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【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.33 「つかのまの廃墟」 に建築の解放を見る 宮本隆司『建築の黙示録』(平凡社 1988年) 鳥原学

終わりのない再開発が続いている都市空間で、ある時、宮本隆司は失われていく建築の声を聞いた。歴史的な建物は、解体されていくその束の間だけ生きている姿を晒すのではないか。その発見から始まった宮本の写真は、人間と都市とのあり方を問い続けている。

 

「つかのまの廃墟」写真

東日本大震災の翌年、2012年には東京スカイツリーを筆頭に、渋谷ヒカリエなどの新たな大規模商業施設が、23区内に相次いで開業した。いずれの施設も連日メディアに取り上げられ、一日あたりの集客も万単位だと報道されている。その一方で、同じメディアは東北の沿岸部の廃墟となった街の様子や破壊された原発の姿を繰り返し伝えた。これらが同じ国の風景かと思うと、どうにも不思議な気がしてならなかった。

被災地の風景は、何度も写真で見た敗戦直後の風景と重なるものだった。米軍の空襲を受けた日本の各都市が、ガレキと廃墟の広がる焼野原だったということが連想された。だが経済成長とともに都市が再建されるなかで、戦争の傷跡を具体的に物語る廃墟は姿を消していったのである。

写真家の宮本隆司は、日本の大都市にある廃墟は、広島の原爆ドームだけだと私に語った。廃墟とは、ローマのコロッセオのように廃墟の姿のままで保存されているものを指すというのである。ならば、確かに原爆ドームは廃墟である。無残な姿を晒し続けることで、被爆の記憶を未来へと繋ぐため、1966年にそのままの姿で遺されることが広島市議会によって決められたのだった。

廃墟とは、過去から未来を予見する役割がなければ存在しえないのである。その点でいえば、宮本が1988 年に出版した『建築の黙示録』で撮影した解体中の建築もまた、廃墟ではない。宮本自身もそれを否定して、「つかのまの廃墟」と呼ぶのである。

この「つかのまの廃墟」が鮮烈な印象を与えるのは、何より被写体となった建物の重厚さによっている。解体されている建築は、1985年のつくば科学万博のパビリオンを除けば、国内外の歴史的なモニュメントといえるものばかりだ。

たとえば、写真集の冒頭を飾るのはドイツ表現主義を代表する1919年竣工のベルリン大劇場であり、国内では戦前の浅草の賑わいを偲ばせる1911年に竣工した浅草松竹映画劇場、戦前・戦中には政府に反対する思想犯や左翼活動家を多数収監していた1915年竣工の中野刑務所(旧・豊多摩監獄)など、建築誌にも名を刻んでいる名建築なのである。その分厚い屋根や壁が取り払われて鉄骨の構造がむき出しになり、断面を露出させた姿は痛々しいが、どこか温かい感触がある。建物に流れていた時間や人の営みが想像させられたりする。

しかし、宮本が惹きつけられたのはもっと別の雰囲気である。解体現場には「不思議な爽快感」があると言うのである。1989年のある建築雑誌のインタビューではこう述べている。

「建築が築後の歩みを終え、ようやく人間の手を離れて建築自身になったという感じですね。要するにものがものに立ち返ったというか、もの自身として存在しているように感じたんですね」

美術の世界では、用途を失ったモノは「オブジェ」と呼ばれる自立した存在になり、新しい見方を人に示す存在になる。つかの間の廃墟もまた、オブジェになるのだ。宮本はそのようなもとして「つかの間の廃墟」を捉えたのである。

この『建築の黙示録』が出版されるとすぐに大きな注目を集め、撮影者の宮本は新鋭の建築写真家として脚光を浴びた。だが、彼はそのたびに「建築写真家」という肩書きを否定している。じっさいに建築写真を多く手がけ、作品にもその撮影技術・技法を使ってはいたが、それまでの建築写真家とは違った角度から建築を眺め続けていたのである。

 

1973年の写真家

1973年の早春。多摩美術大学のグラフィックデザイン科の卒業を控えていた宮本隆司は、鹿島出版会が発行する『都市住宅』の募集告知を見て編集部を訪ねている。この5年前、1968年に創刊された同誌は、建築雑誌の中でひときわ異彩を放つ存在であった。住宅を軸に都市におけるコミュニティのあり方を掘り下げた特集と、そこに使われる写真やレイアウトの組み方は、他誌と一線を画したといわれるほど斬新だったのである。けして大部数を誇っていたわけではないが、若い建築家や学生の熱い支持を受けていたのである。

『都市住宅』の名編集長といわれた植田実(まこと)は、面接で緊張している宮本に「写真は撮れるの?」と尋ね、宮本が頷くとこう続けた。次の日曜、私と一緒に谷中の町並みを撮影してみないか。そして「できれば月曜にそのプリントを持ってきてほしい」と。それは一種の採用試験のようなものだった。

宮本はその依頼に懸命に応えた。徹夜で暗室作業をして写真を間に合わせたのである。このときの写真は横位置の黒々としたイメージで、特に優れた点はないように見える。だが植田は、これを同誌4月号の特集「住居の地理学」で8ページにもわたって掲載した。大胆な起用は何を評価したものだったのか。後年、植田はその点について次のように述べている。

「試験みたいな感じで撮ってもらった谷中の家と道の光景は、1973年の都市状況を生きている若者の美意識が、古い世界を通して何とも率直に表れていた」

もしこのとき撮影技術が問題にされていれば、今日の宮本はいなかっただろう。何しろ建築写真の基本である、建物の水平と垂直を正確に表現するためのアオリと呼ばれる、カメラの角度調整やレンズを動かして歪み補正や被写界深度の調整を行う基礎技術について知識もなかった。写真は好きだったが、街のスナップしか撮ったことがなかったのである。

宮本が写真に強い関心を持つのは、多摩美術大学に入学した1968年。奇しくも『都市住宅』と同年に創刊された、写真同人誌『プロヴォーク』に刺激されたことによる。

わずか3号で終わった同誌には、評論家の多木浩一、写真家の中平卓馬、高梨豊、森山大道らが参加していた。彼らの、激しく手プレしたうえに粗い粒子によるざらついたモノクロのスナップショットは、「アレ・ブレ写真」などと形容された。その暴力的なスタイルは。テーマを語るために使われたり、人を惹きつけたりするための、写真によって虚像をつくることを否定する強い意思の表明だった。写真はもっと自由な思想を生み出す力があるのだと、彼らは実作と理論で示そうとしていた。

中平の熱のこもった写真論は、若い写真家予備軍に強い影響を与えた。そして、中平が多摩美術大学系列の専門学校、多摩芸術学園で講師を務めていたことが、宮本にとっての重要なきっかけとなる。

当時は大学紛争の時代である。宮本が入学してしばらく経つころから、大学では多摩芸術学園の写真科の生徒を交えて闘争が始まった。映画研究会に属していた宮本も、後にやはり写真家となる石内都らの同人とともに、美術家共闘会議、通称「美共闘」を結成している。その闘争のなかで宮本は『プロヴオーク』を知り、街に出てスナップを撮り始めたのだった。

今、当時の写真について宮本は「見られたものではない」と言う。とはいえ、カメラを通して街を見るという経験は、都市に対する視点を育てたのではないだろうか。植田が「1973年の都市状況を生きている若者の美意識」と評したものを宿していったのである。

 

未来都市の中で

宮本が『都市住宅』に関わったのはわずか1年あまりに過ぎない。だが収穫は大きかった。まず技術的には、大型カメラの扱いを身につけたことで『プロヴォーク』を真似たスナップとは違う、独自の表現への第一歩を踏み出すことができた。また新鋭の建築家たちとの出会いも、都市や建築への理解を深いものにさせたはずである。

何より、さまざまな建築物を撮影したことが大きかった。ことに宮本は、施主自らが工事にまで関わるハンドメイド・ハウスなど規格外の建物に惹かれている。広島市の旧広島市民球場の横にあったバラック街「原爆スラム」を見たときには、「人間はやりたい放題好き勝手に住むことができる」ことに新鮮な驚きを覚えたとも語っている。そんな宮本の志向は、掲載された写真にも表れていた。当時の写真について植田は「あまりきれいごとになっていない写真」と評しているが、これもまた的確な指摘だと思えるのである。

『都市住宅』を離れた宮本は別の建築雑誌の編集を経たのち、作家を目指して1976年に独立。活動を始めるにあたって渡米し、ニューヨークとカナダのバンクーバーに滞在して作品を制作した。約1年の武者修行のような旅から帰国すると、1977年、ポートレート作品による初の個展「晩香坡・カナダの街から」を開催した。だが特段の反響はなく、それから数年間は模索の期間となった。

転機は1983年の初夏に訪れた。『アサヒグラフ』の取材で向かった中野刑務所の解体工事に、大きな衝撃を受けたのである。宮本は、いわば昭和の負の歴史を象徴する建物として捉えられていたこの巨大な赤レンガの建築が、完全に解体されるまで半年間通いつめた。そしてこれ以降も、国内外で解体中の建築を求めた。ただ、多くの場合は解体工事の作業員が手を休める早朝や、昼休みのわずかな時間に撮影しなければならなかった。この点でも「つかのまの廃墟」だったのである。

東ベルリンのベルリン大劇場の解体現場を撮影できたのも、偶然なことに周囲に人気がなかったからだった。東西冷戦の当時、外国人が無許可で撮影しているのが見つかれば大騒動になっていただろう。

そして1986年3月、宮本は2度目の個展「建築の黙示録」を開催して大きな反響を得た。さらに2年後に同名の写真集を出版すると、注目を集め、以降の廃墟ブームの火付け役と目されるようになった。この世評は宮本自身の廃墟に対する認識と離れているため、妥当かどうかは疑問ではある。だが1980年代後半という時期は廃墟への願望が大衆的なレベルで沸き上がってきた時代であったことは間違いない。

当時、日本中の都市は再開発ラッシュに突入していた。各地でホールや美術館等の文化施設と広場や巨大なアトリウムを持つ商業施設が計画された。首都圏に例を見るなら、横浜港の造船所や旧国鉄の操車場は、オフィスビルや商業施設が林立する「横浜みなとみらい21」に生まれ変わった。渋谷区の長い歴史をもったサッポロビールの工場跡は、1994年に東京都写真美術館を擁する複合型商業施設「恵比寿ガーデンプレイス」となっている。

ところが、こうした高度に機能的で清潔な都市空間が広がるなかで、人々は快適さだけを享受したわけではない。圧迫感や息苦しさをも感じ、人の手触りがあった古い街並みを懐かしむ声もまた強まっていった。そんな時代に登場した『建築の黙示録』に、人々はかつてあった歴史的な建築への幻想と、新しい建築群にもいつか訪れる廃墟への予感を見たのである。

この『建築の黙示録』以降も、宮本は建築を取り上げた作品を発表していった。それも、香港の魔窟「九龍城砦」や、ホームレスのダンボールの家をとらえた「CARDBOARDHOUSES」、あるいはオウム真理教のサティアンなど規格外の建築が主題となった。
これらの作品は一見すると『建築の黙示録』とは違って見えるのだが、現代の都市と建築から消えている人間の手触りや、その痕跡について考えさせられてしまう作品という点で共通する。まさに彼が好んだハンドメイド・ハウスを追っていったように見える。かつて発見した「人間はやりたい放題好き勝手に住むことができる」という確信が、こうした宮本の仕事を貫いていたのである。

 

宮本隆司(みやもと・りゅうじ)

1947年、東京生まれ。多摩美術大学グラフィックデザイン科卒業。『都市住宅』『住宅建築』編集部に在籍したのち、1976年フリーの写真家に。
代表的な写真集に1988年刊行の『九龍城砦』『建築の黙示録』がある。1989年、木村伊兵衛写真賞受賞。1996年、ヴェネッィア・ビエンナーレ建築展に参加、阪神淡路大震災被災写真を日本館に展示し金獅子賞受賞。2005年、前年の世田谷美術館個展により芸術選奨文部科学大臣賞受章。2014年、奄美群島、徳之島にて『徳之島アートプロジェクト2014』実行委員代表として企画運営を行い、ピンホール写真作品を展示するなど活動を広げる。2019年、個展『宮本隆司 いまだ見えざるところ』(東京都写真美術館)開催。

参考文献

「宮本隆司写真展 壊れゆくもの・生まれいずるもの」図録(世田谷美術館 2004年)
土方正志『写真家の現場―ニュードキュメント・フォトグラファー四人の生活と意見!』(JICC出版局 1991年)
「宮本隆司 建築物を撮る―解体と創造が折り重なる現場」
『10+1』「特集=建築写真」(第23号 INAX出版2001年3月)
『日経アーキテクチュア』(日経BP社)1989年7月24日号 宮本隆司「レンズを通して見た現代の廃墟」
「すまいろん」(住宅総合研究財団) 2006年冬号 高梨豊、植田実、中谷礼仁
「すまいにおける写真 写真におけるすまい」 宮本隆司「「建築写真」という写真について」

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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。

鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より

 

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