
【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.42 戦闘機の‶決定的瞬間″ 徳永克彦『蒼空の視覚:Super Blue』シリーズ 鳥原学
軍用ジェット機専門のフォトグラファー徳永克彦の撮影は、ゆうに1900時間を超えているという。そのライフワーク、1987年から始まる『蒼空の視覚』シリーズは天を駆け巡る航空機の魅力が満載されている。それに加え、冷戦やその終焉といった世界秩序の変化も鋭く鮮やかに伝えているのだ。
空の決定的瞬間
「見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高く飛べるを」
明治期の歌人・石川啄木が1911年に詠んだ 「飛行機」 という詩の一節である。貧しい勤労青年が休日に部屋の窓から空を見上げると、まだ珍しかった飛行機が飛んでいた。彼は素に見とれ、しばし心を解き放つ。彼の視線は機体とひとつになり、日々の鬱屈から脱して空を駆け巡っている。
100年以上前と現在で、人の心境にそう違いはないように思う。空路での移動が日常となった現在でさえ、私たちはより自由な飛行への夢を見るからだ。いや、航空機の性能が凄まじく向上しただけに、より没入感をもたらす斬新なビジョンを欲する。そして、その欲求が写真や映像という視覚表現を進化させているのだ。
そのような視覚表現の推進者こそ、優れた航空写真家であり、なかでも徳永克彦の実績は群を抜いている。およそ40年にわたって最先端に立ち、世界中の戦闘機に同乗してアクロバティックな飛行を撮影してきたのだ。しかも世界で2、3人しかいないフリーという立場で航空機メーカーの依頼に応え、世界中の目の肥えた航空ファンを唸らせ続けている。
そんな徳永の写真の魅力を広く知らしめたのが、航空写真家となってちょうど10年目を迎えた 1987年に出版した『蒼空の視覚』(CBS・ソニー出版)だった。本書はアメリカとヨーロッパ諸国、自衛隊、その他各国空軍のアクロバットチームの演技を網羅している。たとえばアフターバーナーによるスクランブル発進、幾何学的な編隊飛行、急旋回、機体同士のきわどい交錯、そして急上昇と急降下。地平線と空と眩しい太陽を背景にした写真は、まさに戦闘機の躍動を捉えた決定的瞬間なのである。
本書の出版は、徳永にとってそれまでの達成であると同時に、さらなる活躍の起点となった。国内はもちろん、海外6か国に翻訳されて大きな反響を呼んだからである。もともと軍用機をメインの被写体として、世界で活躍する写真家には欧米系の人材が多い。それがこの1冊で、日本人のなかにも逸材がいるのだと広く認知されたのである。
その人気を得て『蒼空の視覚』は続き、1992年に第2集が、2017年に第3集が出版された。それゆえ本シリーズについて写真家自身は「航空の世界をカメラで切り取った自分史」(第3集)と呼んでいる。だがシリーズを追って見ていくと、時代ごとの世界秩序もそれぞれから見えてくる。
つまり1980年代後半に出版された第1集については、撮影期間はまさに冷戦下であったから、被写体はすべて西側の軍用機である。だが冷戦が終わった第2集には旧共産圏のそれが登場する。そして25年ぶりに編まれた第3集では、カメラはデジタルに代わり、中東諸国の機体を捉えられている。卓越した技量によって活躍の範囲を着実に広げてきた徳永の軌跡は、激動の世界情勢を描き出しているとも言えるのである。
ウィリアム・テルにて
徳永が初めて空対空、つまり彼自身が飛行機に搭乗し、空中で飛行機を撮影したのは1978年のことである。アメリカのフロリダ州のティンダル空軍基地で3週間にわたり開催された、アメリカ空軍の空対空射撃競技会、通称「ウィリアム・テル’78」においてだった。ブリーフィング会場で空軍の広報担当者が記者たちに「今日は誰が乗りますか?」と聞いたとき、徳永はまっさきに手を挙げた。
この時、徳永は21歳である。大学生だったが、すでに航空専門誌に記事や写真を盛んに寄稿し、航空ジャーナリストとしてはセミプロ的な存在として活躍していて。もちろん将来的な活躍を望んでいた彼にとって、この搭乗のチャンスを逃す手はなかったのだ。
その徳永が初めて飛行機を間近で見たのは、小学生の頃、父に連れられて行ったアメリカ空軍のジョンソン基地 (現・航空自衛隊入間基地) の航空祭だった。曲技飛行隊‶プルーインパルス″の駆るF-86戦闘機が、低空で彼の頭上を駆け抜けていった。幼心には魅力よりも恐怖が勝ったというが、まもなく航空ファンとなっていた。
中学に入るころには、出入りしている模型店で知り合った年長のファンとともに、横田や厚木の米軍基地に出掛けるようになった。ちょうどベトナム戦争のころだったから、さまざまな種類の機体が飛来するのが見られた。とはいえ詳しい情報を得る手段がないため、フェンスの横で1日中待ち続けていたこともあったという。
もちろん写真も撮るようになった。高校時代にはペンタックスの一眼レフに300㎜の望遠レンズを常用し、 これはと思う1枚を航空雑誌に投稿し始めている。時にはコンテストで上位に入ったこともあったというが、あくまで趣味の範囲である。ニッチェな仕事である、将来的に航空写真家を目指すことなど頭にはなかった。
それが変化したのは大学入学後である。校舎があった御茶の水駅の周辺には、投稿していた航空雑誌の編集部があった。そこに出入りするようになって関わりを深めるにつれ、将来像が具体的に結ばれていったのだ。それに神田神保町の古書店街にも近かったから、 写真集だけでなく、軍用機の機種ごとのフライトマニュアルなど、かなりマニアックな資料を探すのにもうってつけだったのだ。
ちょうど空前の航空機ブームがやってきたことも追い風になった。航空自衛隊の主力だったF‐4ファントムに代わる次期戦闘機の選定、つまり「F-X」計画が話題になり、F-14トムキャット、F-15イーグル、F-16ファイティング・ファルコンといた新鋭機への大衆的な関心が高まっていったのだ。各出版社もそれに応え、航空機関連のムック本などを盛んに出版し、航空ファンが増えたのだった。
しかし、需要はあっても、それに応えられる航空写真の専門家は少なかった。ましてや、空対空で新鋭機を撮っている者となると、世界的に見ても極めて少数である。だからこそ、それを実現することが徳永の目標となった。そのチャンスがついに訪れたのが、あのウィリアム・テル’78だった。
戦闘機に搭乗するための基本的な訓練を受けた後、徳永はヘルメットと酸素マスクを装着しT―33Aという練習機に乗り込み空に駆け上がった。このとき緊張も何も感じず「おおむね予想通り」だったと振り返っているのは、流石である。それまでに何度もこの機体のフライトマニュアルを見て、何度もイメージトレーニングをしていたからだ。この冷静さこそ、航空写真家としての優れた資質だったと言えるだろう。
変わりゆく時代の中で
一口に空対空の撮影と言っても、そこには制約があまりに多い。撮影時間は1回1時間ほどしかなく、莫大な燃料費が掛かる。ことにデジタル以前は、フィルム交換の時間も必要だったから、シャッターの無駄撃ちはできなかった。そのうえ予定通りに撮れなかったとしても、パイロットに無理強いはできない。普通に飛行するだけでも、コクピット内でかなりの作業をこなさなければならないのだ。彼らに想定外を求めて「あぶないことをやらせるカメラマンだと思われたら終わり」なのだ。そんな徳永は自分の仕事について、危険な飛行を撮ることではなく、機材・タイミング・背景などの「組み合わせの妙によって写真的なダイナミックさを演出する」ことだと定義している。
そもそも飛行機の動きにはピッチング(縦揺れ)、ヨーイング(偏揺れ)、ローリング(横揺れ)の3 種類しかない。だからこそ高度と速度、または太陽の角度などを計算すれば最適なイメージが得られるはずだと言うのである。安全と理想のイメージを両立させながら、パイロットたちと信用を築き、常に新たな表現の実現に挑戦しなければならない。
徳永はその信頼を、まず西側諸国のアクロバットチームの撮影で築いた。どのチームも自軍の広報としての役割とプライドを持って、見せる飛行に特化しており、いつも鮮やかなイメージを提供してくれる。それゆえ外国人ジャーナリストも受け入れてくれる下地があったから、 その撮影実績を基礎として活動範囲を広げることができたのである。実際1988年までに、徳永は西側を代表するチームの撮影をすべて終えている。どれほど熱い信頼をかち得たのかが良く分かる。
そんな徳永の写真は、もちろん日本の航空ファンのしっかりと心を掴んだ。CBS・ソニー出版で音楽関係の仕事をしていた佐野総一郎もそのひとりである。佐野はことに「カツ・カット」と呼ばれていた、空中での絶妙なアングルにいつも感嘆していた。そこで1987年に書籍の編集部に移動すると、さっそく徳永の写真集を会社に提案したのだった。それも本格的な大判の写真集である。
航空写真集といえばソフトカバーの航空図鑑しかない当時、高精細な印刷によるハードカバーという仕様で登場した『蒼空の視覚』は、まず国内で大きな評判を呼んだ。さらに『Super Blue』のタイトルで海外6か国に翻訳出版されると、徳永は日本を代表する航空写真家として認知されるようになったのだ。
徳永にとって幸いだったのは、本書の出版が、ちょうど航空業界の変わり目と符合していたことである。ちょうど東西冷戦が終息し、これまでベールに包まれていた旧共産圏の航空機、つまりミグやスホーイが、翌年から航空ショーに登場し始めていた。それはライバルである欧米の写真家たちも撮っていない対象であったから、頭角を現してきた日本人の彼でも、同じ土俵で勝負ができたのである。
その最初のチャンスは1990年2月のシンガポール航空ショーだった。初めてソ連のスホーイとのフォトミッションが組まれ、オーストラリア空軍を含め、計5か国がこれに参加した。このとき徳永が感じたのは国籍やシステムは違えども、同じ空の世界の仲間として、信頼関係は育てられるということであった。
もちろん時代の変化は、しばしば厳しい現実を見せつける。翌年には旧ユーゴスラビアやソ連に赴いて取材を行なうが、旧ユーゴ地域では激化し始めていた民族対立を目撃し、モスクワではビデオ撮影を済ませた翌日にクーデターに遭遇している。だが、こうした経験もまた、この仕事の醍醐味だと徳永は語った。
思えば、第3集までの40年間で戦闘機の役目もかなり変わったのだ。ステルス性能が勝負を決める時代には、ミサイルによる遠隔攻撃が主流となっており、いまやドッグファイトなどは過去のものなのである。
いや、そのイメージなどは、映画か夢の中にあるままで良いのかもしれない。私たちが蒼空に思い描く、躍動する飛行機のビジョンは、徳永の描く写真の中にあればいいのだ。
徳永克彦(とくなが・かつひこ)
1957年東京都生まれ。1978年、アメリカ空軍「T―33A」同乗以降、空対空写真を中心に活動。世界で活躍する著名な戦闘機写真家の一人で、各国の空軍海軍の公式写真や写真集も担当。主な写真集に『蒼空の視覚』3巻のほか、『ブルー・エンジェルズ写真集』『HAWK/FIVE TEAM-空母キティホークとCVW-5写真集』(共著)『Fighter Force JASDF-航空自衛隊写真集』(共著)などがある。
参考文献
徳永克彦『蒼空の視覚:Super Blue』(CBS・ソニー出版 1987年)
徳永克彦『蒼空の視覚:Super Blue 2』(ソニー・マガジンズ 1992年)
徳永克彦『蒼空の視覚:Super Blue 3』(廣済堂出版 2017年)
『ヒコーキ写真テクニック』(イカロス出版)
『航空ファン』 (文林堂)
『航空情報』 (せきれい社)
『丸』(潮書房)
関連記事


文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
↓PicoN!アプリインストールはこちら