【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.25 主張しない写真が持つ力 北井一夫 『三里塚』(のら社、1971年)、『村へ』(淡交社、1980年) 鳥原学
イデオロギーや闘争の時代において、写真は‶主張する″ことを期待される。
そんななかで、自身の視点や役割を見直したのが北井一夫だった。
誰かの意見を代弁することを辞めたとき、時代を超えて人々に語り続ける作品が生まれた。
率直な眼差し
北井一夫は1970年代を通し、北海道から沖縄まで、日本各地の村々の風景を撮り歩いた。 ことに1974年からの2年間『アサヒカメラ』で連載された「村へ」と、その後一年半続いた続編の「そして村へ」は、この時代を代表する作品となっている。
と、簡単に書いてみたものの1970年代とはいったいどんな時代だったのだろうか。 まずそこを振りかえってみたい。経済という面で見れば、20年以上続いた高度経済成長期が1973年のオイルショックを機に終わっている。ただし成長のスピードは鈍ったが、様々な面で国際化が進み、産業全体がより高度に再編されて情報化社会が到来した。
一方で都市と地方の経済格差は開き、農山村では過疎化や伝統的な村落社会の解体が著しく目立つようになった。そんな時代にベストセラーとなったのが、新潟県出身の有力代議士だった田中角栄が、1972年に出版した『日本列島改造論』である。田中はここで、国土の均衡的な発展を掲げている。
とはいえ北井の写真は、農山村を撮りながらも、こうした社会構造の変質をあからさまにすくい取ったドキュメンタリーではない。かといって、伝統行事や祭りに対する民俗学的な好奇心を満たしてくれるわけでもない。彼の関心は、各地で見たごく当たり前の暮らしぶりを、そのまま写真にとどめることにあった。その点がいまとなっては、とても貴重だったと気づかされる。
それは「村へ」の各回のタイトルを見るだけで、その点がよくわかる。脂がのった1974年を例に取ると、1月号から6月号までは順に「稲刈のあと」「湯治場」「海辺のむら」「嫁入り」「雪の中で」「田舎道」となっている。 これらはテーマというよりも写真家が出会った被写体や状况を単に指している。
さらに3年半にわたった連載全体を通して見ると、繰り返し写されているも対象に気がつく。 たとえば細くて曲がりながら伸びていく田舎の一本道、その向こうで遊ぶ子どもたちの姿、季節ごとの農作業、収穫が済んだ田畑での焚き火、ほの暗い農家とその居間でくつろぐ女性たちなど。
こうした他愛のない対象に対して、ほとんどの写真は目線の位置から水平に撮影されている。水平線がやや傾いているものが多いのは、写真家のクセなのだろう。その単純さはあっけないほどだが、画面からは村の空気感や生活の手触りが感じられ、 それはいまなお鮮度を失っていない。
北井の率直な眼差しに驚くのは、われわれが村に対して‶なにかねじれたイメージ″を持っているからだと思う。ひとつの典型は『ふるさと』などの唱歌から連想される、懐かしの日本の原風景というものだ。1970 年に始まる国鉄(現・JR)がはじめておこなった旅行キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」は、その原風景を一種のメルヘンとして描くことで若者の国内旅行のブームを生み出そうとしたものだった。
もう一方のイメージはそれと真逆で、封建的と批判されてきた、農山村の暗く閉鎖的な部分。横溝正史の「金田一耕助」シリーズで描かれるような、家柄や格式が過剰に尊重される村落社会の体質であるそれは、日本の民主主義がいまだ未成熟な理由として現在でも語られたりしている。
しかし北井はどちらのイメージにも与しなかった。ごく素直に、朗らかに旅を重ね、村という存在のあり様を描き出している。この姿勢は、持って生まれた体質でもあるが、自覚的に身につけたものでもあった。
それがはっきりと出るのは『村へ』の前作、1971年に出版された『三里塚』(のら社)からである。 もちろん『三里塚』と『村へ』では、撮られた状況はまるっきり違う。『三里塚』の主題は国家に対する農村の“闘争”である。だが、ひと続きのものとして読むとき、この時代における北井の仕事の意味がよりクリアに見えてくる。
抵抗の季節
千葉県成田市に位置する三里塚は、かつてのどかな田園地帯だった。ここには代々続く農家と戦後の入植者たちが切り開いた農地、そして広大な御料牧場があった。
1966年7月、突然この鄙びた一帯が日本中の注目を集めた。政府が新たな国際空港 (現在の成田空港) を三里塚に建設すると発表したのである。経済の国際化に伴って増加し続ける航空需要に対応するため、広い空港が必要となったのはやむを得ない。しかし、この用地選定は地元との事前交渉のない一方的なものであり、そのため農家の強い反発を招くこととなった。加えて、大学紛争を主導していた新左翼のセクトが空港反対派を支援したことで、 農民の生活を守るための運動は、 機動隊との激しい闘争にまで発展した。 反対運動は国家権力と巨大資本に翻弄されてきた零細農民の戦いという、社会的な対立構造のシンボルとなってしまったのである。
北井一夫はこの三里塚に1969年1月から密着取材を行い、『アサヒグラフ』で断続的に写真を発表していた。写真集『三里塚』はこの仕事を中心にまとめたもので、成田闘争の取材は、自身が編集部に強く希望したものだったと北井は振り返った。三里塚を撮れなければ「写真は辞めていただろう」というほどの覚悟を持っていた。
それまで北井が撮っていたのは「若者たちの反乱」と呼ばれた大学紛争である。1960年代後半に起きたこの紛争は、そもそも大学運営の民主化・透明化への要求から始まったが、やがてそこにベトナム反戦運動や日米安保条約の自動延長、そして三里塚の問題などが重なっていった。つまり紛争は全国に広がり、学生たちの行動は先鋭化したのだ。
特にこの1968年から69年にかけて 紛争はピークを迎えていた。各大学で結成された全共闘(全学共闘会議) はデモ、 全学スト、 校舎のバリケード封鎖などの手段を用いて大学当局に対抗した。なかでも最大の学生数を誇る日大闘争には、世間の耳目が集まった。北井は主に日大闘争を学生側から撮影し『アサヒグラフ』で発表していた。北井自身もかつて日本大学写真学科の学生だったが、1965年に中退していたから、ことの当事者ではない。ただ、自治と自由を求めた主張には強く共感するものがあったという。
何しろかつて北井自身が行動する学生だったのだ。大学を辞める際には、アメリカの原子力潜水艦の横須賀港への寄港阻止を訴えたデモをテーマに、初の写真集『抵抗』を自費出版している。そしてこの写真集が縁で新左翼のセクトの活動を撮り始めたこと機に、職業写真家になったのである。
だがこうしたデモやバリケードの中を撮るうちに、北井の中で疑問が膨らんでいった。セクトの理論に身勝手さを、学生の唱えるスローガンには空虚さを覚えるようになったという。体制に反抗する彼らには何か大切なものが欠けていると感じた。考えてみると、彼らの主張にはリアルな生活という根拠がすっぽり抜け落ちいる。
そんなときに見た小川紳介のドキュメンタリー映画『日本解放戦線 三里塚の夏』に、北井は衝撃を受けた。映画は、空港公団と対立する農民と学生を後者の立場から、現地に腰を据えてじっくり撮っていた。農村の生活に根差した三里塚の反対闘争のリアルな描写に、大きな刺激を受けたのだった。
主張しない写真へ
北井の三里塚の写真が『アサヒグラフ』に初めて掲載されたのは、1969年3月28日号の「三里塚の青年戦線」である。田んぼに薄く積もった雪、空を覆う暗雲が印象的な「団結小屋の夜明け」が冒頭に掲載された。
しかしこの時点ではまだ、北井は戸惑っていたという。農作業のシーンを写真の軸にすることは決めていたが、都会育ちの彼にはそれをどう具体的に撮ったらよいか見当がつかないのだ。結局、彼が農村の生活に溶け込むまでには半年ほどの期間を必要とした。
やがて対象が見え始めると、三里塚の風景は凄惨なほど荒れていることに気づいた。それは直接的な闘争の結果ではない。国の買収に応じて土地を売る者が増えたため、田畑が放棄され、家が撤去された跡が目立っているのだ。いつの間にか怪しげなバーや賭博場があちこちにでき、古い田舎道がアスファルト道路に付け替えられていく。しかし、共同体の部外者である北井には、この変化を非難することはできない。むしろ、お金のために土地を売った人たちの心情も、痛いほどによくわかった。
そんなとき、ある写真家のことを思い出した。19世紀末から20世紀初頭の変わりゆくパリの街区を、絵画や歴史の資料として淡々と、しかし写し続けたウジェーヌ・アジェである。かつて大学時代に図書館でアジェの写真集を見たとき、北井はなぜか古いパリの街に自分の記憶が重なるように感じたことがあった。そしてこの三里塚の変化を前にしたとき、その体験が蘇り、やっとアジェが何を撮っていたかを理解できた。『アサヒカメラ』のある座談会で、彼はその心境を次のように述べている
「(アジェは)機械的に写真を写すというだけじゃなくて、人肌の世界というか、そういう感じがして、自分もそういうふうに撮ってみたいなあ、といつも三里塚で思ってたですね」
北井は三里塚の撮影を約3年間続け、写真集『三里塚』にまとめた。同書は厳しい反対闘争を背景に村の日常生活を捉えるという点が高く評価された。そして、この視点はいくつかの仕事を経たのち、『村へ』の連載でさらに進化する。
具体的にいえば、『三里塚』では25ミリレンズを使い、かなり広い視線で撮っている。地平線はやや右上がりで、その真ん中に人を配した構図が多い。いわば記念写真的な表現である。それが『村へ』の連載では、引いた構図をベースにしながらも、対象に応じてその距離感を変えている。よりスナップ的で軽快な撮り方に変わっているのだ。また、プリントに注目すると黒々とした粒子をもった画面から、しだいに柔らかなグレーの階調へと変化してもいる。そこには、より明瞭に人の生活を見ようとする姿勢と、木村伊兵衛からの影響が表れている。
この頃北井は、『アサヒグラフ』や『アサヒカメラ』の編集者である大崎紀夫や和田久士など若い写真家仲間と、立ち上げた出版社の「のら社」から、木村が亡くなる1974年にその遺作となった『パリ』を出版している。その編集作業や一緒に行った中国への撮影旅行を通じて木村と親しくなり、学ぶところが多くあった。
この変化は、当時の『アサヒカメラ』を読むと見えてくる。北井と木村の写真がよく似てきたことがたびたび話題にされているのである。翌年に同誌が設けた木村伊兵衛写真賞の初受賞者に、北井が選ばれたのも必然的なことであった。
北井が惹きつけられた写真家は、アジェにしても木村にしても、自身の主張を写真でことさらに展開するタイプではない。彼らの写真は、写された風景や対象が自ずと何ごとかを物語りだすような、記録的な性質を持っている。写真を見るものは、それぞれの感性の質に応じて、その物語を読んでいくのである。それは、いくら時代の様相が変わろうとも古びない、普遍性をもった写真表現のあり方だと言えるだろう。
1970年代の北井は、はるかなこの地点を目指し、日本全国の村々を訪ね歩いていたのだ。
北井一夫(きたい・かずお)
1944年中国鞍山市生まれ。日本大学芸術学部写真学科中退。
1971年成田空港建設反対闘争を追った『三里塚』を発表し、日本写真協会新人賞を受賞。『アサヒカメラ』で連載した「村へ」が大きな話題となり、1976年に第1回木村伊兵衛写真賞を受賞。今もスナップ作品を発表し続けている。作品は東京都写真美術館や東京国立近代美術館のほか、海外でも多数コレクションされている。
参考文献
『タイムトンネルシリーズVol.20 本橋成一写真展「時代と写真のカタチ」』 展 小冊子 (ガーディアン・ガーデン 2004年)
『アサヒカメラ』(朝日新聞社) 1972年5月号 大崎記者「〈ふるさと〉はいずこに―中平卓馬・北井ー夫の写真の背景にあるもの―」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社) 1977年3月号 多木浩二「イメージの劇場3 肉声が聞こえる風景 北井一夫の「村へ」について」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社)1978年4月号 大辻清司、北井ー夫、柳本尚規「座談会 なぜアッジェにひきつけられるか」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
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