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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.19 モダンアートの眼差しから生まれた、新しい風景表現 柴田敏雄『日本典型』 鳥原学

柴田敏雄は、山間のダムや堰堤に自然と人工物が融合した美しさを発見した。それはセザンヌに端を発するモダンアーティストの眼差しであった。また、その精緻なプリントは圧倒的な存在感を放ち、美術品として写真が扱われる「オリジナルプリント時代」の到来を感じさせたのだった。

 

風景の発見

つまるところ写真家の仕事とは、普段は見えないものの存在を示すことなのだろう。見慣れた風景のなかに潜んでいる新しい美しさや認識を、写真的な視覚によって描き出すことだ。そのためには、現場のどこに立って対象を眺め、どんな機材を使ってそれを描写し、さらにどう提示すれば最適なのか。写真家とはそれを考え抜く人だと思う。

1980年代、柴田敏雄は日本の山間の風景から大型カメラを使ったモノクロ写真で、新しい美しさを見つけ出し、それを「日本典型」と名づけた。その美とは、急峻な斜面に貼り付けられたようなコンクリートの構築物、堰堤(えんてい)やダムなどが作り出した、きわめて人工的で幾何学的な造形がつくりだす景観だった。

国土の7割を山地が占め、また自然災害が多い日本では、防災の必要上からも土木工学が発展してきた。各所の地形に対応するために繊細な工事が施され、その結果として複雑な幾何学的形態を持ったユニークな造形の構築物が山間部に出現した。とはいえ、それを写真表現のモチーフとして積極的に撮る者はいない。

測量や竣工時に記録されるか、あるいはなんらかの報道のテーマとして扱われる対象に留まっていた。いや、それは自然のなかに侵入する都市化と環境破壊の象徴として見られ、風景写真のテーマとしては積極的に忌避されてきた。

ところが柴田の写真は、こうした構築物はその社会的機能や意味を超えたものとして私たちに示したのだった。8×10の大型カメラは複雑に重なり合った造形とテクスチャーを精緻に描写し、形どうしの響き合いから視覚的なリズムを生みだしている。じっと見ていると遠近感が混乱してきて、だまし絵を見ているような気分にさえなる。写真による抽象的な造形表現の新しい試みだったといえる。

柴田は現代土木工学の成果を、日本的な風景の感受性によって捉えている——。そう見たのは、土木構造物のある景観について長年研究を重ねてきた中村良夫だった。柴田にとって2冊目の写真集となる1994年の 『テラ—創景する大地』を企画した中村は、そこに「風景の現在」という一文を寄せ、こう述べている。

「土の味、流れの意匠で装われたこの新風景に住み心地のよさはない。むしろ渋いそのたたずまいは哲学的だ。自然と人間について、宇宙について人々を瞑想に誘い込む趣がある」

中村は「禅の芸術理念」に通じているのだとも言う。ならばその理念は、写真集よりも展示で、つまりオリジナルプリントを前にしたときに強く感じられるはずだ。なぜならまず画面の大きさに違っている。1メートルを超える画面には、物質的な存在感と迫力がある。しかもハイエストライト(画面の最も明るい箇所) からディープシャドー(最も暗い部分)までの階調の変化が、じつになめらかである。それはどんなに精細な印刷物でも決して体験できない魅力なのである。

現在、私たちがオリジナルプリントに触れる機会は少なくなく、柴田のそれを見る機会も度々ある。扱うギャラリーがいくつもあり、美術館でも積極的に展示が行なわれているから、そのたびに筆者は見事さに感じ入る。

しかし、柴田が本格的な活動を始めたころ、そのような環境はまだなかった。そのなかで「日本典型」が誕生したこともまた、日本の写真表現史のなかで大きな意味を持っているのである。

 

模倣の時代

柴田敏雄のダムへの関心は、さかのぼれば小学生時代の記憶に結び付くようだ。学校で見た教育映画や理科の教科書から「石の一生、水の流れ、大地の輪廻、想像の中でのみ可能な壮大な宇宙のようす」に興味を持ったことが「自分の無意識のうちに作用している」のではないかと彼は推察する。もちろん、そう気付いたのはずいぶん後のことではある。

柴田は1949年に東京で生まれた。学校での成績は優秀だったから、中高一貫教育の進学校に通った。ただし会社員だった父を見ながらも、自分は違った生き方をしてみたいと漠然と思っていたという。

そんな少年に進むべき方向を示したのは、16歳のとき、通学途中にあった渋谷の書店で手にしたポスト印象主義の巨匠、ポール・セザンヌの画集だった。セザンヌは描く対象を円筒、球、円錐という抽象形態として捉え直し、それを多視点でもってキャンバス上に再構成した。それが絵画特有の二次元表現とは何かを徹底的に追求したうえでの、彼の答えだった。この画法の発見が以降の絵画表現に与えた影響は大きく、キュビズムや抽象画など誕生に直接的な影響を与え、そのため「近代絵画の父」と呼ばれている。幼いころから絵が好きだった柴田は、その独特で執拗なデフォルメに惹かれ、画家の生涯にも敬意を持ったと語っている。

柴田は、その感動から美術大学を目指すことを決めた。毎日のように美術予備校に通ってデッサンの習得に励み、その甲斐もあって1968年に東京藝術大学の絵画科に合格する。

入学後、初年度には基礎的なテクニックを学ぶことができたが、しかし翌年になると学校にはほぼ行けなくなってしまう。ちょうど大学紛争のピークにあおり、デモやロックアウトなどの影響から、まともに授業が行えなくなっていた。そこで柴田は運転免許を取得したり、サーフィンをしたりしながら日々を過ごす一方、美術のあり方を捉え直すよい機会にしようとしている。美術関係の本を読み、なかでも最先端のムープメントだったアメリカの前衛美術について理解を深めっていったのだ。

当時、ポップアートのアンディ・ウォーホルやネオダダのロバート・ラウシェンバーグなどの美術家たちは、日常にありふれた消費物や報道や広告写真のイメージを流用や模倣したシルクスクリーン版画など、マルチプル(複製)な作品を発表していた。いわば二次創作的な美術の傾向である。アメリカが世界に先駆けて実現した高度消費文化から生まれた潮流であり、その影響を強く受けてきた柴田ら「団塊の世代」にも素直な身体感覚で共有できるものだった。柴田は、大学で学んでいるアカデミックな 「西洋近代美術からいわゆる現代美術へどうやって飛び越えるか」を示唆するものとして彼らの仕事を捉えていた。

翌年、ようやく学園紛争が沈静化した大学に戻ると、柴田は鎌谷伸一や辰野登恵子という後に美術家として活躍する級友たちと版画の制作を試み始めている。彼らはアメリカのロックバンドCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)のアルバムからとった「コスモス・ファクトリー」というグループを結成して技術や理論を独習、1971年と1973年に銀座の村松画廊でグループ展を開催している。柴田はカメラを持つようになったのはこのころで、版画の素材を得るために欠かせない中間的なメディアとして写真を始めたのだった。

やがて柴田は大学院に進むのだが、その間には、油絵やシルクスクリーン印刷のほか、木版画などさまざまな技法を試みている。また1973年には初めてアメリカに渡航し、2カ月をかけて各地の美術館を巡り、写真をもとに正確に描く「スーパーリアリズム」などの新しいムープメントにも触れた。振り返ってみれば、当時のアメリカの美術界で大きな潮流をなした、ポップアート、スーパーリアリズム、あるいはコンセプチュアルアートなどの作品のなかで写真というメディアの比重が高くなっていた。

しかし、こうしたムーブメントを実践しても、完全には自分のものにはならなかったと柴田は振り返る。学生時代は「すべて他人の真似で、面白いと思うものをただ模倣していた時期」だったのである。

 

オリジナルプリントの可能性

修士課程を終えた柴田はいったん映画制作会社に入り、CMの制作に携わっている。だが、忙しく働くなかでも、美術への思いには断ち難いものがあり葛藤が高まっていった。

そして1年余りで会社を辞めると、たまたま立ち寄った母校で知ったベルギーのゲント王立美術アカデミーの給費留学生に応募。それに合格すると、アカデミーからの勧めに応じて新設の写真科に入ることになった。

それでも現地では最初に版画の制作を試みた柴田だが、最後の「刷り」の工程まで関われなかったこともあって写真に集中するようになったという。またエドワード・ウェストンの写真集を入手して、その作品の精密さに惹かれたことも大きい。版画の素材としての写真を扱い際はざらついた粒子を強調することもあったが、ウェストンはそれと正反対なことに驚いた。

歴史的に見ると1930年代にウェストンがアメリカ西海岸で取り組んだ、大型カメラによる精密な風景の描写は、その影響を強く受けたアンセル・アダムスに引き継がれて「ゾーンシステム」というプロセスに体系化され、さらに豊かな階調を実現するようになったいる。柴田もまた大型カメラと技法書を購入してそれを独習しつつ、ヨーロッパ各地に撮影に出かけるようになった。

オリジナルプリントのなかに写真の可能性を確信したのは、パリの画廊でオリジナルプリントを見たときである。それもウェストンやアダムスなどの古典と、ネガフィルムを使った色彩表現、1980年代に登場したカラー写真の新しい表現動向であり「ニューカラー」の旗手ジョエル・マイヤーウィッツとを同時に目にしたのだった。ことに後者は身近な風景を一般的なカラー印画紙で表現しており、素材と技法の日常性という点において、ポップアートを引き継ぐもののように思えた。

そして1979年、柴田は新宿ニコンサロンで個展「冬のヨーロッパ」を開催すると、これを機に日本に戻って制作活動を始める。やはり自分の帰属する文化の中で撮ろうと決めたのである。

ちょうどこの頃、日本の写真界にも変化が訪れようとしていた。柴田が帰国する前年に、日本で初めてのオリジナルプリントギャラリー「ツアイト・フォト・サロン」が日本橋で開設されていたのだ。そこに初めて作品を持ち込んだとき、ギャラリーオーナーの石原悦郎は「10年後にはオリジナルプリントの時代が来る」と明るく言った。

柴田はその言葉に励まされたが石原の言葉はなかなか実現せず、何度も「写真を辞めようかと思った」というほど苦しい時期を過ごしたという。それでも、その作品が写真関係者に鮮烈な印象を与えたことは間違いない。たとえば同世代の写真家でその世代のオーガナイザーでもあった谷口雅は、ツァイトでの最初の展示を見て次のように記している。

「日本では目にしたことのないクリアーな写真が数点展示されていた。砂浜を撮った写真だったと思うのだが、外国の写真家にしては構図のとり方に暖昧さを残しているし、画面に漂う情緒感が日本人的で、これはいったい誰の写真なんだろう」

一方の柴田は、日本での制作に困難を覚えていたという。ヨーロッパの整理された風景に比べ、日本のそれはゴチャゴチャと混乱しているように見えたからだ。といって、それを整理してしまうと「日本の文化がうわずみだけ」になってしまう危険性があった。ならば、自分はどう風景に向き合うべきか。

柴田がまず取り組んだのは余計な情報を排除することであり、それは「ディオラマのように」と題された夜景のシリーズに結晶した。夜間、人工照明に浮かんだ高速道路やパーキングを撮った作品は一見すると無国籍だが、画面の細部には確かに日本的な情報が写り込んでいる。そこから始まり、やがて昼間の風景も並行して撮るようになっていった。

大きな転機となったのは1987年に『日本カメラ』誌で連載した「ON THE SPOT 日本点景」である。日本各地の山間部を撮影するというそのコンセプトは、日本の国土が予想以上に均一化されているという発見を柴田にもたらした。そして連載後「点景」は「典型」と改題され、プリントの精度もさらに上がって初の代表作が完成するのである。

そしてこの1990年前後には川崎市民ミュージアム、横浜美術館、東京国立近代美術館、あるいは東京都写真美術館など、写真を美術のジャンルとして扱う施設が各地に誕生し始めた時期でもあった。展示において最も魅力を発揮する柴田のオリジナルプリントはそれらを舞台にして人々に知られ、また国際的な評価を得ていったのである。つまり、「日本典型」は写真表現にとっても、新しい美の在り方の典型を示し、美術としての写真という新しい価値観についてのひとつの基準となったのである。

 

柴田敏雄(しばた・としお)

1949年東京都生まれ。東京藝術大学美術学部卒業、同大学院修了。国内はもとより海外でも写真展を多数開催。たくさんの美術館に作品がコレクションされている。主な写真集に『テラ—創景する大地』『LANDSCAPE』『a Vies』『DAM』『TYPE 55』『LANDSCAPE 2』など。木村伊兵衛写真賞、東川賞国内作家賞、日本写真協会作家賞受賞。

 

参考文献

「目黒アート・アニュアル2000」展図録 (目黒区美術館 2001年)
「国立新美術館開館5周年 与えられた形象―辰野登恵子/柴田敏雄」展図録(国立新美術館 2012年)
『銀花』(文化出版局) 1984年6月号 柴田敏雄(写真)・吉増剛造(詩)「時は波」
『日本カメラ』(日本カメラ社)1987年3月号 谷口雅「インタビュー 写真の現場から 柴田敏雄」
『日本カメラ』(日本カメラ社)1987年11月号
平木収「連載写真家評論 現代写真の元気な冒険者たち11 柴田敏雄 発言者=アーティストとして」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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