚かせたのは、アパートのワンフロアに彼女を含めて大勢のタイ人たちが住み、現地の生活スタイルを部屋に持ち込んでいたことだった。

その鮮烈な印象を、自著『トオイと正人』に次のように書いている。「ドアが開いてたちこめる香辛料の匂いとかん高いタイ語が飛びかい、さわやかな秋風の中を歩いてきたせいか、そこはむせかえる熱帯であり、バンコクそのものだった」

この光景に強く刺激された瀬戸は、東京周辺に住む外国人の住まいを精力的に訪ね歩き始めた。

 

アイデンティティとカメラ

「部屋 Living Room,Tokyo」シリーズを始める9年前の1980年、瀬戸はやはりアジアから来た人々の部屋の写真を撮っている。父からもらったローライフレックスを使ったこの作品は、後のシリーズと違い、人の匂いを濃厚に漂わせている。

撮影場所は埼玉県大宮市(現・さいたま市)内に設けられていたベトナム難民の収容所。被写体となった難民の多くは若く、当時27歳だった瀬戸と同世代。このときの瀬戸にはベトナム戦争が生み出した「難民」という社会的問題への関心よりも、故郷を捨てざるを得なかった同世代のベトナム人への人間的な興味が強くあった。これは彼自身のアイデンティティを巡る問題と、深く関わっている。

瀬戸は1953年、タイ東北部の地方都市ウドンタニというで生まれた。現地で写真館を営んでいた父の武治は、福島県出身の日本人である。太平洋戦争に出征してラオスで終戦を迎えたが、日本には戻らず素性を隠してタイに渡った。日本軍の下士官は戦犯として告発されるという噂があったからだという。現地で父はベトナム人コミュニティーに迎えられ、そこで妻と知り合い結婚。長男のトオイを筆頭に4人の子どもをもうけた。

やがて写真館の仕事を始め、かなりの財産を築いた父は、戦後から10年以上を経て、福島に戻ることを決めた。そして一家での帰国に先立ち、まず9歳になる長男のトオイと2歳年下の妹に、日本で教育を受けさせることにした。父が幼い二人を、福島の弟の家に預けたのは1962年のことで、このときトオイに「正人」という日本名が与えられた。

正人の順応は早かった。福島弁と標準語の区別はつかずとも、1年後には日本語にすっかり慣れた。なにしろ3年後、一家が福島でそろったときには、タイ語もベトナム語もすっかり忘れていたというのだから。

1973年、高校を卒業した瀬戸正人は古いローライフレックスと一緒に、東京に送り出された。福島で父が開いた写真館の跡を継ぐため東京写真専門学校(現・東京ビジュアルアーツ)に入学したのである。とはいえ、喜びにあふれた上京ではなかった。彼はもともと写真に関心がなく、大学進学を目指していたからだ。しかし受験に失敗し、仕方なく父の意思に従ったのだ。だが、在学中にある写真家を知り、世界が変わった。

それが森山大道だった。銀座のニコンサロンで展示されていた森山の写真を初めて見たときのことを「未来の次元とでもいえるような写真の世界に連れ込まれたような衝撃」だったと瀬戸は振り返っている。翌年、学校に森山ゼミが開講すると、迷わずこれに参加した。

以降、現在に至るまで2人の師弟関係は続いているが、もう1人決定的な影響を与えた人物がいる。2012年に亡くなった深瀬昌久である。写真学校を卒業した瀬戸は、森山に紹介されて広告写真家の岡田正洋写真事務所のアシスタントとなるのだが、そこにこの異能の写真家がいた。これも森山のはからいだった。

当時の深瀬は徹底して遊戯的、かつ実験性の高い作品を発表していた。たとえば妻を被写体にした『洋子』や、暗闇の中でカラスを執拗に捉えようとした『鴉』、彼自身の家族の記念写真にハプニングを持ち込んだ『家族』シリーズなどは、1970年代に始まる私的な事象をテーマにした先鋭的な写真表現を代表先駆する仕事に数えられている。

深瀬はとても無口であったが、2人はウマが合い、瀬戸はよく撮影の手伝いを頼まれた。20代前半に、写真の可能性の限界を突き詰めていく精神を、この2人の写真家から吸収したのである。

 

時代の絵巻物

1981年、瀬戸は写真家として独立した。タイに向かったのはその翌年である。およそ20年ぶりの里帰りだったが、現地に馴染むまでに時間はかからなかった。忘れたはずの言語が、知らぬ間に口をついて出た。熱帯の空気が、眠っていたトオイの眼を覚まさせた。

とはいえ20年間で、現地の風景は大きく変わっていた。バンコクでは日系の企業の駐在員たちが羽振りよく夜の街を闊歩している。ウドンタニにはベトナム戦争のための米軍基地ができてから街並みもすっかり変わり、親類たちもベトナムのハノイに移っていた。

それから数年にわたって、瀬戸は現地に通い、バンコクの街とハノイの親族を二眼レフのローライで撮り重ねた。それは失われたアイデンティティを回復していくプロセスであり、やがて次のような心境に至ったという。

「何年もタイなどに通っているうちに、だんだん気持ちが飽和状態になってきた。(中略)あっちに行っても、東京にいるのと同じ感覚になってきた。日常の延長というのかな」

1989年、瀬戸はこれらの写真をまとめて初の写真集『バンコク、ハノイ1982-1987』を出版した。同書は失われたアイデンティティを探る旅の終着点といえる。

興味深いのは同じ年に、瀬戸が「部屋 Living Room, Tokyo」に取り組み始めたことだ。ベトナム系タイ人のトオイと、日本人の正人の視点がひとつになったことで、自分が暮らす東京とアジアの結びつきがクリアに見え始めたのだろう。

こうして瀬戸家の昭和史をたどると、親子二代の歩みに、日本と東南アジアとの関係の変化が見事に重なる。東南アジアへの軍事進出に駆り出された父の出征に始まり、敗戦を経て日本が国際社会へ復帰するのとほぼ同時期になされた一家の帰国が、戦後史の折り返し地点となっている。

そして息子は日本にたどり着いたベトナム難民たちの撮影をひとつのきっかけに、自らのアイデンティティを模索し、それを果たした。さらに日本経済の膨張にともなうアジア系労働者の流入が、日本人とタイ人との二つの視点を持った彼に、社会を見るユニークな方法論を与えたのである。

時代はめまぐるしく動き、人の暮らしもその風景も、大きな力の作用で否応なく変わっていく。写真の方法論もまたしかりだ。ただ、瀬戸正人という写真家が際立っているのは、その変転を、日本的な無常観で受け取っていない点にある。

アイデンティティの変容を受け入れたことで、自らが関わる社会のかたちを精密に計測するように描き出しているのだ。それは本作と同時期に発表した『Silent Mode』、あるいは2005年の写真集『picnic』を見てもわかるはずだ。本作を起点とする瀬戸の仕事は、現代の日本人とは何かを映し出す、有効な鍵となり続けている。

 

瀬戸正人(せと・まさと)

1953年、タイのウドンタニ市生まれ。1961年より福島県に移住。東京写真専門学校(現・東京ビジュアルアーツ)を卒業後、森山大道、深瀬昌久に師事。1981年フリーとして活動を開始。1987年にはギャラリー「プレイスM」を開く。写真展「部屋 Living Room,Tokyo」「Silent Mode」で木村伊兵衛写真賞受賞。他の写真集に『Picnic』『binran』などがある。エッセイや小説などの執筆も行っている。現、清里フォトミュージアム副館長

参考文献

『写真時代』(白夜書房)1983年7月号 追分日出子「インタビュー瀬戸正人「写真は退屈しのぎ」」
土方正志『写真家の現場―ニュードキュメント・フォトグラファー19人の生活と意見!』(JICC出版局 1991年)
「瀬戸正人 里帰りを撮る―バンコク、ハノイ、そして東京」
『日本フォトコンテスト』(日本写真企画)1997年7月号 関次和子「ハロー! フォトグラファー 瀬戸正人」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

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