「KG+SELECT」が示した、写真の現在【レビュー 後編】

KG+SELECTは、KYOTOGRAPHIEのサテライト公募フォトフェスティバル 「KG+」から生まれたコンペティション型展覧会だ。今回のレビューでは、10年間にわたって多くの新しい才能を輩出してきたこのコンペに焦点を当てた。

 

リティ・セングプタと南川恵利に見た「時代の風」

先述のように、公募展では社会的背景の違いを超えて、共通のテーマを扱う作品を見いだすことがある。KG+SELECTでは、リティ・セングプタ「Things I Can’t Say Out Loud」と南川恵利「今日も」がそうであり、いずれも作家自身の立場を見つめることで、彼女らが置かれた社会構造をも照らし出していた。

上、リティ・セングプタ「Things I Can’t Say Out Loud」
下、南川恵利「今日も」

撮影:Yuki Nakazwa ©KG+2025

まず、インド・コルカタに暮らすセングプタの作品は、室内で撮影された、構成的で奇妙なカラー・ポートレイトである。2点のイメージを除き、被写体は顔を隠しており、明るい色彩にもかかわらず、どこか息苦しさを覚えた。
ステートメントには、家父長制が色濃く残るインド社会の女性像を問い直すという制作意図が記されていた。顔を隠すという行為は、女性に課された「妻・母・娘」としての役割や、無償の奉仕者として理想化され続けることへの、静かな抵抗なのだろう。
タイトルを和訳すると、「大きな声では言えないこと」という意味になる。制作にあたって彼女は母とともに家族のアーカイブを調べ、先達の女性たちから聞き取りを行ったという。その姿が重なるような、ポートレイトだった。

リティ・セングプタ「Things I Can’t Say Out Loud」より

一方、既婚者で一児の母である南川は、家事・育児とキャリアの間で生じる自らの葛藤に向き合う。母親という役割によって「自分が自分でなくなっていくような錯覚」、あるいは「増していく退屈感と焦燥感」である。南川はカメラを自宅に据えて、インターバルタイマーで家族との日常を撮影。ふと現れる無意識の表情を、モノクロームによって可視化しようとした。その自己確認への志向は、同時代の日本に生きる子育て世代の一典型としても受け取れるだろう。

南川恵利「今日も」より

両者のインスタレーションもまた対照的だ。セングプタはより象徴性が際立つようスクエアフォーマットのプリントを直に貼り、横一列に展示している。一方、南川は細いロールペーパーに写真を連続してプリントし、壁に垂らすことで、終わりなき日常を示唆する。

このように、ふたりの作品は制作動機、社会的背景、そして手法も異なっている。だがそれは社会的性差についての、異なる角度からの問いである。象徴的なポートレイトと記録的な日常描写という差異は、同時代の課題についての複眼的思考を促すだろう。その比較から生まれる問いは、私たちの議論をより多層的で深いものにするはずである。

 

何兆南と時津剛、そして奥田正治-「作品を開く」ための工夫

作品を宙吊り状態にしておこうとする作家の態度も、共通して見受けられた点である。多くのファイナリストは、自らの見解を示唆しながらも、解釈を慎重に留保して判断を鑑賞者の善意に委ねている。それは作品の可能性の幅を広げるための、意図的な曖昧さである。フェデリコ・エストルのようなアクティビストとは、対照的なアプローチだ。

何兆南「Work naming has yet to succeed」
撮影:Yuki Nakazwa ©KG+2025

「いまだ名づけられない仕事」と訳される、何兆南「Work naming has yet to succeed」はその典型である。何は、彼が暮らす香港の高層住宅街を、人間を排して端正なランドスケープとして描きだす。だが、建物の壁面のシミ、おそらくは塗りこめられた民主化を求めた言葉の痕跡を通じて、都市の内面的な変貌を暗示するのである。かつてアジアの金融センターであり、エンターテイメントの核でもあった香港と香港人はこれからどこに行くのか、鑑賞者はこれをどのように見るのか、そして歴史はどのように判断するのか。やがて、この作品はそれを議論するための雄弁な資料となるだろう。

何兆南「Work naming has yet to succeed」より

時津剛「BEHIND THE BLUE」と奥田正治「Dig A Hole」もまた、自身が日常的に直面している、社会的な課題をテーマにし、その解釈を鑑賞者に委ねている。

まず時津の展示は、高層マンションを背景にした河川敷の風景を中心に、2メートルほどの大判プリントで構成され、没入感を生み出そうとしていた。ひとつ驚いたのは草むらによって半ば顔を隠された男性のポートレイトで、唐突に見つめ返されている気がしたからだ。また会場中央には、ブルーシートのテントが実物大で設置されていた。

時津剛「BEHIND THE BLUE」
撮影:Yuki Nakazwa ©KG+2025

この作品の出発点にあるのは、近年の都市開発への違和感である。時津は、ひたすら高級化を目指す開発が、多様な暮らしを排除しているのではないかと問うている。河川敷の住人たちの存在を伝えるのは、草むらの奥にわずかに見えるブルーシートの青色のみである。

時津剛「BEHIND THE BLUE」より

奥田正治「Dig A Hole」は福島や宮城の、東日本大震災の被災地で続けられている、復興作業の現場を捉えている。同作のユニークさは、その風景の描写が、工事の目的とは異なる、ほとんど対になる独自のヴィジョンへと繋がっていることだ。

奥田正治「Dig A Hole」
撮影:Yuki Nakazwa ©KG+2025

経済的または科学的目的に基づいた防潮堤建設やソーラーパネルの設置などの復興事業は、庭への植樹や古代の弔いのような精神面の活動や宗教儀礼に重ねられる。短期的な景観の変化の描写が 長期的な時間軸と結びつく。

ある土地の歴史がどのように形成され、受け継がれてきたのか。その風土にまつわる根源的な問いを、風景写真に圧縮しているように見える。「Dig A Hole」、穴を掘るというのも示唆的であり、日本古来の掘立様式を想起させ、土地との深い繋がりを読み取ることもできよう。

 

過去から未来へ―牟禮朱美とソン・サンヒョンの「受け継ぎ」

そのほかの作品についても、短く記しておきたい。牟禮朱美とソン・サンヒョンの作品を見ていると、現代の表現もまた、歴史的な文脈に支えられていることを改めて認識する。それぞれの作品にはオマージュの要素が見られ、過去の作家の眼差しを未来へ繋げようとする志向が見られたのだ。

女性の思春期をテーマとする牟禮朱美「さなぎの中はだれも知らない」には、初見からどこか既視感に近いものを覚えた。やや遠めの中距離で、画面中央に捉えられた女子生徒たちのポートレイトは、構図も丁寧に造形され、シャッターは彼女たちの心理の微細な動きに反応している。その端正さには見覚えがあった。
その理由は牟禮の経歴にあり、植田正治の作品に触発されて写真を始めたという部分を読んで想像できた。彼女の眼差しは植田の後期作品、特に「小さい伝記」に近いのだ。演出写真で知られる植田だが、後期では抑制されており、撮影者と被写体の理解と緊張を画面に醸す手法となっている。
牟禮がその点に学んでいることは、やはりステートメントから読み取れた。それは「思春期」についての固定的なイメージへの深い読みとして、写真に現れていた。

牟禮朱美「さなぎの中はだれも知らない」
撮影:Yuki Nakazwa ©KG+2025

牟禮朱美「さなぎの中はだれも知らない」より

写真に限らず、創作物を鑑賞することは、作者がテーマを獲得する過程を追体験することでもある。それを思い出させてくれたのが、ソン・サンヒョン「病院」だった。1945年に福岡刑務所にて、27歳の若さで獄死した詩人の尹東柱(ユン・ドンジュ)の足跡を日本で追った、作家自身の物語である。
詩は韓国で最も愛される文学形式の一つだが、とくに尹の没後に出版された詩集は国民的人気を博している。幼いころからその作品に深く親しんできたソンは、あるきっかけで尹が大学時代を過ごした京都を訪れた時、詩人を記憶し、追悼する人々に出会った。その体験を機に、複雑な歴史についての言説や先入観を乗り越え、尹についての理解を新たなものにしていった。
「病院」はこの変化のプロセスを再構成したもので、その視覚的感触は瑞々しい。ソンは写真をしなやかな布にプリントしているが、それは歴史の見方はより柔軟に変わり得るという、彼の意志の表れである。

ソン・サンヒョン「病院」
撮影:Yuki Nakazwa ©KG+2025

 

ヴェンカパリと西岡潔-写真の「呪術性」とその拡張

インドのヴィノッド・ヴェンカパリ「In absentia」はKG+SELECTの作品の中で、もっとも直接的なイメージだ。フラッシュライトに浮かび上がらせた被写体は、捻じ曲がったサドゥの腕であり、人と動物の死体、奇妙な宗教的装飾品である。撮ることから展示に至るまで、彼の写真をめぐる行為は、どこか呪術的ある。じっさい、本展にあたって制作された作品解説のビデオでもヴェンカパリは、人々が請い願う「神の呼び戻し」について語っていた。

ヴィノッド・ヴェンカパリ「In absentia」
撮影:Yuki Nakazwa ©KG+2025

その写真と言葉には、どこか懐かしいものがあった。1960年代から70年代にかけて、日本でも土着的な宗教性をテーマにした写真家がいたのだ。例えば、自ら修験道の道に踏み込んだ内藤正敏もまた、フラッシュアップで被写体を暗闇から浮かび上がらせていた

インドもいま目覚ましい経済発展の途中だが、それでも、いまだ神々は深く人々の生活に根を下ろしているようだ。ヒンドゥー教の儀式や民間信仰における神々の現前を求める行為は生き続けており、ヴェンカパリの写真行為もまた、その一端に位置するものなのだろう。

ヴィノッド・ヴェンカパリ「In absentia」より

さて、写真に内在する呪術性は、デジタル時代に入って大きく拡張された。膨大な画像をコンピューターで解析して、画像認識技術や生成AIが生まれ、写真とヴィジュアル表現におけるフォトリアリズムが分離した。この分離は、暗黙の了解であった「写真」の概念を揺るがしている。

西岡潔による「際」は、この写真とフォトリアリズムの関係を問い直す試みだった。展示空間には、ファイナリストのなかでも特に多くの作品が配置されていた。それらは、絵画的なメディウムの使用や画像加工によって、写真かどうかの判断を留保させる。鑑賞者の視線は確かさを求めながらも、判断を宙吊りにされるのである。

西岡潔「際|In the Twilight of Life: Or Shall We Be Reborn?」
撮影:Yuki Nakazwa ©KG+2025

カメラ・ルシーダを想起させる、手製の装置が置かれていたことも示唆的だった。このプリズムを用いた光学装置は、写真発明以前にはフォトリアリズムを獲得するための、写生の補助具として使われていた。それは画家のイメージメイキングのためだったが、写真術の普及は「写真=フォトリアリズム」という図式を作ったのだ。しかし西岡の作品は、写真以前の視覚技術やイメージの生成過程にあらためて目を向けさせるよう、鑑賞者を挑発していた。

西岡潔「際」より

 

KG+SELECT 10年目の達成と今後への期待

ファイナリストによる展示は、かなり見応えがあった。個々の作家の水準も高く、また全体としても現在の写真表現の位置を反映している。このレベルの公募展が10年以上も続けられてきたのは、KYOTOGRAPHIEとして大きな成果だ。今年は10年という節目を記念し、この企画をサポートし続けてきた機材メーカーのシグマとともに制作した、歴代アワード受賞者の作品をまとめた写真集『KG+SELECT 10 YEARS, 10 ARTISTS』(青幻舎)も出版されている。この一冊は、これから日本の写真史を編む者にとっては貴重な資料となるだろう。

注目すべきは、KG+SELECTのファイナリスト経験者の多くが、その後のキャリアを着実に発展させている点である。それぞれに相応しい立場を獲得し、写真表現の最前線で活躍を続けている。

KG+SELECT Award 2025 受賞式
Award受賞者のフェデリコ・エストルはウルグアイからのリモート参加
撮影:Naoyuki Ogino

初代アワード受賞者の古賀絵里子は、東京京都での個展のほか、グループ展をジョージア、フランス、中国などで重ねてきた。堀井ヒロツグはファイナリスト選出を契機に京都芸術大学で教職に就いた。中井菜央は写真集『雪の刻』で日本写真協会の新人賞を受賞。紀成道は国内外での受賞を重ねながら、写真集『x / elements』を刊行、今年伊奈信男賞を受賞している。高橋こうたは香港のフォトブックアワードでファイナリストに選ばれ、林田真季はシンガポール国際写真祭でダミーブックアワードを受賞後、資生堂ギャラリーで個展を開催した。さらに松村和彦は「World Press Photo 2024」においてアジア地域の優勝者となり、社会的テーマに挑む作品を国際的に発信している。

こうして実績を重ねて迎えた10年という節目は、次のステップに進む契機だと思える。例えば1990年代初頭に始まり若手の登竜門となった公募展、キヤノンの「写真新世紀」やリクルートの「ひとつぼ展」(後「1_WALL」展)も、10年目前後にその審査システムなどを改訂したと記憶している。KG+SELECTも同様に、現在のあり方を振りかえる時期を迎えているのではないか。正直に言えば、そう思わせる疑問点もいくつか感じたのである。

非常に気になったのは、公開情報が十分ではなく、応募状況や選考過程の全体像を把握しにくい点である。例えば、応募総数が公開されていない理由はなんだろうか。透明性は、選考過程の公正さと信頼性を担保するものだ。

また私が会場に足を運んだ際には、すでにアワードは決定していたが、会場の内外にそれを知らせる掲示はなかった。ホームページでは受賞の告知があるが、審査員の受賞理由は発表されていない。受賞者のコメントはSNSで動画が配信されているので、ホームページにも紐づけした方が良いはずだ。発表審査基準が明示されないのは鑑賞者に不親切だし、来年以降の応募者のモチベーションにも関わる。また授賞式は公開で行われているので、その動画を会場で流すといった工夫も望まれる。

会場選びについても、若干の疑問が残る。KYOTOGRAPHIEの魅力のひとつは、多くの展示が京都の歴史的建造物を会場としている点にある。アワード受賞者はそのひとつで展示機会を得られるため、応募者にとっては励みにもなる。しかし、会場を分散するなどして最終審査の段階から歴史的建造物を利用できれば、独自性と価値はさらに高まるのではないだろうか。

KG+SELECTは、志のある写真家にとって、開かれた真剣勝負の場である。運営での幾つかの改善によって、より重要なイベントに成長していくだろう。10年目を迎え、その期待は大きく膨らんでいるのは間違いない。

写真評論家 鳥原学

イベント概要:
・KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2025
会期:2025年4月12日(土)〜5月11日(日)
会場:京都新聞ビル地下1 F (印刷工場跡)&1F、ギャラリー素形ほか
主催:一般社団法人KYOTOGRAPHIE
https://www.kyotographie.jp/

・KG+SELECT 2025
(KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 サテライトイベント 公募型フォトフェスティバル
コンペティティブ型展覧会)
会期:2025年4月12日(土)〜5月11日(日)
会場:堀川御池ギャラリー
入場無料
主催:一般社団法人KYOTOGRAPHIE
Supported by SIGMA
https://kgplus.kyotographie.jp/

レビュー前編

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