【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.30 アフガニスタンに散った報道写真家 南條直子『アフガニスタン ムジャヒディン』(アルファベータブックス 、1989年) 鳥原学
南條直子は1978年に始まるアフガニスタン紛争を初めてフォト・ルポした日本人の女性写真家である。彼女がカメラを向けたのは、戦闘場面よりも、アフガン人の素顔や女性や子どもの日常だった。それは彼女がずっと求めてきたヒューマニズムの表現である。だが、その志はとつぜん断ち切られてしまう。
出口のない日本とヒロイズム
報道写真家を目指す若者は、強い使命感を持っているものだ。戦争や災害、あるいは飢餓や貧困といった問題を追求し、それを自分の表現で世界に問いたいと願う。その志は正しいにしても、使命感の裏側には一種のヒロイズム (英雄主義) もあるものだ。
たいていの場合、彼らのそうした動機は現実の困難さによって容赦なく打ち砕かれる。本物の写真家になれるかは、そこから立ち上がれるかどうかで決まると言っていい。
日本人の女性写真家として、初めてアフガニスタン戦争を撮影した南條直子も、元はそんな報道写真家予備軍の一人だった。
彼女の写真を見ると、戦場の迫力にも増して、その背後で営まれる日常への眼差しが印象的だ。銃を持たない戦士たちの素顔や、女性や子どもたちの表情がとくに良い。単なるヒロイズムを超えた何かがそこに写っている。
南條が初めてインドからパキスタンを経てアフガニスタンに入ったのは、1985年の秋のことである。当時のアフガニスタンはソ連軍の侵攻を受け、各地の部族が「ムジャヒディン (イスラム聖戦士)」となって立ち上がり、ゲリラ戦を展開していた時期である。
この世界的事件を取材しようと多くの写真家が戦場に入ったが、南條の場合は違っていた。最初からこの戦争に興味があったわけではなかった。当時の彼女はただ「出口のない日本の生活から逃げ出したい」との思いで、ここにたどり着いている。しかし、最初のムジャヒディンへの取材が終わったとき、彼女は報道写真家への一歩を、確かに刻んでいたのである。
1955年に岡山県で生まれた南條は、口数の少ない読書好きな少女だった。だが、同時にその胸の内側に、自立への強い志向と正義感を育てていた。ときに「飯を食うだけの人間にはなりたくない」と言って親を戸惑わせ、人から「女のくせに」と言われると強く反発したという。そんな気質だったから、男性と対等に働ける医師という職業を目指し、県下でも有名な進学校に進んでいる。
だが、受験勉強に偏った教育に疑問を持つようになり、さらに社会の矛盾を鋭く批判する左翼思想のグループに感化されたことを機に、 次第に学校から足が遠のいていった。そして高校3年生の途中で、彼女は退学届けを提出したのだった。
報道写真家の資質
南條直子が青山にあった日本写真専門学院(現・日本写真芸術専門学校) に入学したのは1979年で、彼女は24歳になっていた。
高校中退後の南條は岡山で転職を繰り返したのち、22歳で上京している。手に職を付けようと経理学校に入ったが、理想を見つけられず、長くは続かなった。自分にしかできない表現で、社会的に意義のある仕事をしてみたいとの思いが強くなっていったのである。そんなおり、友人からの勧めもあって、写真を始めてみようと思いたったのだった。
写真学校では、外部から写真家を招いての特別授業もたびたび開催される。あるとき樋口健二の講演が行なわれ、南條もそれを聞きに行った。樋口は当時42歳、公害や原発の問題を追及する報道写真家として知られていた。樋口は翌年からこの学校でゼミを持つ予定であり、この講演は生徒への顔見せの場でもあったという。
熱い口調で自分の活動を話した後、樋口は学生に質問を求めた。すると南條が真っ先に手を挙げた。彼女は真剣な顔で「報道写真で生活ができるのでしようか?」と聞いた。樋口はこう答えた。
「難しいだろうが、トコトンやれば飯は食えるようになります」
その言葉を聞いた彼女は、安心したのか、少し微笑んだように見えたと樋口は振り返る。
翌1980年に樋口ゼミが開講すると、南條を含め5人の学生が参加した。初回の授業で、樋口が報道写真家にはテーマが必要だと言うと、彼女はすでに2つのテーマに取り組んでいると答えた。それは空港問題で揺れ続ける千葉の「三里塚」と、日雇い労働者の街「山谷」についてのドキュメントだった。
テーマは硬派だが、じっさいに写真を見ると「遠くからポチャポチャ撮っている」ような写真だった。高校時代から左翼的なイデオロギーに共感していた彼女は、観念ばかりが先行して被写体に迫れていないのだと樋口は見抜いた。その反面、たびたび報道写真の思想的な意義を強調した意見を言う。
それに対し、樋口は報道写真家に必要なのはイデオロギーではないと応えた。写真が思想の道具になれば、現実の人間が撮れなくなる。大切なのはヒューマニズムなのだとはねつけたのである。
この樋口の姿勢にふれ、南條は自らの方向性を見直すことになった。その結果、卒業制作として提出した右翼団体についてのルポには、これまでにない説得力が生まれていたと樋口は評した。そして南條のさらなる進歩に期待を寄せたが、卒業後の彼女はしだいに失速していくように見えていたと語った。
「花のつぼみ」と呼ばれて
樋口ゼミの卒業生は、月に一度は新宿の喫茶店に作品を持ち寄り、樋口に講評をしてもらう会を作った。喫茶店の名前をとって、その集まりは「カトレア会」と呼ばれた。
卒業後に再び山谷に取り組みはじめた南條も、当初は熱心にこの会に顔を出していた。しかし樋口から見ると、いくら撮っても写真に進歩はなく、かえって後戻りしたようにさえ感じられた。そしてしばらくすると、顔も見せなくなった。あれだけ燃えていた彼女に何があったのか。
その原因について相談を受けたのは、1985年のことだった。聞いてみると南條を悩ませていたものとは、彼女自身の結婚生活だった。再び山谷を撮り始めた南條は、撮影で知り合った労働組合の活動家と内密に結ばれていたのである。共通の理想を絆とした2人だが、暮らし始めると、何もかもが立ちゆかなくなってしまったと彼女は嘆いた。落ち込む彼女を、樋口は叱咤した。いったい君は何がしたいのか、表現者として生きるのかどうか、もう一度よく考えてみろと。
彼女が「出口のない日本の生活」と呼んだのはこのことだったようである。そこで日本を離れようと、混沌のインドに逃げ込むように旅してみたが、彼女の心はここでも癒されなかった。日本人である自分は、現地の貧しい人々を蔑んで見ているように思えてならなかった。
アフガニスタンという国の名前聞いたのは、そんな自己批判に苛まれ、鬱々としていたときである。同じ安宿に泊まっていた若い写真家からアフガニスタンに行くという話を聞いて興味が湧いた。彼の話す「ゲリラ」「国境」「「場」などの言葉は、あまりに刺激的で、大国ソ連と戦っているゲリラの戦場こそ、私が見るべき場所ではないかと彼女は直感した。
そして南條は、何の準備もなく、パキスタンとアフガニスタンの国境に向かった。それでも国境の町でゲリラの代表と話がつき、難民に偽装してアフガニスタンに入ることができた。ところが現地で行動をともにするゲリラは、彼女のイメージする理想を持った解放の闘士とは、まるで違う存在だと知る。イスラム聖戦士と呼ばれていても、もとは地元の農民であり、自身の土地を守るために武器を手にしたのだ。そんな彼らは頑迷だが優しく、素朴さを隠すこともなかった。南條は散発的に行なわれる戦闘より、その背後にある彼らの素顔と暮らしに惹かれていったのである。そんな彼女を、現地の人々も「ゴルゴタイ (花のつぼみ)」と親しみを込めて呼び、大切に扱った。
誕生と死
アフガニスタンで撮られた写真は、それまでの写真と比べると、見違えるほど活き活きとしている。その理由は、写真家と被写体との関係の持ち方にあるのだろう。彼女自身、山谷とアフガニスタンの撮影経験を比べて、次のように書いている。
「山谷では、‶こんな人間では、山谷の労働者は撮れない″という考え方にさいなまれていた。その場所は、私の自信を失わせ、前へ進む前に自己点検と自己批判を迫った。(中略) でも、アフガニスタンは、私が弱々しくて駄目であるほど頑張れと引っ張ってくれる。(中略) 人の写真を撮るということが、このように被写体から庇護され励まされ導かれて撮るものであったとは、初めての経験だった」
南條が自分の無知と弱さを理解し、被写体に寄り添ったとき、彼女の凝り固まった観念は溶きほぐされ、ものの見方も変わっていった。彼女はそれを、新しい感覚の「誕生」と表現している。
最初の撮影で自信をつけた南條は、1986年の8月から12月にかけ、再びアフガニスタンを取材した。このときは未亡人と子どもだけの難民キャンプにも焦点を合わせていて、その写真には彼女の視点の変化がより明確に浮かび上がっている。
帰国してからは、さまざまな雑誌にも取り上げられ、フォトジャーナリストとして注目を浴びるようになった。さらに個展も開催し、アフガニスタンで経験したことを文章にまとめた『戦士たちの貌 アフガニスタン断章』の出版も決まった。報道写真として認められつつあることを実感していたに違いない。何より変わったのは、彼女の態度や雰囲気だった。表情から硬さが取れ、ずいぶんきれいになっていた、と当時の友人は語っている。
やがて1988年、戦況の悪化にともないソ連軍がアフガニスタンからの撤退を開始する。しかし、南條は喜べなかった。当時の状況では、戦争が終結すれば各地に割拠する武力勢力同士の内戦になる可能性が高く、より危険な状態に陥ることが予想できたからだ。じっさい、その後のアフガニスタンは終わりの見えない戦いへと突入している。
もう自分が行ける場所ではない、南條はそう周囲には話していたという。しかし、それでも彼女は出発した。マスメディアの報道が、彼女の知る現状とはあまりにかけ離れていたからだ。だからこそ自分には見届ける責任がある、そう思わずにいられなかった。
そんな南條直子が成田を発ったのは1988年8月26日のことである。前日、はじめて著書となる『戦士たちの貌』の原稿を書き上げたばかりだった。そしてアフガニスタンに入ったのは9月1日。それからひと月後の10月1日、午前10時30分ごろ、彼女は撮影中に地雷を踏んだのである。一瞬で足を吹き飛ばされた彼女は、苦しい息で「私を撮れ」とゲリラたちに向かって示したという。それが報道写真家として自立を願った彼女の、最期の、意思表示となった。
彼女の死からすでに遠くなった現在だが、最近になってアフガニスタンでの戦争はようやく終わったかのように見える。だが、いまの体制がどこまで続くのかは誰も見通せない。
それゆえアフガニスタンに向かう若い写真家が今もいるようだ。そのうちの何人が、現地の人々から「人間」を学ぶことができるのだろうか。その気持ちが無ければ、他者の不幸に首を突っ込む資格などあるのだろうか? 南條直子の写真からは、そんな問いかけが聞こえてくるようである。
南條 直子(なんじょう・なおこ)
1955年岡山県生まれ。1979年日本写真専門学院(現・日本写真芸術専門学校)入学。
1985年アフガニスタン取材を開始。1987年に東京ドイフォトプラザにて初の個展を開催。1988年アフガニスタン取材中に地雷を踏み、死去。写真集に『戦士たちの貌 アフガニスタン断章』、『アフガニスタン ムジャヒディン』、『山谷への回廊 写真家 南條直子の記憶 1979-1988』がある。
参考文献
南條直子『戦士たちの貌:アフガニスタン断章』(径書房 1988年)
『潮』(潮出版社)1987年6月号 南條直子「女ひとりアフガンを行く」
『週刊時事』(時事通信社)1988年10月29日 中道草「女性写真家アフガンに死す」
『公明』(公明機関紙局) 1989年9月号 南條直子「もう1つのアフガン―いつやむ戦火―ソ連は撤退すれど変わらぬ現状」
『主婦と生活』(主婦と生活社)1990年1月20日号
岡村青「娘を想う母の追憶の日々―南条和子さん・59歳遥かなる異国の大地・アフガニスタンで爆死したわが娘よ!」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
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