【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.32 お祭りや伝承文化を見つめ続けた民俗写真の巨匠 芳賀日出男『日本の民俗』 鳥原学
芳賀日出男は、70年にわたって日本の民俗文化を撮り続けた写真家である。
こつこつと積み重ねられたその実績は、学術界を動かし、ごく普通の日本人にも民俗学の深い楽しみを知らしめてきた。さらに最晩年には、国境や人種を越えて人の暮らしに根付くものを立体的に浮かび上がらせたのである。
「広さ」と「深さ」
芳賀日出男は、日本における民俗写真の第一人者として知られる。一般的に「民俗」(英語ではfolklore)とは、ある生活共同体で育まれてきた伝承文化のことをさす。祭礼や季節の行事、あるいは生活習慣や“しきたり”などで、主に文字によらず、ある地域に代々伝えられてきたものだ。
芳賀は、その民俗を半世紀以上にわたり、日本のほか世界各地でも撮り続けた。彼の設立した「芳賀ライブラリー」にストックされた数十万点もの写真のなかには、すでに途絶えた風習も含まれており、いずれも貴重な記録なのである。
また資料性が高いだけでなく、芳賀の表現は平明で誰にでもわかりやすい。それぞれの行事の形式と、それを執り行う人々の高揚感の両方が、ストンと入ってくる。配慮された撮影技術があるからこそ、民俗についての知識、何より人間の集団への旺盛な好奇心がそこから見えてくる。
しかも写真がこれほどの数になると、写真が物語るメッセージの質は極めて厚くなる。個別の民俗的事象を捉えた写真が、相互の関連性の中で機能し、私たち自身の歴史を解き明かす視覚的なキーとなる。だから芳賀の仕事は、写真一点の面白さだけでなく、それらが連なった線や面の展開として捉えるとき、より豊かさを増すのである。
1997年に出版された上・下巻の『日本の民俗』こそはその好例で、何度見ても新しい発見がある。芳賀の仕事の集大成である本書は、上巻に「祭りと芸能」、下巻に「暮らしと生業」というサブタイトルが付されている。
祭礼などの非日常である「ハレ」をテーマとする上巻は、神が依りつく白い紙でできた 「御幣」の写真が冒頭におかれ、続いて、季節によって集落を訪ねる「訪れ神」の章が立てられている。モノと人に依りついてこそ神は実体化するのであり、「神を写すということは、化身である『よりまし』を写すことだ」と芳賀は語っている。この「よりまし」を軸にした、以降は、さまざまなハレの日の祭礼や芸能ごと、花祭り、獅子舞、神楽、能、年越し、盆踊りなどが紹介されている。
一方の下巻は「ケ」、つまり日々のことが中心だから、華やかさは少ない。しかし、人の誕生から葬礼まで、暮らしに密着した行事の描写の実に鮮やかなこと。かつて農山漁村では、家と仕事が一体で自然環境に依存する日々であったこと、またそれが古くからの信仰に支えられていたのだ。なかでも筆者が興味深く見たのが「運ぶ」と題された章だ。多様な荷の担い方やその道具の使い方が捉えられていて、日本人の民俗文化はこうした暮らしの中での身体感覚を通じて代々受け継がれてきたのである。
本書で芳賀は、日本の民俗の典型と、それが継承されてきた由来を視覚的な明快さをもって示している。それはとても大きな視野であり、一朝一タに手に入れられるものではない。
写真と民俗、その出会い
古い民俗行事を見続けた芳賀だが、意外なことに、彼の少年時代は伝統的な暮らしと縁がなかった。1921年に生まれ、少年時代を育ったのが旧満州、大連市内のサラリーマン家庭だったからだ。
帝政ロシアが開発を手掛け、日露戦争以降に日本が開発を引きついだ大連は、ベルリンを参考に開発された最先端の国際都市だった。綿密な都市計画に基づく近代的な建築が整然と並び、広大な道路や公園が整備されていた。芳賀の父は、その開発を進めた南満州鉄道のエリート技師であり、「我が家に神棚はなく、両親が盆行事をしていたおぼえもない」と振り返っているほどである。それだけに、1939年春に慶應義塾大学に進学し、初めて母国の風景を眺めたときの印象は鮮烈だったという。まず満開の桜に魅了された。そこから四季の変化に合わせて暮らしや行事を楽しむ日本の生活文化に触れていくたびに、新しい発見があった。全国から集う学生の多様な方言にも驚き、日本の民俗への興味はこうして芽吹いていったのだ。
このころの芳賀は、大学を卒業すると満州に戻り、グラフ誌を作ることを夢見ていたという。父が写真好きだったため、カメラを手にしたのは小学生のころと早く、大連第一中学校時代には、すでに観察眼を生かして写真を撮っていたのだ。なにより当時は報道写真が勃興してきたころで、日本のさまざまな公的機関が写真による広報活動を熱心に展開していた。南満州鉄道も『満州グラフ』を発刊しており、そのグラフィックな紙面からも刺激を受けていた。
幸いなことに、大学には彼の夢を育てる環境があった。慶應にはカメラクラブとフォトフレンズの二つの写真部があり、その華やかな活動は写真界の注目を集めていたのである。じっさい後にここから写真家として飛躍した者は少なくなく、例えば日本人で初めて『ライフ』誌の契約カメラマンとなった三木淳やフォトエッセイストと呼ばれた長野重一などがいる。芳賀もまたカメラクラブに入会して撮影に励み、群衆や人をテーマにした作品などが評価され、写真雑誌にもたびたび作品が掲載された。そのクラブを指導していたのは、大学OBで日本近代写真の父とも言われる野島康三であり、彼の言葉を芳賀はよく憶えていた。
「先生はどんな作品にも理解を示され皆が気づかない点を誉めてくださった。誉めるところがないと、よく『これは不思議な写真だね』などと言われて楽しかった」
そして、写真と民俗文化という別々の感心を写真に結びつけたのは、国文学教授で民俗学者の折口信夫だった。ただし、中国文学を専攻していた芳賀は、折口と親しく交わったわけではなかった。関西のイントネーションで行なわれる折口の講義は理解しづらく、近寄りがたい空気も感じていたのである。だが、居眠り半分の耳に飛び込んできた一言が琴線に触れた。
「村の祭りの日に、若者が笠をかぶり、蓑を着て、杖をつき、遠来の神の姿で訪れます」
これは折口の有名な「まれびと論」の要点であり、日本の祭りとは、この訪れ神を迎える儀礼であることがここから展開される。このとき芳賀は「神は撮れる」と直感し、その鮮明なイメージさえ脳裏に浮かんだと語っている。
しかし、そのインスビレーションを、すぐに試すことはできなかった。1941年にアメリカと開戦すると、写真部も低調になり、慶應カメラクラブは1943年10月の例会を最後に、 その活動を休止した。文化系学生の徴兵猶予は廃止され、繰り上げ卒業となった。芳賀はこの年12月の学徒出陣で海軍に志願。訓練を経て偵察機の搭乗員となり、航空写真の撮影という任務が与えられた。
さらに1945年3月には、「特別攻撃隊員を命ず」との辞令を受け、8月16日にサイパン空襲を命じられることとなる。幸いその前日に終戦となったため、芳賀は生き残ることになった。だが、「何か割り切れぬ気持ちの中で奇跡的に助かったことを知った」(『丸』1969年6月号)ことで、複雑な思いを抱えながら芳賀は新しい時代を生き始めねばならなかったのである。
『田の神』を機に
民俗写真への第一歩を踏み出すのは1952年の末である。この年、海軍時代の仲間と興した通信社が倒産して収入源を失った芳賀は、気分を変えようと、暮れから翌正月にかけて福島の親類宅で過ごした。このとき現地の正月行事に心を打たれてカメラを向けた。そして、これを機に折口教授の言葉を思い出し、歳時記を手に全国のお祭りや行事ごとを訪ね歩き始めたのである。そして1954年に広島で「大田植」に出会い、日本の民俗行事の中心にある“稲作儀礼”を自身のテーマにはっきり据えた。
しかし、芳賀には、こうした写真を「誰が必要とするのか」という難問があった。少なくとも当時の主要な作品の発表媒体である写真雑誌にはなかった。民俗をテーマにした作品といえば、戦中の『写真文化』誌で、 濱谷浩が後に『雪国』にまとめられるものの一部を発表していた程度だった。芳賀はそんな濱谷を尊敬し、自身の決意を話にいったこともある。
アカデミックな領域でも写真は重視されていなかった。民俗学の創始者である柳田国男は、被写体がカメラを意識して自然さを失い、撮影者の意図に応じて振る舞うこと、つまり分かり易くするための演出を嫌っていたのだ。じっさい、戦前の民俗学会で写真は重視されず、民俗学者が写真を修得するほうが早いという意見もあった。それでも芳賀が民俗写真に進んだのは、折口の「訪れ神」に惹かれてやまなかったからだ。芳賀は歳時記を片手に各地の祭りを精力的に訪ね歩いた。
やがて芳賀に、場を提供する出版社が現れた。民俗学事典の編纂に取り組み始めた平凡社である。この時期、民俗学は注目を集め始めていた。ひとつには戦争に対する反省と民主主義が浸透していくなかで、無名の庶民が形成してきた文化に対する学問的興味が高まっていたからである。また戦後復興から高度経済成長の中で伝統的な村落社会が解体しつつあり、日本人の原点を消失する危機感が漂っていた。
こうした背景のもとで、平凡社は『綜合日本民俗語彙』や『日本民俗学大系』などを企画していた。これらに使用するカットを芳賀に依頼したのだ。結果として、この仕事は学術界の写真に対する認識を変えていった。芳賀のほうも、編集にあたった民俗学者の谷川健一、宮本常一らとの親交を通じ、学術的な理解を深めていった。
そして1959年、写真家芳賀日出夫の評価を決定づける二つの本が刊行された。ひとつは1955年からの3年間同行した九学会連合奄美大島共同調査委員会の報告書『奄美 自然と文化』である。2冊組のその本の写真編には、芳賀の写真が多数収録されて記録的な価値を示した。
もうひとつは、初の単独写真集『田の神』で、芳賀の民俗写真はここで確立したといえる。かつて柳田国男が否定的に捉えた写真の演出性に対して、写真家は被写体との対話を通じて生活に深く入ることで正確な描写ができ、また納得の上で演じてもらうことでその権利を守ることができると論じているのだ。
「演出には撮影者の意図を加えるプラスの演出法と被写体の本質以外のものを取り去るマイナスの演出法がある。記録写真の演出はマイナスの演出法を多く使う。被写体に撮影者の意図を加えるのではなく、被写体のうえにおいかぶさっているものや、運動を妨げているもの、偶然無関係に隣接するもの、アクシデントを取りのぞき、結晶だけを明確に見せようとする手段である」
こうして撮られた写真に込められた想いも熱い。芳賀は稲作儀礼を通じて「日本民族の祖先の姿」を視覚的に探るものと位置づけ、今はそれが可能な「最後の時代」としている。芳賀は民俗文化の危機を問うたのである。
だが、この芳賀の危機感は以降の長い活動の中で変化、いや、成熟していったというべきだろう。『日本の民俗』の中では「村が町から大都会になり、機能化した社会になっても、日本人の古い習俗はどこかに伝えられていく」と静かに語っているのである
たとえば企業活動を軸にした都市生活の中で、新しいスタイルの祭りや冠婚葬祭の儀礼スタイルが生まれている。一見するとそれらは古い伝承とかけ離れているようだが、その細部には一貫した民族的なメンタリテイが見て取れる。民俗とは過去のものではなく、常に変形しながらも繋がっていくものなのだと芳賀は語っていた。それは地理的な面でも同じで、世界各地の祭りに類似したものが少なくないのは、神話や文化がおよそ遠くの地域にまで伝播していったたからである。
実際、芳賀はこうした事実を国内外のフィールドワークでつぶさに記録してきた。それらの写真が繋がり、見えてくる世界はなんと豊かなものだろうか。芳賀が積み上げてきた仕事は、 汲めども尽きぬ泉のような面白さを常に私たちに教えてくれるのである。
芳賀日出男(はが・ひでお)
1921年、中国大連市生まれ。1944年慶應義塾大学文学部を卒業。以降、「民俗」をテーマに撮影・取材を重ねる。1985年、芳賀ライブラリーを設立。その写真はあらゆるメディアで活用されている。主な著書に『田の神』『日本の祭』『子どもの祭リ』『折口信夫と古代を旅ゆく』『宮本常一と芳賀日出男があるいた九州・昭和37年』などがある。2022年、101歳で没。日本写真協会功労賞、藤本四八写真文化賞など受賞多数。勲四等旭日小綬章受章。日本写真家協会名誉会員。
参考文献
『日本の写真家 27 芳賀日出男』(岩波書店 1998年)
『丸』(潮書房光人新社)1969年6月号 芳賀日出男「明日の命は翼とともに わたしの学徒出陣時代のアルバムをひもとけば…」
『創』(創出版) 1980年1月号 芳賀日出男 鈴木一郎 対談「世界の珍談・奇談カタコト外国旅行」
小堺昭三『カメラマンたちの昭和史 写真家物語』(平凡社 1983年) 「芳賀日出男物語 祭りが呼んでいる」
『人文學報』(京都大學人文科學研究所 2004年) 菊地暁「距離感―民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法―」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
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