Lines of Sight ーそれぞれのアジアへの視線ー vol.2

学校法人呉学園 日本写真芸術専門学校には、180日間でアジアを巡る海外フィールドワークを実施する、世界で唯一のカリキュラムを持つ「フォトフィールドワークゼミ」があります。

「少数民族」「貧困」「近代都市」「ポートレート」「アジアの子供たち」「壮大な自然」、、

《Lines of Sight ーそれぞれのアジアへの視線ー》では、多様な文化があふれるアジアの国々で、それぞれのテーマを持って旅をしてきた卒業生に、思い出に残るエピソードをお伺いし紹介していきます。

真夏のインド

PFWゼミ8期生 岡田 舞子

半年間アジアを旅したなかで未だに忘れられないのはインドでの日々だ。それまで旅した国よりもカオスで、経験したこともないカルチャーショックと茹だるような暑さと空気の淀みに初日で疲れ果てた。それでも撮影はしなければならないので、心を鬼にして毎日過ごしていた。

それぞれの国の入国時は学校が選んでくれたホテルに泊まることができるのだが、選んでくれるホテルは貧乏旅行中の学生にとってはオアシスのように綺麗なホテルばかりで、その時だけは何も気にせずに生活できる唯一の時間であった。
最初に到着したのはチェンナイ。行動を共にした新庄君とはハプニングの連続の毎日だった。当時のインドでは時間通りに物事が進むことは難しく、その上英語もままならない私たちにはハプニングに対応できる能力が乏しすぎたのだ。
二人の目的地はカニャクマリというインド最南端の街。飛行機とバスを乗り継ぎ向かうことにしたが、慣れない国と無茶な移動が多かったせいもあり、あまり体調が良くないまま街に到着した。カニャクマリはインド国内からの旅行者はたくさんいたが、あまり外国人観光客は見かけなかった。色々見て回ったがWi-Fiがある安宿はなく、インターネットは街の電気屋さんのパソコンを使い、2人で1000円ほどのホテルに宿泊した。
街自体は小さいので1日で見て回れるほどの大きさあったが、2、3日停泊して朝日と夕日を撮影しに行った。朝は沐浴をする人で海は賑わっていた。言葉で表すには難しいけれど南インドの美しさと人の穏やかさに触れたすばらしい街だった。

その最南端の街から私たちはニューデリーに向かうことになる。列車と飛行機を使用しての移動であったが、空港についてチェックイン時に飛行機のチケットが取れていないことを指摘された。確実に支払いを済ませチケットも手元にあったが、強気な受付の人に言われるがままチケットを取り直すことになった。
無事チェックインを済ませ、飛行機に乗り込み目的地の空港に到着したが、一向に周りの人たちが降りる気配はなく私たちも何が起こっているのかわからないまま座り続けた。
最終アナウンスが流れニューデリーだと気がつき慌てて降りることになった。後から聞いた話によると、その飛行機は各駅飛行機だったらしい。
最終目的地は違う場所にあり、一旦乗客をおろしてから違う目的地にいくという独特なシステムにギリギリで気づいたのだ。

ニューデリーからの行動パートナーは武苅君だった。リシュケシュという場所が私たちの目的地だったが、そこが大洪水になってしまい行程変更を余儀なくされた。
東に向かう行程に変更したが、列車移動を選択してしまったのが間違いだった。ニューデリーからの列車は早朝の列車だったのでタクシーで向かった。その途中見たこともないくらいの人たちが路上で寝ているのを見て安宿なんかで文句を言っている自分が恥ずかしくなった。
駅に到着し電車を待っていたが列車は来ない。駅員に聞いても全員が違うホームに案内してくるし、止まっている列車は排泄物が垂れ流しなので構内は悪臭が漂い、虫がわんさかいて気が狂いそうだった。列車が来る気配がしないのでチケットカウンターに行くと、もうその列車は出発したと言われた。でも私たちが予約した列車はどのホームにも到着していなかった。
仕方がないのでチケットを取り直し、出発は夜になった。駅で10時間以上も来るかもわからない列車を待つことはもうないだろうと思う。夜遅くに目的地に到着し、谷津君に迎えに来てもらって無事ホテルにチェックインすることができた。
そんなこんなでガヤという街に到着したのだが、着いてから購入した水が暑さで腐り、それにあたり体調不良になった。それ以降インドではあまり食事をした記憶がない。撮影のために体調を整えるのも大事なことだと身に沁みて感じた。

さて撮影の話になるが、私の撮影はアミニズムが残る自然が撮影地だった。
インドは自然と宗教のつながりが濃く残っている場所であったが、思うような撮影はできずにいた。その原因は、情報収集の甘さと光を考える能力がなかったことだと思う。
旅を経験して気がついたことだが、情報だけではイメージにたどりつかないということ、撮影地は一定の時間だけでは予測できないということに気がついた。写真を知っていた気になっていた20歳の私に今なら言えることはたくさんあるが、当時はわかりもせずに過ごしていた。
旅をしてから8年の歳月が流れた。インドは生活するには大変であることは確かだったけれど、素晴らしい風景は見ることができたのだ。まだあの頃私は未熟で考え方もとても幼かった。もし今インドに戻ることができたらもっといい写真が撮れると確信している。
半年間で学んだことは大きかった。でもそれを生かす能力はあの頃はなかった。後悔が残ることばかりしていたのだと今になって思う。それでも他では経験のできないこと、今後一生話ができる日々を過ごせたことを感謝している。

作品を制作する前にある程度のステートメントを考え、その作品をよりよくするために深く考察するFWで学んだこの作品制作の流れは、今も私の制作に欠かせない流れとなっている。あるテーマに沿って作品を制作することは喜びでもあるし苦痛でもあるが、学校で学んだ基礎があるからこそ、今でも写真を続けられている。
FWに行く前の私は知り合い以外には自分から話しかけることもなく、その場を愛想良く過ごしていた人間だったと思う。でもFWに行ってからは少し自分の思いを他人に話せるようになったと感じる。
持っていたスペックでは対応できない状況に多く遭遇すると人は嫌でも成長する。しかもそういう状況は必ず一人の時にやって来るのだ。日本にいたら経験はできなかったと感じる。海外に行く恐怖や一人で知らない町に行くことは当たり前のようになり、怖いものは無くなった。怖いもの知らずではないが、何か自分の中にあった殻を破った感覚が突然やってくる。そこがインドであったと思う。嫌でも成長しなければ対応できない国であった。

半年間で何が自分に残せたのかFWの先輩に聞いた時、目を大きくして作品が残せたと言っていた。でも私には何か決定的に残せたのもが見つけられなかった。それが私の成長にもつながったと思う。なぜならその後悔がなければ卒業してから作品を作ることもなかったと思うし、悔しさがあったからこそ自分の表現したい写真を見つけることに没頭することができているのだと思う。
必ずしも思い出は良いものとは限らない。学生時代は今ほど写真に向き合う熱意はなかった。でも今でもこうして写真を続けられているのは、その反省から学んだ経験があるからだと思っている。

 

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