【写真学校教師のひとりごと】vol.31 鈴木徹について

わたし菊池東太は写真家であると同時に、写真学校の教員でもあった。
そのわたしの目の前を通り過ぎていった若手写真家のタマゴやヒナたちをとりあげて、ここで紹介してみたい。
その人たちはわたしの担当するゼミの所属であったり、別のゼミであったり、また学校も別の学校であったりとさまざまである。

これを読んでいる写真を学ぶ学生も作品制作に励んでいるだろうが、時代は違えど彼らの作品や制作に向かう姿が少しでも参考になれば幸いだ。


笑い顔に特徴のある男だ。はにかんだ笑いというのかな。
なかなか根性も坐っている。
かれ、鈴木徹は小学生のころ伯父さんから一眼レフをもらい、電車やS Lを撮り、写真を撮ることが好きになる。
そんなとき雑誌「キャパ」に応募して賞を手にし、ますます写真に夢中になっていく。
そして、いまは竣工写真(建物の落成記念)で飯を食っている。
写真学校の卒業式のころ、1998年3月にコニカ・プラザで初個展「モード」をやって退けた。
そのころわたしのクラス内では現役の学生のうちにテーマを決め撮影をかさね卒業式の頃に、コニカやニコンなどのギャラリーで初個展をやることを皆で競っていた。
今はないが、当時はコニカの「新しい写真家登場」という若者枠があった。

確か10代20代が応募できたと思う。
ニコンの若者枠、「juna21」はこの時はまだスタートしていない。
この後から始まる。
「新しい写真家登場」が若手の登竜門といわれていた時代である。
鈴木はその門を現役の学生として潜った一人だ。
屋外にホリゾントとして白のバックペーパーをセットし、発電機を使いランプをモデルに当て、8×10のカメラを使いモノクロで撮る。
そこそこの舞台装置だ。

学生だからアシスタントがいるわけでもないし、当然機材はすべて自分一人で運んだ。
無我夢中だからできたのだといえる。
わたしは自分の担当する学生に、「こういうものをこういう風に撮ったら」などと指示や示唆をしたことはない。
すべて、何を撮るか自分で発想して、撮り方も自分で考えるように仕向けてきた。

この鈴木も8×10で同年代の女性を撮ることを自分自身で考えだした。
ただ、その当時かれが魅了されていた、被写体の感情や存在感がストレートに伝わってくるオランダの写真家、R.ダイクストラがかれの発想に大きな影響を与えていたことは、想像に難くない。
ダイクストラはビーチで水着の人物を撮った。
鈴木は白いバックペーパーを背景に、本人の好みのファッションで撮った。
8×10カメラで撮る、ということだけが同じなのだ。
その描写力というか、伝える力が欲しかったのだ。

 

 

最初は自前で大型の8×10は持っていなかったので、学校の機材を使っていた。
だが、しばらくするとこれでいけると判断したのか、カメラからレンズ、ライト、発電機などすべて自前で取り揃えてしまった。
親の負担も半端なものではなかったろう。息子の能力、やる気をひたすら信じていたからに違いない。
大型の8×10カメラで、しかも屋外で撮るなんて。
それをやってのける発想力、決断力、肉体的な実行力は随分と並みはずれたものだったと言える。
わたし個人の話になるが、8×10で写真を撮ったことがある。

鈴木徹の「モード」の6年後だ。
「足尾」を撮ったときのことだ。
屋外で8×10カメラで撮影することがどれほど大変かはこのとき身をもって知った。
鈴木はその若さと直向きさで突っ走ったのだと思う。

あの直向きさを久しぶりに思いだし、もう一度頑張ってみてはどうだろう。
写真の腕もだいぶ磨きがかかっただろうし、今なら面白いのが撮れると思うよ。

菊池東太

1943年生まれ。出版社勤務の後、フリー。

著作
ヤタヘェ~ナバホインディアン保留地から(佼成出版社)
ジェロニモ追跡(草思社)
大地とともに(小峰書店)
パウワウ アメリカインディアンの世界(新潮社)
二千日回峰行(佼成出版社)
ほか

個展
1981年 砂漠の人びと (ミノルタフォトスペース)
1987年 二千日回峰行 (そごうデパート)
1994年 木造モルタル二階建て (コニカプラザ)
1995年 アメリカンウエスト~ミシシッピの西 (コニカプラザ)
1997年 ヤタヘェ 北米最大の先住民、ナバホの20年 (コニカプラザ)
2004年 足尾 (ニコンサロン)
2004年 DESERTSCAPE (コニカミノルタ)
2006年 WATERSCAPE (コニカミノルタ)
2009年 白亜紀の海 (ニコンサロン)
2013年 DESERTSCAPE-2 (コニカミノルタ)
2013年 白亜紀の海2 (ニコンサロン)
2015年 日系アメリカ人強制収容所 (ニコンサロン)
ほか

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