菊池東太のXXXX日記 vol.9

わたしはナバホ・インディアンの写真でデビューした。

ところが今になってその写真に納得がいかなくなってきた。インディアンと呼ばれている珍しい人たちという視点で彼らを見、シャッターを押していた。同じ人間という視点ではないのだ。

撮り直しに行こう。最終作として。この考えに至った経緯も含めて、これから写真家を目指す若者たちに語ってみたい。

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※TOP画像:マンザナー収容所跡正面ゲート(カリフォルニア州)

第2次世界大戦というのがあった。ファシズム体制をとる日・独・伊3国と、米・英・仏・ソ・カナダ・オーストラリア他などとの間におきた世界規模の戦争である。
1941年12月に、日本がアメリカのハワイを宣戦布告なしに奇襲攻撃することによって、日本も加わった世界大戦となった。
1942年、時のアメリカ大統領ルーズベルトがアメリカに居住権を持つ127,000人の日系人及び彼等の子孫の95%に相当する120,313人を強制収容する、という大統領令を発した。内70%はアメリカの市民権を所有していたという。日系人は、危険だと言う理由で。
日本と同じ側にいて、アメリカと戦ったドイツとイタリア系アメリカ人は強制収容されなかった。

通知を受けた12万余の日系人は一週間以内に動産不動産を処分し、手に持てるだけの荷物(トランク2個)で指定の場所に集合せよ、という紙一枚によって、カリフォルニア(2ヶ所)、アリゾナ(2ヶ所)、アーカンソー(2ヶ所)、コロラド、ワイオミング、アイダホ、ユタの計10ヶ所の収容所に、分散して強制収容された。

収容所棟

室内

 

それぞれの収容所跡をまわってみることにした。
最初に、カリフォルニアにあるマンザナー強制収容所跡に行ってみた。
ロサンゼルスのダウンタウンから車で3時間半の距離だ。その近くにはデスバレー(死の谷)国立公園がある。乾燥しきった、過酷な環境下にあるようだ。
現在は内務省の国立公園管理局の歴史保存地区に指定されているので、道路標識はしっかりしていた。「MANZANAR NATIONAL HISTORIC SITE」とあった。

有刺鉄線

監視塔

 

木造の兵舎のような収容所棟、その部屋、監視塔、有刺鉄線の柵などが当時を偲ぶ縁として、復元されていた。
電気、水道はどの収容所にも完備されていた、という。逆に一般市民の住宅にはまだ水道や電気が施設されてないところもあり、強制収容所にはそれらがあるということで、トラブルにもなったところもある。
木造平屋造りの文字通り質素な家屋があり、室内には鉄パイプ造りのベッドが並べられ、だるまストーブがポツンとあった。何の愛想もない殺伐としたものだ。ただの入れ物、箱でしかない。

また、『I AM AN AMERICAN』と大書してある町中の店の写真があった。居住権も市民権も持った人間が、わたしはアメリカ人だ、と主張しなければならない状況とは。
ロサンゼルスの市内に、今でもリトル・トーキョーという日系人の集まった一角があり、そこで撮った写真のようだ。
この店の店主は当然アメリカ国家に税金も納めていた。それでもかれとその家族は、強制収容所に送られてしまったのだ。要するに日系人は否応無しに強制収容されたのである。

I AM AN AMERICAN

 

アメリカ人は主張する。
「おまえら日本人が、なんの宣言もなしに、卑怯にも突然攻撃してきたのじゃないか!」
宣戦布告をしなかったのは、当時のルールから言って、確かにまずいのだ。
そこいらへんは、われわれ日本人はよく考えておかなければならないことではある。

 

vol.10へつづく

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