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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.28 歩き集めた刹那の景色 武田 花『眠そうな町』(IPC、1990年) 鳥原学

人はだれしも懐かしい風景の記憶を持っているが、それに再会することはできない。
武田花はそれを 「眠そうな町」 と呼び、カメラでその景色をとどめようと街をさまようように歩いた。写真集を開いてみると、それは確かにあった街なのか、彼女の幻影だったのか、判別できない不思議な魅力を発散している。

 

景色との出会いは「一期一会(いちごいちえ)」

表現者にはそのスタイルが作品ごとに変化を繰り返す人と、ひとつのスタイルを長く持続する人がいる。写真家であれば、前者は表現上のコンセプトに応じて、機材や撮影手法を積極的に選択しているタイプだ。かたや後者は、 日常的な生理的感覚にねざしたリアリティをとても重視している人たちだ。彼らは撮影対象も技術的なスタンスも長く一定して、持続するようである。

武田花は間違いなく後者だった。1990年に出版された2冊目の写真集にして代表作となった 『眠そうな町』と、2011年の『道端に光線』(中央公論社)を比べて、改めてそう思った。印刷の風合いなどを別にすれば、約20年を隔てても、表現上に大きな違いはないようなのだ。

まず、どちらの写真集でも時間に取り残されたような、無人の街区の景色をモノクロで撮っている。たとえばモルタル木造づくりのアパート、トタン張りの屋根や塀、その下に繁茂する植物、いまや正体不明となった看板、町工場の奇妙に歪んだ煙突など。それらが昼間の太陽のもと、あまりにも明瞭にその姿を晒し、 深いコントラストを画面に刻んでいる。そこには湿っぽい、感傷的な情緒は見当たらない。

「晴れた日の真昼間、人通りの少ない見馴れない町を歩くのは、楽しく良い気持ちでありました」

『眠そうな町』のあとがきで、武田はこう書いている。また、ある雑誌のインタビューで 「私にとっての写真というのは、自分の快感の吟味かな」と答えているのも印象的だ。彼女にとって写真とは、 その生理的な感覚のとても率直な表出でなければならないのだ。

その性格はフレーミングにも出ている。武田は、歪曲しないよう主に50ミリの標準レンズを使い、多くのカットを縦位置で撮っている。だからこそ対象物の幾何的なフォルムが正確に捉えられているのだが、全体の構図の微妙なアンバランスさから、ユーモラスな視覚的リズムが生まれている。 それを指して、篠山紀信は「不協和音的構図」と呼んだことがある。

明るい陽差しと不協和音的構図、加えてモルタル、トタン、石、セメントといったモノの質感がよく再現されると、現実の町は異質な相貌を見せる。それはウジェーヌ・アジェの撮った20世紀初頭のパリの街区がそうであったように、シュルレアリスム的であり、彼岸の世界の入り口を覗いたような感覚を抱かせるのだ。加えて少し寂しさを感じてしまうのは、 私たちは、おそらくそこに喪失の予感を嗅ぎとるからだ。

武田は「景色は向こうからやってくる」と言う。しかもその瞬間を逃すと、二度と同じ出会いはない。たとえ後で訪ねてみても印象が違っているし、寂れた街区では、建物そのものが消えていることさえ少なくない。結局「町なんていうのは、こうやってなくなっていくもの」なのだと彼女は言う。

この一種の諦念にも似たリアリティは、寂しさと同時に、あっけらかんとした爽やかさも与える。武田の写真は、それを必要とする人には、まるで清涼剤のような働きをするのである。

 

少女時代

『眠そうな町』で、武田は第15回の木村伊兵衛写真賞を受賞している。これは本人には全くの予想外の事件だったらしく、母と2人で 「世の中には不思議なことがあるもんだ」といって笑い合ったという。当時、写真の仕事はしていたものの、いまだアルバイトを続けていた。あまり自立などということは考えておらず、気に入った好きな猫や町を撮れればそれで満足だったのだ。

そんな彼女が写真を始めたのは四歳のときである。全く将来について考えない娘を心配した父が、写真好きの友人に勧められてカメラを買い与えてくれた。最初は家族の記念写真、それから飼い猫の〝玉″が被写体になった。さらに面白くなって野良猫を探しにあちこち出かけはじめ、やがてあの町と出会ったのである。

写真学校に通ったこともあったというが、写真家としての型をつくろうとする教育がどうにも重苦しかった。また好きな写真家の真似してみたらというアドバイスも気に食わなかった。だから「私が想像している写真とは違うもの、違うものになっていくような気がして」2か月ほどでやめている。そんなマイペースさは、幼少期から変わらないものだったようだ。

武田花は、1951年10月31日に東京の杉並で生まれた。父は小説『ひかりごけ』、『富士』などで知られる、戦後を代表する作家の武田泰淳である。受賞を喜びあった母の百合子も、名エッセイストとして知られている。2人には13歳の差があったが、その仲はいつも睦まじかった。いや互いに、かけがえのない存在だったということが娘から見ていてもはっきりわかった。

泰淳の親友で、結婚の保証人にもなった作家の埴谷雄高は「武田のニヒリズムを緩和させて、人間をみさせるようにさせたのが百合子さん」であり、明るい彼女は「全肯定」の人だったと語っている。娘の花にとっては「明るくて、元気で、美人で、かっこいい」母だった。百合子はその肯定性で夫に尽くし、母として娘を大きく包んでくれた。

武田が父の職業を知ったのは、私立の立教女学院小学校に通い出したころだった。なんとなく他の家庭とは違っていると気づいてはいたものの、同級生が教えてくれるまでは作家だと思わなかった。書斎に入ることはもちろん、書いた本を見せられたこともなかったのだ。

辛かったのは、教師から著名作家の娘だから作文は上手に違いない、という先人観を持たれたことだった。作文も含め勉強全般が得意ではなかったし、それ以前に協調性に欠けていた。だから母はたびたび学校から呼び出しを受けもした。

中学に上がると、武田は寄宿舎に入ることになる。母が父のためにと山梨に山荘を建て、東京と行き来するようになったためだ。最初は両親に捨てられたようで悲しかったが、慣れるのは案外早かった。広い洋館風の寄宿舎には地方の裕福な家庭の子や、ちょっと風変わりな子もいて、一人っ子だった武田にとっては楽しかったという。夜、お腹がすいて友達と台所に忍び込んだりしたのもいい思い出になっている。それでも多感な時期だから、深夜に母が訪ねて来て、門の鉄格子の隙間から着替えや菓子などを手渡され、帰ってしまうと寂しい気分が押し寄せてきた。

やがて高校3年になると、赤坂の自宅から通うようになった。ちょうど学生運動が盛んな時代だったから人並みにデモに参加し、反抗期もあった。朝日新聞の紙面で、学生運動について父と娘の対話が掲載されたこともあったが、おおむね伸び伸びと過ごしたのだった。ただ将来のことには全く無頓着で、課題の作文に 「何もしないで生きていきたい」と書き、両親をあきれさせてしまったという。

 

娘と母

「花さんは、詩を書くようになるか、誰かとてつもない異端の芸術家的存在の理解者になるか……」

高校時代の武田に接してそう予感したのは、当時、中央公論社の文芸雑誌『海』で武田泰淳の担当編集者をつとめていた作家の村松友視だ。物事に対するおおらかな感受性や反応が母の百合子によく似ていたから、その歩みをなぞるのでは、と思えたのだろう。

若いころの百合子はよく詩を書いていた。同人誌に参加したり、雑誌に投稿して著名な詩人に激賞されたりしたこともあった。だが戦中戦後の苦労もあって続けることはなく、戦後、 働き始めた神田の喫茶店で武田泰淳と知り合い、結ばれたのである。

百合子の文才が知られるようになったのは、泰淳が死去した1976年のこと。夫に言われて綴っていた山荘での日記を、供養と思って文芸雑誌に掲載したところ、大きな反響があった。まるでカメラのレンズのように精緻な観察眼と描写力に、周囲はみな瞠目したのである。翌年『富士日記』が出版されると執筆依頼が相次ぎ、それは彼女に再び生きる活力を与えることになった。

一方の武田花は、父が没した年に東洋大学の仏教学科を卒業し、その後はアルバイトを転々としながら猫を撮っていた。その長いアルバイト生活のユニークなエピソードは、後に出版される何冊ものフォトエッセイに綴られることになる。その情景描写は、母によく似ていて切れ味の鋭いところが際立っているが、文章にはオチがなく、なにか放り投げられたような気分になる。だがそこがなぜだが心地よく、異端の才覚という意味では、村松友視の見立てどおりなのだろう。そして、この頃から武田が撮りためた猫の写真が少しずつ知られ始めると、百合子はそれを大いに喜んだという。

1987年に出版された百合子の『遊覧日記』からは、そんな2人の関係が垣間見られる。本書は「H」のイニシャルで登場する娘とあちこちに出掛けた見聞録で、その掛け合いが、実にさっぱりとしていて気分がいい。また、行く先々で武田が撮った写真が挿入されているのも見どころである。「一緒に何かをする機会など、この先、あまりのこされてはいないだろうと思うと、『記念』になって嬉しい」とあとがきに、百合子はしみじみと綴っている。

武田が「眠そうな町」に出くわしたのは、この翌年である。群馬県太田市にある「ジャパンスネークセンター」に行くために乗った東武桐生線の高架からふと見下ろすと、再開発で取り壊される寸前の街区が見えた。「降りてみたい」と叫びそうになったというから、その風景が、いかに魅力的に見えたことだろうか。こうして沿線の町々を撮り始めた武田に「あなたらしい写真」と言って最初に褒めたのも、やはり母だった。

だから1993年5月に百合子が67歳で世を去ると、武田はしばらく放心状態になった。もちろん、その喪失感を超え、いつものように景色との出会いを求めて歩き始めるのだ。それはさまざまな意味で、自立のときだったといえるかもしれない。

こうして武田は街と猫の写真を撮り続けてきたのだが、ある日、心境の変化が突然訪れそのスタイルがガラッと変わった。2014年末、いつものように撮影に行く途中で、なぜだか同じスタイルの繰り返しが急に嫌になってしまったのだ。家に戻り、ふて寝をしてみたものの、考えてみると今さら写真をやめるわけにもいかない。

そこで気分を変えようと、クリスマスプレゼントにもらったデジタルカメラを使ってみたとろ、そのフィーリングや色彩にすっかりはまってしまったという。

「デジカメでカラー写真なんて絶対やらないと言ってたんだけど、いまは面白くて」

私の前で喜々としてそう語ったのも、生理的な感覚に素直に従ってきた武田らしいと思えた。武田花は2024年4月30日にこの世を去ったが、写真集を開くとその表情や声が蘇ってくるようだ。大きな欲を持たない爽やかな人柄を、そこに見出してしまわずにはおられないのである。

 

武田 花(たけだ・はな)

1951年東京都生まれ。父は作家の武田泰淳、母は随筆家の武田百合子。東洋大学卒業後、フリーの写真家に。『眠そうな町』で木村伊兵衛写真賞を受賞。その他の主な写真集に、『猫のいた場所』『猫・陽のあたる場所』『SEASIDE BOUND』『道端に光線』などがある。『仏壇におはぎ』『イカ干しは日向の匂い』などフォトエッセイの著作も多い。

参考文献

『NHK趣味百科「近未来写真術」』 (日本放送出版協会 1990年)
『クレア』(文藝春秋) 1990年8月号 黒沼克史「猫と武田花と眠そうな町」
『CLINIC BAMBOO』(日本医療企画) 1991年2月号 「複眼スコープ 被写体は不意に 「お待たせしました」とやってくる」
『KAWADE夢ムック文藝別冊 武田百合子』(河出書房新社 2004年)

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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