
【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.37 日本社会の”典型”を探る 土田ヒロミ『砂を数える』 鳥原学
「個人」が集まると「集団」になり、さらに膨れ上がると「群衆」になる。群衆心理という言葉があるように、個人のとはほぼ別の性格を帯び行動スタイルも変わる。だからこそ観察しなければ見えないことがある。土田ヒロミの『砂を数える』は、高度経済成長を経て貌を変えた都市とその郊外で出会う群衆に典型を見出した作品である。
明るさの中の「巨大な闇」
言語感覚が鋭いと言うべきか、土田ヒロミはタイトルをつけるのが相当に上手い写真家だと思う。都会に対する違和感を主観的に表現したデビュー作の「自閉空間」(1971年)、日本人の民族的な卑俗さを見つめた『俗神』(オットー・ブックス)、なかでも秀逸なのが1990年に出版された『砂を数える』(冬青社)だ。どの写真も画面いっぱいに膨大な人々、 つまり「群衆」が写されている。そのヴィジュアルをじっと眺めていると、まさにこのタイトルしかあり得ないという気持ちになっていく。
土田がこのシリーズに取り組んだのは、1976年から89年にかけてで、撮影地は都市とその近郊で催されるさまざまなイベントやセレモニー、あるいはレジャー施設などである。それも最も人が多く集まる時期を選んでいるのが分かる。
この撮影にあたって土田が心がけていたのは、ふたつのことだった。ひとつは、全体が均質に見えるように画面に中心を持たせないこと。加えて、その画面から具体的な場所や目的が読み取れるような記号を排除することで、その狙いは次のような点にあったと語っている。
「非日常での庶民の顔がそこには写っているわけだけれど、そのハレの記号を消すことでハレとケの境い目に写真を追い込んだ。なおかつ、そこにハレの顔をもった人、モノが存在している。その存在感にどう写真で迫れるか」
つまり、日本人が群衆と化したときの典型を視覚的につかもうとしたのだ。このテーマ性は土田の代表作である本作や『俗神』、あるいは『ヒロシマ』シリーズなどにも共通している。一貫してかなり深い部分を見通した、写真による日本文化論を作ろうとしていたのだ。
「土田さんの写真は、私たちの意識を超え、私たち自身の肉と精神とをひそかにかたどっているなにものかを、まるで掘りかえされた木の根のように見せようとしている。このなにかは無意識というような言葉では覆い尽くすことはできない」
評論家の多木浩二は土田の仕事をこう評し、作品を見た人は「私たちが属している巨大な闇のようなものにじかに触れはじめる」と続けている。
現代的な都市生活において、この巨大な闇は、政治的なイベントや公的な儀礼の場所など、大規模で非日常的な空間にこそ浮かび上がるもののようだ。ところが不思議なことに、イベントの目的が解説されてしまうと、見る側の想像力は萎えていくものらしい。それを避けるために土田は、撮影対象についての情報、どんな目的のイベントなのかを理解する手掛かりを意図的に画面から排除している。
それでもなお、集った人々の服装や世代といった共通項から、イベントの種類を察することはできる。たとえばお祭りや初詣、花見、メーデー、原爆忌、マラソン大会などは経験的に読み取り易い。持ち物で分かるケースもある。揃いの帽子をかぶり、一眼レフを手にした集団となれば、アマチュア写真団体の撮影会に違いない。
見ただけで状況がわからないのは、たとえば写真集の84ページと85ページの見開きに並んだ2枚の写真。どちらも雨模様の冬の日、ロープが張られた広場に並んだ人々を捉えている。集っている人々は中高年が多く、みな険しい表情をしている。中には手を合わせ、ひれ伏す者さえいる。
そこで写真に小さく付された1989年という撮影年と、千代田という地名を見て、やっとこの状況が飲み込める。そう、これは昭和天皇の大喪の礼。そのときの皇居前広場の風景なのだ。土田はここに集った人々を目にしたときが、撮影中で最も刺激的で「さがしていた群れに出会えたと思った」のだと写真集のあとがきで述べている。昭和天皇の死は、まさに日本の歴史の底にある「巨大な闇のようなもの」を突然、顕在化させたできごとであったのだ。土田だけでなく、きっと昭和を生きた多くの日本人にとって。
都市への脱出
土田ヒロミは1939年、福井県の南条郡堺村 (現・南越前町)で生まれた。二十数戸程度の小さな農村だったが、国鉄でSLの機関士を務めていた父は、進取の気風のある人だったと言う。ラジオを買ったのもスキーを始めたのも村で最も早く、英語も独習していた。一方、母は田畑を耕しながらしっかり子どもたちを育ててくれた。
土田の家族関係で重要なのは、彼自身が一卵性の双生児の弟だったことだ。幼いころ、兄とはいつも2人で過ごす蜜月の関係だったが、成長すると周囲の目が気になり、親密さは一種のコンプレックスに転化した。双子ゆえに「自立意識の希薄なところ。何か依存しあっているところがある」と語っている。
そんな土田は絵が好きだったが、親の勧めに従い、地元の福井大学工学部で化学を専攻している。もちろん入学してしまえば、こっちのものではある。在学中は当時の前衛美術を牽引していた抽象画に惹かれたが、絵筆の代わりにと、カメラを手にした。このころ憧れた写真家は、より映像的な表現で注目を浴びていた若手、奈良原一高や細江英公だった。
4年生になると、工場の解体現場などをモチーフにしたグラフィカルな作品「KU」で最初の個展を開き、また同作で初めて写真雑誌の口絵を飾っている。この初期作品から見えてくるのは、モダニズムや都市文化への憧れだろう。それは古い地縁と血縁の縛りが強い地元ではなく、都会で可能性を広げてゆきたいという願望の投影のように思われる。当然、作品が評価されると、土田は写真家を志向するようになった。投函しなかったが、細江宛に弟子入り志願の手紙を書いたこともあったという。
しかし都会への憧れと親の期待は両立しない。その葛藤のなかで、就職先として化粧品会社の研究員を選んだのは、よく考えたうえでの現実的な選択だった。入社2年目には東京勤務が約束されていたからである。実際、1964年に土田は東京の研究所に異動になった。担当は新製品の開発という仕事で、わりと時間的な余裕があったらしい。土田は週に2回、東京綜合写真専門学校の夜間の研究科へ通うことに決めたのである。その入学時の面接で、これまで撮っていた作品を見せたところ「そんなものは写真じゃない」と手厳しく否定された。そう言い放ったのは、校長で写真評論家の重森弘淹だった。
入学後、その重森に教えられたのは、写真はグラフィカルな表現に収まらない可能性を持っているということだった。カメラは人の視覚では捉えられないもの、見落としていたものをも写しとる装置であり、写真の表現とはその描写能力によってそれを見出すものである。だからこそ、写真家は「日常の中に非日常を見る」ことが大切だという言葉に、土田は強い感銘を受けた。
日本人の深層
平日は会社に勤めつつも、土田は精力的に写真を撮った。そして先鋭的な写真雑誌だった『カメラ時代』(写真同人社)の新人賞を獲得したり、『カメラ毎日』(毎日新聞社)のグラビアに登場したりと、少しずつ名前が知られていった。このころ撮っていた作品のテーマは、モダンな都市生活の中で彼自身が覚えた疎外感だった。ただその表現はまだまだ、‶よそゆき″の服を着ているように見えるものだったと振り返っている。
だが1969年を境に、土田の写真は変化を見せる。この年から撮り始めた浅草の写真には、三社祭で爆発する下町のエネルギーとその賑わいに馴染めない自己嫌悪の感情が、画面全体に滲んだトーンによって表明されている。あまりに率直に自身の内面を晒したこの作品に、土田は「自閉空間」というタイトルを付けたのである。
同年の『カメラ毎日』7月号に掲載された「田楽の日」もまた、転機を感じさせる2枚組の作品だった。これは愛知県の山村、一色黒沢集落の小正月の行事で撮影されたもので、境内の裏山で酒宴に興じる中高年の男女を捉えた1枚が、ことのほか強い印象を与えた。まるで19世紀フランスの画家エドヴァール・マネの「草上の昼食」を思わせる構図である。この絵画は不道徳とされたことで知られるが、土田の写真はより土俗的で猥褻、しかし同時に奇妙な朗らかさがあった。そこには、素性や体質として自身にも染み込んでいながら否定しようとしてきたものが、はっきり表れていた。
開き直るように自分と正面から向き合った土田は、2年後の1971年4月、ついに会社を辞め、写真家として独立を果たした。その直後に「自閉空間」で、若手写真家の登竜門だった太陽賞の受賞を知らされたのは、彼にとって良い追い風になった。
翌年、土田は『カメラ毎日』誌に隔月で連載をする機会を得た。「田楽の日」の世界を広げ、高野山、与那国島、伊勢など日本各地の宗教的な空間と、そこに集う善男善女をスナップした「絆」シリーズである。この連載が注目を集めたのは、まるで戦前にでも撮られた風俗写真にも似た、一見すると古めかしく、同時に懐かしい調子があったからである。
この「絆」シリーズの延長線上に、1976年に出版した初の写真集『俗神』がある。「俗神」とは本書に寄稿した、 農民詩家の松永伍一の造語である。文中で松永は「聖は一転すれば俗になる。俗はつきつめていくと聖になる」と語り、また人のエネルギーは神聖さと猥褻なまでの俗っぽさが渾然一体となるほど強まるとした。つまりこの状態で生きるものが俗神であり、土田の写真の独特なトーンは、その存在感を見る人の生理に直接訴えるものだった。
そして『俗神』が終わった後、土田は都市をテーマにした作品に取り組み始める。そのひとつが『砂を数える』なのだが、ここで作品の雰囲気はまたまた大きく変化する。これまでの湿度の高さが画面から消え、冒頭で触れたようなフラットさと、突き放した視線でもって都市の群衆を見つめているのだ。 それはすっかり東京での生活が長くなった自分を確認するため、また砂粒のような個人の集積である、都市の群衆を客観的に見るために選んだ手法であった。
土田はいつも世相の変化に敏感に反応してテーマを広げ、それに応じてアプローチも変えつつ、日本人の深層と何かを問いかける。『俗神』の粗いトーンが都市への人口流入が進んだ時代のメンタリティを表しているとすれば、この『砂を数える』のフラットさも安定成長期の気分を伝えているのである。
付け加えれば、2005年に出版された『新・砂を数える』での群衆との距離はさらに遠ざかっている。また画像ソフトで非現実的な色彩に加工し、群衆の中にこっそりと土田自身の姿も滑りこませている。21世紀に入って顕著になった、現実とイメージの逆転や、写真の真実性のゆらぎをここでは問いかけたのである。そして、そのフィクショナルな画像からはやはり「巨大な闇のようなもの」が、以前とは違った形をともなって浮かんでいるのである。
土田ヒロミ(つちだ・ひろみ)
1939年福井県生まれ。1963年、福井大学工学部卒業。ポーラ化粧品本舗を経てフリーに。1971年~1996年、東京綜合写真専門学校で教鞭を執る。主な作品集に『俗神』『ヒロシマ』『宴:Party』『ヒロシマ・モニュメントⅡ』『ヒロシマ・コレクション』『砂を数える』『新・砂を数える』『BERLIN』『FUKUSHIMA 2011―2017』がある。土門拳賞、太陽賞、伊奈信男賞など受賞多数。
参考文献
加藤哲郎『昭和の写真家』(晶文社 1990年) 「土田ヒロミ 引き算写真を駆使して撮リきる 「砂の数」」
『アサヒカメラ』(朝日新聞社) 1978年1月号 多木浩二 「イメージの劇場9 見えること見えないこと 土田ヒロミの「パーティ」について」
『カメラ毎日』(毎日新聞社) 1978年5月号 土田ヒロミ「砂を数える」、西井一夫「人物スポット「俗神をふり切る 土田ヒロミ」」
プロジェクト・オムニ編『25人の20代の写真 ヤングボートフォリオ 開館記念企画展』図録(清里フォトアートミュージアム 1995年) 土田ヒロミ「私の20代」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
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