
【連載】時代を写した写真家100人の肖像 No.40 性差を超えた鮮烈なヌード表現 高木由利子『Nus Intimes (ヌ・アンティーヌ)』(用美社、1994年) 鳥原学
高木由利子は、小さなころから多様な文化に触れて育った写真家である。
やがて人の身体とその存在感を見つめるファッションという領域を仕事にし、最後に選んだのが写真だった。その写真は、男性目線でつくられてきた日本のヌード写真に新たな価値を加える先駆的な表現と評されている。
生命への興味
美術史にもとづけば、裸体をテーマとした絵画や写真は、主に「ネイキッド(Naked)」と「ヌード(Nude)」に分けられる。ネイキッドとは服を着ていない状態、いわば素の身体を写した作品である。一方のヌードは、そこに美の理想をまとわせた姿である。もちろんその理想は、作家個人の資質と社会状況によって変わってくる。だからこそ優れたヌード作品からは、永遠を目指す写真家の意識と、生きたその時代の息吹が見えてくるのである。
たとえば戦後すぐに流行した作品には、暗い時代から解放された人々の歓びが託されている。高度経済成長後の1970年代にはプライベートな感覚の、「私写真」と呼ばれる作品が増えている。そして、1980年代後半に大きな驚きを持って迎えられた高木由利子の作品にも、彼女が求めた美についての永遠性と、それが成立した同時代性とが表れている。
具体的に見てみよう。1994年に出版された代表的な写真集『Nus Intimes(ヌ・アンティーム)』には、8年間にわたる制作の成果である4つのシリーズが収録されている。取り組んだ順に「nus intimes(親密なる裸体)」 から、「supra-orientalism(オリエンタリズムを超えて)」「biological experience(植物的体験)」「confused gravitation(混乱する引力)」となっている。
この並びは、写真家の進化を物語っているように思われる。「nus intimes」や「supra-orientalism」は西洋的な室内で、被写体は遊戯性に富んだポーズを取り、ユーモアを醸している。「biological experience」では造形と動きの要素が加わり、そのイメージは抽象化している。そして「confused gravitation」で複数の人物が組み合わさった、より複雑なコンポジションへと変容しているのである。しかも、モデルの身体は、室内を飛び出して自然の造形と一体化し始めるのだ。この壮大な展開を見ていると、知らずのうちに高揚感が沸いてくるのだ。
どのシリーズでも高木のカメラの前に立つのは、専業のヌードモデルではなく、彼女が出会ったクリエイテイブな人々である。その対話のなかで生まれたそれぞれの作品は、彼らとのコラボレーションの結果であり、ポートレートとも言えるのである。ただし、ポートレートだとしても、重要なのは顔ではなく存在の全体性をつかむことだと高木は語っている。
「その人の肉体を通して表現される、その人の生まれ持っている本質、育った環境によってはぐくまれる気質ーーもっと大きく言えば精神も肉体もひっくるめた生命体全体に興味を持ちます」
対象の個性を見つめるというこのスタンスによって、男女の性差さえ超えた鮮烈なイメージが生まれたのである。女性の写真表現史に詳しい笠原美智子は、1991年12月の個展「混乱する引力」を見て次のように評した。
高木の写真は「男と女が対等のポジションで存在する」ことを驚き、「写真家は二人が偶然に創り出す男と女の日常の緊張と弛緩を逃さずに捉える。それは絶妙なバランスである。このバランスは現代を生きる同世代の女性の琴線に触れる」ものである。
これまで、日本のヌード写真表現を作ってきたのは男性の写真家たちであった。そのため裸体に投影された美の理想には、男性の持つ性的な欲求がかなり含まれていた。だが、高木の作品は、その文脈により解放的で風通しのよい、新しい価値観を加えた。それは一種の、しなやかな革命でさえあったと言えよう。
多様性の時代に
高木のプロフィールを見ていると、あの自由な好奇心は、さまざま異文化体験によって育てられてきたのだと分かるだろう。世界のさまざまな土地で人や風景と出会い、文化的ムープメントを吸収し、その度に葛藤しつつも自分の価値観を見出してきたのである。そんな彼女にとって、最初の異文化体験はまだ物心つく前のことだった。
1951年に東京で生まれた高木は、父の仕事の関係で3歳から5歳までをニューヨークで過ごしている。その後再び東京に戻ると、良き主婦を夢見る少女として成長した。しかし高校時代にたまたま見に行った海外作家のポスター展をきっかけに、グラフィックデザインの仕事に憧れを持つようになったという。そして1969年に、武蔵野美術大学の商業デザイン科に進学するのだが、この年は大学紛争のピークでもあった。それでも高木はバリケード封鎖された学校に通った。学生による自主講座や集会に参加し、わずかに開かれる授業を受けたのである。
ところが学園紛争が沈静化し平常の授業が進むにつれて、グラフィックデザインに向かない自分を発見していったという。社会的なコミュニケーション機能の一部を担うのではなく、主体をもった個人として創造性を発揮してみたいと思うようになったのである。
父が仕事でポルトガルに赴任することになったのは、ちょうどそんな時だった。3年生になっていた高木も退学して、これに同行することを決めた。そして、移住した現地でファッション・デザインという新しい目標を見つけたのである。きっかけは、街角の子どもたちの素朴さに惹かれ、彼らに似合う服を作りたいと思ったことだった。
そして1973年、高木はイギリスのノッティンガムにあるファッション学校に入学することを決めた。偶然にも、当時まだ無名のポール・スミスのパートナーがクラスの主任教授だったことから、スミスの小さな第1号店で時々アルバイトすることになり、本物のクリエイターの精神に触れることができたのである。
そして3年後に卒業するとパリに渡り、さっそくフリーのデザイナーとして活動を始めている。保守的なロンドンとは違い、パリではセンスが認められればキャリアがなくともすぐに仕事を任せてもらえたからだ。高木は、そんな徹底した実力主義が気に入ったという。実際、早いうちにいくつかのプランドのデサインを任されるようになると、それからの8年間は懸命に働いている。
1970年代のファッション界は、さまざまな価値観が登場し「多様性の時代」として非常な活況を呈した。「モードの帝王」イヴ・サン=ローランがリードし、高田賢三や三宅一生など日本のデザイナーがデビューし、新しいムーブメントによって熱気が満ち溢れていた。ことに三宅のショーに対する注目は過熱し、高木もそのショーを見て感激している。
こうした熱気の渦中で仕事ができたのだから、まさに夢のような日々なのだが、もちろん仕事は多忙を極める。春と秋、半年ごとに開催されるコレクションの準備に追われ、移動の飛行機の中でデザイン画を描くこともあった。
強いフラストレーションを感じるようになったのも当然といえる。人間関係に悩み、自分の信じる美しさとは別に、売れるものだけを追い続けねばならない。そんなサイクルに追い詰められて、これは「自分を裏切り続けなくちゃならない職業」だと気づいていった。大学時代に向かないと思ったはずの商業主義、それを担う機能の一部になっていた。高木がカメラを手にし、写真を撮り始めたのは、まさにこういう状況の中であった。
「脱ぐこと」と「着ること」
それまで、写真といえば大学の授業でわずかにかじった程度だった。だが、仕事のために訪れたモロッコでその風景に惹かれ、本格的に撮り始めようと思った。カメラという小さな箱を通して自分の視点を確かめる、そんな私的な創作行為が気に入ったのだった。
以降、簡単な手ほどきを受けただけで、高木は独学で自分の表現を模索した。はじめのうちはファッション・デザインの仕事を続けていたが、3年ほどできっぱりと辞めた。生活やお金のための仕事はしないと決意したのである。
そんな高木に思いがけない仕事が舞い込んできた。旧知のポール・スミスから、日本向けカタログ用の写真を高木の思うように撮ってほしいとの依頼だった。この仕事で、高木はクリエイターとのコラボレーションがいかに豊かな成果を生むかを知ることができ、ファッション写真に対しても肯定的になれたと語っている。
そして1986年、高木は初めてヌードを撮った。水色のカツラを使い友人のモデルと遊び感覚で撮影しているうちに、自然な流れでヌードになっていたのだという。だが撮ってみると意外に難しい。服を脱ぐと、様になっていた雰囲気が消えるような気がした。考えてみれば、古代文明から連綿と表現され続けてきたヌードこそは芸術の原点であり、それだけに難しいのである。高木は取り組みがいのあるテーマを見つけたのだった。
高木が長く暮らしたヨーロッパを離れて日本に帰国したのはこのすぐ後である。翌年には初個展「ラフたち」を日本橋のツアイト・フォトサロンで開催して好評を得た。それから毎年のように個展やグループ展に参加し、急速にその存在が知られていくようになる。
ちょうど1980年代後半から90年代前半は、ヌード写真のムーブメントが起こっていた。日本では篠山紀信や荒木経惟らが精力的に展開し、アメリカではアウトサイダーの性を赤裸々に見せたナン・ゴールディンやロバート・メイプルソープが現代美術シーンに登場。ファッションでは男生ヌードを昇華したハーブ・リッツやブルース・ウェーバー、挑発的なベッティナ・ランスの女性像が人気を集めていた。
これらムーブメントの特徴は、1970年代のファッションと同じ「表現の多様性」である。その背景には、先進国を中心に都市化が拡大し、人々の閉塞感が高まったことがある。リアルな身体性の回復への願望が高まり、性差についての認識も変わりつつあった。そこで「精神も肉体もひっくるめた生命体全体」を描こうとする高木の表現にも注目が集まったのだった。
ただし、高木自身はそこに留まらず、さらに先を求めた。その志向は植物の力を象徴する「biological experience」や、バランスを失った世界のなかで再び力強い大地とのコミュニケーションを求めた 「confused gravitation」によく表れている。ことに後者はスタジオだけでなく、バリ島やハワイで出会った人たちをモデルに撮影を行なった。このシリーズはさらに 「THE BIRTH OF GRAVITY」へと展開している。
さらに興味深いのは、同時にヌードと対極的なプロジェクトを進めたことだ。高木は最先端の服を携えて世界各地を旅し、現地で出会った人にそれを着てもらった。コスチューム・アーティストのひびのこづえとの『Skin』、三宅一生との『PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE TRAVEL THROUGH THE PLANET』『Beyond Time and Space』など。これらは高木作品のなかでも、ファッションとは何かを問い直す、根源へ向かったシリーズとして位置づけることができよう
写真の中では、「脱ぐ」ことも「着る」ことも、身体をあるイメージの高みへと昇華させると言う点では同じでなのである。高木はその両極から、すべての人間を包み込む大きな共通原理に向かって、今もなお旅を続けている。
高木由利子(たかぎ・ゆりこ)
1951年東京都生まれ。武蔵野美術大学でグラフィックデザインを学んだ後、ロンドンでファッションデサインを学ぶ。フリーのデザイナーとしてヨーロッパを中心に活躍。その後、写真家に転向。作品は東京国立近代美術館や神戸ファッション美術館、横浜美術館、上海美術館などでコレクションされている。海外でも作品展を開催。主な写真集に『Confused gravitation』『Skin』『Sei』などがある。
参考文献
土方正志『写真家の現場―ニュードキュメント・フォトグラファー19人の生活と意見!』(JICC出版局 1991年)
「高木由利子 ヌードを撮る―肉体の向こう側に見えるもの」
『太陽』(平凡社)1992年3月号 笠原美智子「写真展日誌 高木由利子「混乱する引力」
『ブレーン』(宣伝会議) 2006年7月号 石川九楊、高木由利子、宮島達男「青山デザイン会議 特集:アジアの感性、日本の感性」
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文・写真評論家 鳥原学
NPI講師。1965年大阪府生まれ。近畿大学卒業。フリーの執筆者・写真評論家。写真雑誌や美術史に寄稿するほか、ワークショップや展示の企画などを手掛ける。2017年日本写真協会学芸賞受賞。著書に『時代を写した写真家100人の肖像』、『写真のなかの「わたし」:ポートレイトの歴史を読む』、『日本写真史』など多数。
鳥原学 時代を写した写真家100人の肖像 上・下巻(玄光社/定価2500円+税)より
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